丸物(まるぶつ)とは京都府京都市下京区に存在した、かつて全国的に店舗展開をした百貨店の一つである。中林仁一郎(なかばやし・にいちろう、1891年(明治24年)生 - 1960年(昭和35年)没)によってに創業された「中林呉服店」がルーツで、1920年(大正9年)1月に京都駅前へ「京都物産館」として進出し、1926年(大正15年)10月の京都物産館新館(6階建)完成と共に百貨店形態の店舗を開設したのが始まりである。1930年(昭和5年)6月には京都物産館の名称のまま岐阜市柳ヶ瀬に支店を開店して多店化に乗り出し、1931年(昭和6年)にはそのマーク(○の中に物産館の「物」)から「丸物」に商号を変更すると共に豊橋市広小路の「豊橋丸物」を開業、1939年(昭和14年)5月20日には名古屋市に百貨店三星(みつぼし)を開店するなど、東海地方での店舗展開を積極的に行った。太平洋戦争後は大垣市にあった「マルイ」(東京の月賦百貨店だった丸井とは無関係)を傘下に入れた「大垣丸物」や、八幡市中央区(現在の北九州市八幡東区中央町)にあったが戦災で焼失していた「九州百貨店」を再建して1954年(昭和29年)に開業した「八幡丸物」と、店舗展開を進めた。東京進出を目指して1954年(昭和29年)10月に池袋ステーションビル(パルコの前身)に資本参加し、事業目的をステーションビル運営から百貨店業に変更し、1955年(昭和30年)に「新宿ストアー」を買収して開業した「新宿丸物」として東京に進出し、全国チェーンストア化が完成した。1957年(昭和32年)12月には池袋駅に「東京丸物」を新築開店し、本格的に東京進出を図った。しかし、東京進出直後の1960年(昭和35年)に全国展開の指揮を執ってきた創業者中林仁一郎社長が70歳で急逝して強力なリーダーを失うとそれまで急速に進められた出店は百貨店法の成立による出店難と相俟ってほとんど行われなくなった。また、東京初の店舗として開業した新宿店は区画整理で立ち退いた露天商等によって開業したルーツの関係もあって入居していたストリップ劇場の『新宿ミュージックホール』が入っていたのを追い出せずに営業した為「ストリップ劇場がある百貨店」となって売上が低迷し、1965年(昭和40年)11月に閉店に追い込まれ、池袋駅の「東京丸物」も大丸東京店(東京駅)やそごう東京店(有楽町)と異なり、百貨店法施行後だったため、売場面積が当初構想の半分に削減されるなど、競合他店に比べてハンディを負っての出店となった結果、売上は伸び悩み、1969年(昭和44年)6月に閉店し、東京からの完全撤退を余儀なくされた。同じ1969年(昭和44年)には「八幡丸物」も閉店して九州からも撤退しており、京都と東海地方のみに展開する初期の店舗網へ縮小することとなった。その後残った店舗の業績も低迷したため、1977年(昭和52年)5月には近畿日本鉄道の資本参加を受け、本体の「株式会社丸物」も「株式会社京都近鉄百貨店」、関連会社の枚方丸物も「枚方近鉄百貨店」となり、「丸物」百貨店の名称は消滅した。そして「近鉄百貨店」に移って営業した店舗も1999年(平成11年)9月30日の岐阜店、2007年(平成19年)2月28日の京都店と次々と姿を消し、2012年(平成24年)2月29日の枚方店閉店で近鉄百貨店の運営する旧丸物の店舗が消滅し、「近鉄百貨店」は単に「丸物」の法人格と上場資格のみ(権利能力)を引継いだ存在として残ることとなった。なお、パルコは「東京丸物」の法人格を引継いだのみではなく、村野藤吾設計の「東京丸物」の建物を改装しただけで現在も「池袋パルコ」として営業しており、こちらの方が丸物の事業を継承していると見ることも可能である。京都物産館として開業した最初の店舗で本店だった。上京区にマルブツ西陣分店があった。「京都近鉄百貨店」になった後も本店だったが、「近鉄百貨店」との合併後は旧近鉄百貨店の阿倍野本店が本店となった為、支店扱いの京都店となった。京都駅前に立地していることを意図した「FRONT KYOTO まるぶつ」のキャッチコピーが掲げられてきたが、1977年に「丸物」から「京都近鉄百貨店」に変更され、「FRONT KYOTO」のキャッチコピーもやがて使われなくなった。1997年のジェイアール京都伊勢丹開業後は顧客を京都伊勢丹に大きく奪われ、後に若者向けの「プラッツ」に業態転換を図るも効果はほとんどなく、ついに2007年に閉店に追い込まれた。創業者中林仁一郎社長の死後に出店された唯一つの百貨店店舗で、かつ本店のあった近畿地方で唯一つの支店であった。開業後2年足らずで近畿日本鉄道の資本参加を受けた為、丸物の名称を使用した期間は一番短い店舗となった。京都物産館岐阜支店として開業した最初の支店であり、数少ない本体直営の店舗であっただけでなく、京都の本店以外では丸物という名称の始まりから終わりまで営業を続けた唯一つ店舗でもある。岐阜最大の繁華街である柳ヶ瀬の中核店舗として大きな支持を集めたが、柳ヶ瀬西部の再開発で1977年(昭和52年)9月に高島屋が進出して競争が激化し、アピタ・ジャスコ・カラフルタウンなどの郊外への相次ぐ大型店出店に伴う都心部の小売売上縮小の影響を受けて閉店に追い込まれた。解体された店舗の壁面の一部に、1945年(昭和20年)の岐阜空襲による煤けた跡が残っていたため、その部分は岐阜市平和資料室で保存している。岐阜店と共に丸物となった年から丸物として営業した店舗である。増床を繰り返しながら豊橋を代表する百貨店となったが、西武百貨店と提携し「豊橋西武」となって丸物グループから離脱した。アピタ、ジャスコ、イトーヨーカドーなどの郊外に進出した大型店の影響で売上が減少し、閉店に追い込まれた。「マルイ百貨店」を傘下に入れて岐阜店についで県内2店目として経営された店舗。丸物との提携解消後3度商号を変更しながら営業を継続したが最終的に名鉄グループの経営合理化の一環で閉店した。現在も建物は残り美術館として利用されている。戦災で焼失した「九州百貨店」を傘下に入れて再建した店舗。法人格は株式会社近創として現在も近鉄グループの一員として存続している。東京丸物開店前に靖国通沿い既存の建物「新宿ストアー」を買収し、東京進出1号店として開店。ストリップ劇場の『新宿ミュージックホール』が入っていたのを追い出せずに営業した為「ストリップ劇場がある百貨店」となって売上が低迷し、10年ほどで閉店に追い込まれた。民衆駅としての池袋駅ビルの建設を目的に設立された「池袋ステーションビル」を買収して開店。着工前に買収できた為、新宿と異なり百貨店用のビルとして丸物側の主導で設計・建築された。壁面の彫刻や「夢の階段」と呼ばれる大階段がある壮麗な建物だったが、パルコへの改装時に彫刻などは無くなっている。そごう大阪店を評価した中林仁一郎が村野藤吾に設計を任せた。中林仁一郎が設立し、事実上「丸物」の名古屋進出として開業したが、「丸物」の名称は使用されなかった。開店して数年で第2次世界大戦に突入し、戦時中の統合令で目の前にあった名古屋の老舗呉服店をルーツとする「十一屋」と対等合併した為、完全な支配を行えなくなり、事実上「丸物」グループを離脱することになった。合併で誕生した丸栄はその後「丸物」のライバル高島屋と提携し、近年は業績不振に悩み、現在は興和の子会社となっている。
出典:wikipedia
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