アラミス・ニン・ラミレス (Aramis Nin Ramírez, 1978年6月25日 - ) はドミニカ共和国・サントドミンゴ出身の元プロ野球選手(三塁手)。右投右打。、16歳の時にピッツバーグ・パイレーツに入団。傘下のA+級リンチバーグ・ヒルキャッツ時代のには137試合に出場して、打率.278・29本塁打・114打点を記録、この年のリーグMVPを獲得した。その後、プロ4年目となる5月26日のミルウォーキー・ブルワーズ戦でメジャーデビュー。これは球団史上9月2日にミゲール・ディローンがメジャーデビューして以降では最年少の記録となった。その後、シーズンでは72試合に出場し、打率.235・72三振と荒削りな面が目立ったが、6本塁打・24打点の成績でデビュー1年目を終えた。は、チームに同じ三塁手のエド・スプレイグが加入したことで、シーズンの大半をAAA級ナッシュビル・サウンズで過ごすことになった。AAA級ナッシュビルでは131試合の出場で、打率.328・21本塁打・74打点を記録。シーズン終盤にはメジャーに昇格し、三塁手のレギュラーとして18試合に出場したものの、打率.179と精彩を欠いた。は開幕をメジャーで迎えたが、4月を終わった時点で打率.167とほとんど結果を残せず、再びAAA級ナッシュビルに降格。しかし6月半ばにメジャーに再昇格し、8月下旬の故障者リスト入りまでの73試合の出場で、打率.256・6本塁打・35打点を記録した。、新本拠地となるPNCパークが開場し、4月8日のヒューストン・アストロズ戦では球団タイ記録となる1試合3本塁打を記録するなど、開幕から好調をキープした。最終的に自身初となる3割30本100打点を達成し、三塁手として球団史上にパイ・トレイナーが119打点を記録して以降最も多い112打点を挙げた。はシーズン序盤こそ好成績を残していたが、中盤から一気に調子を落とし、最終的に規定打席到達者では最低となる打率.234を記録してしまった。翌も5月中旬まで打率2割台前半と不調が続いていたものの、そこから一気に固め打ちを行い、7月には打率3割台まで上昇した。2003年7月23日にケニー・ロフトンと共に2対3のトレードで、シカゴ・カブスへと移籍。移籍後も好調を維持し、63試合で15本塁打を記録した。その後、初となるポストシーズンにも出場を果たし、フロリダ・マーリンズとのリーグ優勝決定戦では3本塁打の活躍を見せた。、3年ぶりに3割・30本塁打・100打点を達成し、にロン・サントが記録した33本塁打を上回るカブスの三塁手として新記録となる36本塁打を記録。9月16日のレッズ戦では3本塁打・1二塁打で球団タイ記録となる1試合14塁打を記録している。は初選出となったオールスターで負傷のスコット・ローレンに代わり三塁手として先発出場。8月24日のアトランタ・ブレーブス戦で初回を終えた時点で負傷交代。翌25日に左大腿四頭筋の負傷により故障者リスト入りし、シーズンを終えた。2004年から2006年まで3年連続で30本塁打・90打点を記録、打率も3割前後で安定している。2004年と2005年は共に、全試合に出場していれば、40本塁打を越えるペースで打っていた。はチームのもう一人の主砲であるデレク・リーが故障したが、38本塁打・119打点といずれも自己ベストとなる成績を残した。シーズン終了後、FAを行使するものの、11月12日にカブスと5年約7500万ドル(6年目は球団とラミレス双方にオプション)の契約に合意し、残留を決めた。は、チームにアルフォンソ・ソリアーノが加わり、リーと共に強力なクリーンナップを形成。7月には新たに設けられた月間賞である「クラッチ・パフォーマー・オブ・ザ・マンス」に選出されるなど、勝負強さを発揮した。最終的にひざの故障による途中離脱もあり、本塁打こそ4年ぶりに30本を切ってしまったが、3割100打点を記録。リーグ「最狭」と言われていた三塁守備も改善され、リーグ平均の指標に近づくなど守備面でも評価を上げるシーズンとなった。は、打率こそ.289に止まり、2年連続での打率.300超えとはならなかったものの、自己最多の74四球を記録し、出塁率も自己最高の.380を記録。本塁打と打点は前年の数字に上積みし、27本塁打・111打点という成績でシーズンを終えた。また、得点圏では.310とよく打ち、シーズンオフにはハンク・アーロン賞に選出された。、打撃好調を維持していたが、故障の影響でシーズン約半分を欠場。それでも打率.317・15本塁打・65打点という成績を記録。ほぼ半分で記録した成績なので、単純に2倍すると30本塁打・100打点は記録出来るペースだった。、2年ぶりに規定打席に到達したが、打撃は低調で打率.241に留まった。持ち前のパワーでは、25本塁打を放った。、打率も以前の水準に戻し、打率.306・26本塁打・93打点の好成績をマーク。シーズン後には、自身初のシルバースラッガー賞(三塁手部門)に選出された。2011年シーズン終了後の12月13日、ブルワーズと3年契約を結んだ。移籍1年目となる、直近5シーズンでは自己最多(タイ)となる149試合に出場。打率.300・27本塁打・105打点・9盗塁という好成績をマーク。打率は2年連続で.300を超え、本塁打こそ30本には及ばなかったが、4年ぶりとなる100打点超えを果たした。盗塁も自己ベスト、二塁打50本はリーグ1位、守備面でも初めて+の守備防御点を記録するなど、攻守に充実したシーズンを過ごした。その活躍ぶりが評価され、シーズンオフにはMVP投票で9位につけた。、92試合の出場に留まり打率.283・12本塁打・49打点と、不完全燃焼となるシーズンを過ごした。2月27日、2015年シーズン限りで現役を引退する意向を表明した。2015年7月23日、マイナー選手とのトレードで、プロ入り時の古巣・パイレーツに移籍した。2015年11月5日、オフに故郷ドミニカのウィンターリーグであるリーガ・デ・ベイスボル・プロフェシオナル・デ・ラ・レプブリカ・ドミニカーナのティグレス・デル・リセイへの参加を最後に、現役を引退することを正式に表明した。強靭なリストによってレフト方向への特大本塁打を放つことができる。パイレーツにいた頃は積極的に打ちにいく典型的なフリースインガーだったが、カブスに移籍してからは選球眼を改善させ、ボール球の変化球を振ることが少なくなり、三振が減少し、四球が増加。シーズン平均で60個程度と非常に少なくなったが、は94三振を記録している。守備に関しては、エラーが多かったが、カブスに移籍してからは減少。肩は強いわりにダブルプレーの成功数が少ない。また、もともと遊撃手だったが、マイナー時代に三塁手にコンバートされた経緯がある。
出典:wikipedia
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