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石戸四六

石戸 四六(いしど しろく、1941年6月4日 - 1980年8月2日)は、日本のプロ野球選手(投手)。秋田県大館市出身。長男ではあるが、6月4日に生まれたことに因んで「四六」というユニークな名前が付けられた。“六四”ではないのは、父親によると「六四だと頭が重くて、下が軽いからフラフラするだろう。四六だと下が大きくて安定する。男が一生、フラフラ生きてどうするのだ」であるためという。秋田商業高校時代は、エースとして1958年の夏の甲子園に出場するも、初戦(2回戦)で板東英二を擁する徳島商業高校と対戦し、自らのエラーもあり0-3で敗れた。社会人野球の日立製作所に進み、に日本鉱業日立の補強選手として都市対抗に出場。1回戦で倉敷レイヨンを破って勝利投手となる。同年9月末に契約金500万円、初任給15万円で国鉄スワローズに入団する。入団契約後に契約金(支度金)を使って、東京有楽町の国鉄球団事務所からタクシーに乗り、途中運転手と温泉宿に1泊して大館の実家まで帰ったといわれる。入団して3年間は勝ち星がなかったが、には対大洋戦での桑田武の1安打のみに抑えた無四球完封勝利を含むチーム2位の8勝を挙げて、この頃から主力投手に加わる。翌からは4年連続二桁勝利、からは3年連続でチーム最多勝を記録して、金田正一が去った後の弱体化したサンケイ(アトムズ)のエース格として、佐藤進・石岡康三らとチームを支えた。この間のにはペナントレース最終戦の対広島戦で勝利し、金田に次いで球団2人目の20勝を達成(防御率2.84はリーグ8位)。翌も16勝を挙げる。は体調を崩して一転して不調となり、3勝15敗に終わった。7月の対中日戦で11連敗をストップする勝ち星を挙げたのがプロでの最後の勝利になり、また最後の意地でもあった。肝機能障害に慢性胃炎を併発していたこともあり現役を引退。現役引退後は、故郷に戻ってスナック『神宮』を開く。スナックの経営は順調であったが、寿司屋(『球寿司』)に事業の手を拡げて失敗し、失意の晩年を送る。失意の底であったには、ヤクルトが初優勝して記念品として贈られたネクタイピンに涙を流して喜んだという。1980年8月2日に肝硬変のため39歳の若さで没した。サイドハンドから繰り出す鋭いシュートを主武器に、スライダー・シンカー・ナックル等を自在に投げ分けた。無類の酒好きで、いわゆる酒仙投手の異名を取った選手の一人である。試合が終わり宿舎に戻ると、ステテコ姿で日本酒を湯のみ茶碗で嗜むのが常であった。その風格に、チームメイトたちは “村長”の愛称を捧げ奉った。打倒巨人に闘志を燃やし、巨人戦で勝利投手となった日には「幸せだ。俺はこの時の為に生きている。」と言って日本酒を飲み倒し、背広・ワイシャツ・下着の順番で脱いでゆき、最後はパンツ姿でぶっ倒れるまで飲んだという。

出典:wikipedia

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