株式会社キティ・フィルムまたは株式会社キティは、日本の舞台・映画製作会社、アニメ製作会社、芸能事務所である。ポリドールK.K.(現:ユニバーサルミュージック (日本))の社員で小椋佳や井上陽水のディレクターを務めていた多賀英典が、1972年に芸能プロモーター(興行師)として独立し「キティミュージックコーポレーション(後のキティエンタープライズ)」として創立。キティ・フィルムは邦画の制作プロダクションとして設立された。1995年にキティエンタープライズは石坂敬一率いるポリグラムK.Kに買収され、多賀の手許を離れたため(後に、ポリグラム・ミュージック・ジャパン→キティMMEを経てユニバーサルJもしくはユニバーサルシグマもしくはNAYUTAWAVE RECORDS(レーベルは「Kitty Mercury」)へと変遷)、株式会社キティがキティグループの中心企業となっている。キティ・フィルムはアニメーション制作プロダクションとして『うる星やつら』『みゆき』『めぞん一刻』『らんま1/2』『銀河英雄伝説』を制作したことでも知られ、一時期三鷹にアニメスタジオを設けていた。これらは系列の旧ファイブエースや旧キティエンタープライズからビデオソフトとしても売り出された(→#歴史)。実写映画での代表作には『限りなく透明に近いブルー』『翔んだカップル』などがある。1990年代までは芸能事務所として永瀬正敏 や石原真理(当時は真理子)等一世を風靡した人気タレントが多く所属していた。現在の事業はアーティスト(歌手)のマネジメントが中心で、映像制作では1980年代のような活発な動きはなくなっている。またキティ・フィルム作品のうち『銀河英雄伝説』『鬼神童子ZENKI』、高橋留美子作品などの著作権は売却しているため、公式サイトや現在発売中の商品のクレジットには「キティ・フィルム」の標記はない。キティ・フィルムの関連会社として、アーティストのマネジメント・かつて制作した邦画やテレビドラマの権利管理・音楽出版を受け持つ芸能事務所の「株式会社キティ」、アニメファンクラブ運営と各アニメ作品のライツ管理・ビデオソフト発売元を受け持つ株式会社キティライツ&エンターテインメント(旧・ファイブエース=5-ACE)がある。多賀英典が1972年にキティ・ミュージック・コーポレーションを創業。もともと多賀自身がサウンドと映像の融合にこだわり続けていたため、東宝の『初めての旅』を皮切りに映画、テレビドラマに携わり、それでは飽き足らなくなって1979年に映画製作に進出。映画製作会社キティ・フィルムを設立した。この時集められたのが日活出身の伊地智啓・長谷川和彦・相米慎二である。映画監督の長谷川和彦、作家の村上龍、プロデューサーの山本又一朗が参加して、同年にキティ・フィルムの製作で村上龍原作・監督の実写映画『限りなく透明に近いブルー』を公開。山本又一朗はキティ・ミュージック・コーポレーションで、同年に実写映画『ベルサイユのばら』を製作した。多賀の意向で村上龍を監督に据えた『限りなく透明に近いブルー』と『だいじょうぶマイフレンド』(1983年)は興行的に大失敗を記録。キティをひっくり返すぐらいの損失を計上した。それを『うる星やつら』の大ヒットが救ったと言われている。当時は親会社のポリドールK.K.よりキティの方が勢いがあったため、音楽で稼いだ金を湯水のごとく映画制作に注ぎ込んだ多賀の強引さが、後のキティ凋落のきっかけになったと言われている。翌1980年には柳沢きみおの漫画『翔んだカップル』を薬師丸ひろ子主演、相米慎二監督で映画化。これ以降、漫画を原作にすることが多くなり、後述の通りアニメへも進出。薬師丸との関係では、1981年に公開され23億円の配給収入を挙げたその年最大のヒット作品『セーラー服と機関銃』を角川春樹事務所と共同製作。薬師丸をスターダムへ押し上げ、監督した相米の名も高めた。1981年にはアニメ製作に乗り出し、テレビアニメ『うる星やつら』を製作。『うる星やつら』は映画化もされて成功し、以後、『めぞん一刻』『らんま1/2』と高橋留美子の漫画をアニメ化する路線を敷いた。さらに自社作品のファンクラブを運営して、全国でイベント開催するとともに会報の発行などを行った。ファンクラブは『うる星やつら』のテレビシリーズが終了する1986年3月までは「うる星やつらファンクラブ」、以後は「キティ・アニメーション・サークル」(KAC)と称した。『うる星やつら』の前半は、アニメ制作会社スタジオぴえろが、『うる星やつら』後半から『めぞん一刻』『らんま1/2』『スーパーヅガン』などではスタジオディーンが、『うる星やつら』末期の映画や『銀河英雄伝説』『YAWARA!』はマッドハウスがキティ・フィルム作品の実制作を担った。アニメ部門の責任者は、タツノコプロで企画文芸部に属したことのある劇画村塾出身の落合茂一で、その縁から高橋留美子原作作品がフジテレビで長期放映されるきっかけとなった。制作を外部へ委託するばかりでなく、やはりタツノコプロ出身でプロデューサーの宮田知行(現・J.C.STAFF社長)や演出家の西久保瑞穂を招いてキティ・フィルム三鷹スタジオを設けるなど、一時期は自前でスタジオを持ってアニメ制作を行っていた。1983年にはあだち充の漫画『みゆき』の映像化権を取得して、実写映画を制作するとともに三鷹スタジオでアニメ化した。キティ・フィルム作品では、田原の企画発案で1987年5月に『うる星やつら』テレビシリーズ全話を収録したレーザーディスクのソフトが予約限定で発売され、全50枚・価格33万円と破格の仕様ながら初回分が完売したことで話題を集めた。後に一般的になるLD-BOX、DVD-BOXと呼ばれる商品形態の先駆けであり、映像作品の2次利用の成功例としても知られている。三鷹スタジオではその後OVA『街角のメルヘン』や『銀河英雄伝説』を制作。特に1988年に第1期のリリースが始まった『銀河英雄伝説』は、プロデューサーの田原正利の手腕で、第1期で全26話・全編110話という当時の常識を打ち破る話数と、当初は通信販売のみでのリリースという異色OVA作品として話題になった。1989年に、シネマハウト、ニュー・センチュリー・プロデューサーズ、メリエス、プルミエ・インターナショナル、ディレクターズ・カンパニーといった中堅の制作プロダクション・プロモーション会社ともにアルゴ・プロジェクトの立ち上げに参加。発足から1980年代まで製作した映画は主に東宝の配給で公開されていたが、以後はアルゴ・プロジェクトにより作品が配給された。『YAWARA!』『らんま1/2』放映中の1992年に創業者の多賀が自らの不祥事の責任をとる形でグループの全経営から引退、発足当初から実写部門で製作を行ってきた伊地智専務が急遽代表に就任した。それと前後して、1992年4月に落合がアルゴ・プロジェクトに転出(後にパオハウスを設立して完全独立)、落合に代わって『めぞん一刻』以降の高橋原作作品のプロデューサーを務めた松下洋子が日本アドシステムズへ移籍、後継の中川順平も1995年に伊地智や田原と共に独立して株式会社ケイファクトリーを設立するなど有力スタッフが退社したことも影響して、1990年代末期にはアニメ制作から撤退した。2007年3月17日、マジックメールやアステル東京を手がけていたITベンチャーの株式会社YOZANがキティ・フィルムの50%以上の議決権を持つキティライツ&エンターテインメントを2007年4月9日をもって完全子会社化することを発表。同時期に買収した飛鳥新社と合わせてYOZANのコンテンツビジネス事業として収益を図る目論見が立てられた。キティライツ&エンターテイメントは公開会社の子会社となったため、YOZANの事業報告書にキティライツの事業内容が取り上げられた。しかし、2007年11月にコンテンツ部門を含めた社業全体の損失計上や、ライツ社に関して過去の法人税滞納が簿外債務となっている可能性があり、YOZAN本体の決算発表に支障が生じた。これらを理由にリストラを進める形となり、2008年5月20日に経営悪化に伴う事業整理の一環として、多賀にYOZANが保有するキティライツの全株式を売却。YOZANグループから離脱し再び経営が多賀の手許に戻ることとなった。企画・製作
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。