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四谷

四谷(よつや)は、東京都新宿区の地名で、旧四谷区の地域内である。町名では四谷だが、駅周辺地域を「四ツ谷」「四ッ谷」と表記されることもある。住居表示未実施で一丁目から四丁目まで存在する。また、この地区を中心とするかつての行政区(四谷区)の名前でもあり、この周辺をさす地域名称でもある。(四谷区は旧東京府15区のひとつ、旧東京市15区のひとつ、後の35区の一つ。1947年、新宿区発足により消滅。)今日、四谷地区という明確に線引きされた地区が存在するわけではないが、行政サービスに於いては、新宿区四谷特別出張所管区域界、四谷警察署管轄区域を指し、これらはほぼ新宿区発足直前の旧四谷区域に準じている。他にも四谷の総鎮守である須賀神社の氏子区域とする見方もあり、実際にはおよそ旧四谷区域のうち、新宿地区と明治神宮外苑一帯をのぞいた地区(おおむね、靖国通り(北)・JR線(南東)・外苑西通り(西)に囲まれた地区と、その周辺)の総称である。また町名上の四谷とは、四谷一丁目から四谷四丁目(JR四ツ谷駅から四谷四丁目交差点までの新宿通り沿線エリア)のことである。新宿区内の牛込・新宿地区、千代田区麹町地区、港区元赤坂に隣接しており、ホテルニューオータニや上智大学・東宮御所・迎賓館・新宿御苑・明治神宮外苑などに至近。1829年編纂の『御府内備考』(地誌大系)の記載によると、かつては旧四谷区域にとどまらず、江戸城外堀以西の郊外をも含む広大なエリア(内藤新宿・大久保・柏木・中野)の総称として四谷が使われていたこともあった。このほか、麹町区紀尾井町(現在の千代田区麹町五丁目、上智大学の南)に存在した税務署の名前は「四谷税務署」であった。(少なくとも1910年から1940年までの30年間はこの地にこの名称で存在している。)このように、四谷地区は時代とともに大きく移り変わっている。江戸時代以前には後の内藤新宿町のあたりまでを含めて潮踏の里(しおふみのさと)、あるいは潮干の里(しおほしのさと)、よつやの原(よつやのはら)などと呼ばれるすすき原であった。「よつや」という言葉が文献上に初めて登場するのは1590年(天正18年)に内藤清成が記述した『天正日記』である。清成がこの付近を調査する際に派遣した家臣の道案内をした角筈村の関野五郎兵衛が、別名「よつや五郎兵衛」と呼ばれていた。この「よつや」が何を意味するかは不明である。その後徳川家康が甲州街道と青梅街道を設置した際、その途中に設けられたのが四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)で、これが地名としてはじめてつけられた「四谷」である。1634年、江戸城西北に外堀を設置することになり、立ち退きを余儀なくされた麹町地区の寺社群が四谷地区に移転しはじめた。須賀町・若葉二丁目(かつての寺町・南寺町)一帯に寺院が多く見られるのはこの集団移転によるものである。外堀が完成したのは1636年。堀の岸は石垣で築かれ、併せて見附(警備のための城門)が設けられた。今日JR四ッ谷駅付近に見られる四谷見附跡(千代田区六番町)は当時の名残のひとつである。寺院の移転と見附の設置により、四谷地区の様相は一変した。寺院の周辺には門前町屋が軒を並べ、商人職人の活動が栄えた。これに加え、1657年の明暦の大火は江戸市街の三分の二を焼失するほどの規模だったため、大火を逃れ四谷地区などの外堀周辺に移り住んだ人も少なくなかったといわれている。四谷地区は徐々に江戸市中に組み込まれ、郊外地区から都市部へと変貌していった。1894年、甲武鉄道(現在のJR中央線)の市街地延伸(すでに立川 - 新宿間は開通済み)により、四ツ谷駅と信濃町駅が開業。原材料や商品の輸送が容易になり、眞崎鉛筆(三菱鉛筆の前身)や岩井商会・村井商会の煙草など、四谷地区の製造業は飛躍的に発展した。大きく二つの説があるが、いずれも定説とはなっていない。まず、梅屋、木屋(久保屋)、茶屋、布屋の4軒の茶屋があったため、「四ツ屋(四ツ家)」となったとする説だが、この4軒がそろったのは元和になってからであるため、江戸時代以前から「よつや」と呼ばれていた説明がつかない。もうひとつは千日谷、茗荷谷、千駄ケ谷、大上谷の四つの谷(四つの谷を紅葉川渓谷、鮫河谷、渋谷川渓谷、蟹川渓谷とする説もある)からとの説だが、これもわざわざ四つの谷だけを抜き出す理由がなく、既に江戸時代から疑義が出されている。四谷地区では主要な道路が「田」の字型を形成している。東西に伸びる道路(北から順に、靖国通り・新宿通り・首都高速4号新宿線)と、南北に伸びる道路(東から順に、外堀通り・外苑東通り・外苑西通り)が整備されており、古くから「交通の要所」と言われてきた。これらの道路に沿って、「ヲ」の字型に鉄道・地下鉄が整備されている。靖国通り直下には都営地下鉄新宿線が、新宿通り直下には東京メトロ丸ノ内線が、外堀通り - 首都高速4号線新宿線に沿ってJR中央線が伸びている。これに加え、1996年外堀通りに沿って東京メトロ南北線が開通した。1903年12月に東京市街鉄道が新宿駅に乗り入れて以来、1970年の第五次都電撤去までのおよそ70年間、外苑東通り(四谷三丁目交差点以南)・新宿通り・外堀通り上を路面電車(都電)が走っていた。また、1915年から1945年までの30年間、京王電気軌道(現在の京王線)の起点は現新宿四丁目交差点そばの京王新宿三丁目ビル建設地付近で、甲州街道に沿って西に路線が伸びていた。この起点駅の名称は何度か変更され、四谷新宿駅という名称になったこともある。(ほかに新宿三丁目駅、新宿駅、追分駅、新宿追分駅とも。)起点駅は1945年新宿西口に移設された。現在、旧四谷区域には小学校が5校、中学校が1校、高等学校が2校、大学が1校存在する。新宿区内の児童数・生徒数はピーク時(1960年前後)のおよそ15 - 20パーセントにまで減少しており、小中学校の統廃合が四谷地区でも進んでいる。東京都新宿区の地名で、四谷地域内である。四谷地域の東部に位置し、千代田区(紀尾井町・麹町・六番町)との区境にあたる。

出典:wikipedia

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