人民連合(じんみんれんごう、Unidad Popular、 UP)は、チリにおいて1960年代末から70年代にかけて存在した左翼政党連合の名称である。1970年に成立したアジェンデ政権の与党であったが、73年のクーデターによって崩壊した。日本では、国名を加えて「チリ人民連合」と称されることも多い。起源は、1937年に社会党・共産党・急進党・労働組合などが結集して結成された人民戦線に遡る。人民戦線は1938年の大統領選挙で急進党のペドロ・アギレ・セルダを、1942年の大統領選でも急進党のファン・アントニオ・リオスを当選させたが、その後人民戦線の各党間の対立が激しくなり、社会党が人民戦線を脱退、残る共産党と急進党の同盟によって1946年に大統領に当選した急進党ガブリエル・ゴンサレス・ビデラは、1948年、それまで共闘していた共産党を非合法化、人民戦線は名実ともに崩壊した。1956年、非合法下の共産党は社会党・他左翼諸党派と再び連合して人民行動戦線(FRAP)を結成、1958年にイバニェス政権下で共産党が再合法化されると、同年の大統領選挙では社会党のサルバドール・アジェンデが人民行動戦線の統一候補として立候補、28.8%の得票を得たが、3人の有力候補の中で僅差で2位となり敗北した。続く1964年の大統領選挙でもアジェンデは再び人民行動戦線から立候補、得票を39%に伸ばしたが、保守・中道の統一候補となったキリスト教民主党のエドゥアルド・フレイに大差で敗れた。1969年、キリスト教民主党の左派が脱党、またかつて人民戦線の共闘相手だった急進党が左傾化したことなどから、人民行動戦線はより広範な政党連合に移行、人民連合と改称した。そして1970年、3度目の立候補となったサルバドール・アジェンデが大統領に当選した。しかし、アジェンデ政権下で、人民連合に所属しない武装組織の左翼革命運動(MIR)を極とする急進派と共産党を極とする穏健派の対立が発生し、アジェンデ政権末期の政治的混乱の一因ともなった。1973年のクーデターによってアジェンデ政権は倒れ、人民連合も崩壊した。人民連合に参加、あるいは関係があったのは、以下の各党である。
出典:wikipedia
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