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鈴鹿サーキット

鈴鹿サーキット(すずかサーキット、Suzuka Circuit)は、三重県鈴鹿市にある国際レーシングコースを中心としたレジャー施設。F1日本グランプリや鈴鹿8時間耐久ロードレースなどの開催で知られる。レーシングコースの他に遊園地やホテル等があり、モビリティリゾート(自動車を題材とする行楽地)を形成している。日本初の全面舗装と観客席の両方を備えたサーキットとして、1962年に本田技研工業(ホンダ)によって建設された。現在はホンダグループでモータースポーツ関連施設を運営する会社、モビリティランドによって運営されている。1950年代末より日本の2輪メーカーはマン島TTレースへの海外挑戦を始めたが、日本初の常設サーキットとして1936年にオープンした多摩川スピードウェイの廃止後、国内の常設サーキットは未舗装の浅間高原自動車テストコースしかなく、代替コース建設案も進展しなかった。ホンダ創業者で、多摩川スピードウェイで行われた第1回大会にも参戦した本田宗一郎は、レースの勝利とモータースポーツの普及のためには本格的なサーキットが必要であると確信し、自社で建設するよう命を下した。巨額の投資を危ぶむ声もあったが、藤沢武夫専務が自宅を抵当に入れるなどして推進に向けての意見をまとめ、社内にレース場建設委員会が発足した。複数候補地を検討した末、スーパーカブ増産工場として完成した鈴鹿製作所の隣接地を買収することになった。当初は現在よりも北東寄りの水田を転用して1周約4kmのコースを計画していたが、本田の「米のできる水田を潰したら、目が潰れる! お米を粗末に扱うな!」との一喝で、丘陵地帯の50万坪の松林を造成することになった。後にホンダランド取締役となる塩崎定夫がコースレイアウト設計グループの責任者となった。塩崎は鈴鹿製作所の生産管理を担当していたが、サーキット設計に関しては全くの素人だった。1960年8月に最初のコースレイアウト原案を作成したが、この初期案は立体交差が3か所あるという特異なレイアウトだった。その後、ヨーロッパのサーキットを視察し、ザンドフールト・サーキットの支配人を務めており、なおかつモンツァ、ブランズ・ハッチ、ホッケンハイムリンク、ニュルブルクリンクなどからなるサーキット連合体A.I.C.P.を組織運営して取りまとめていたジョン・フーゲンホルツ () を招聘して詳細設計を依頼、施工全体にわたる助言を受けた。河島喜好は「ヨーロッパのコース設計者(フーゲンホルツ)と(鈴鹿の)山の中を長靴をはいてマムシにおびえながら歩いた」「タイヤの片方だけが減ってしまうのを防ぐために(フーゲンホルツから)立体交差をつくって8の字にすればタイヤの両サイドが削れるようになる」と立体交差を設計提案されたことを証言している。塩崎案ではパドックの裏手にヘアピンがあったが、「そんな所にコーナーがあると、騒音がうるさくて場内放送が聴き取れないだろう」というフーゲンホルツの助言を受けて廃止された。塩崎は地形の模型上にコースの線を引く際、土木工事よりも施設建設に費用を充てるため、なるべく土砂を削らないで済むよう心がけたという。1稿から5稿に推移するうちに次第に高速サーキットの様相を呈していき、最終的には「行きはテクニカルにコーナーをクリアして帰りは高速で戻る」というレイアウトになった。欧州視察時にはサーキットの舗装を靴べらで削って持ち帰り、舗装工事を受注した日本鋪道KK(現NIPPO)にサンプルとして提供した。その際、さらに施工会社が容易に特殊なサーキット舗装の構造を理解できるように、フーゲンホルツは各地サーキットの走行路の路面の舗装を茶筒状にくりぬいた供試体(サンプルコーン)を調査団に提供した。当時のA.I.C.P.加盟サーキットの舗装路面の転圧、幾層もの舗装の積み重ねかたなどの最先端技術をこの供試体によって日本へと持ち帰ることができた。当時の日本ではまだ高速道路が整備されておらず、塩崎は「日本では高速道路より先にサーキットが出来て、それの舗装を参考にして高速道路が作られた」と述べている。1961年2月、ホンダの全額出資により運営母体となるモータースポーツランド(現モビリティランド)が設立され、同年6月に工事着工。1962年9月にサーキットが完成し、同年11月3日 - 4日にかけてオープニングレースとして第1回全日本選手権ロードレースが開催された。付帯施設を含む総工費は15億円(現代に換算すると255億円)に達した。当時はオートバイで騒音を撒き散らすカミナリ族が社会問題化していた。藤沢は「子供のころからエンジンを楽しむことこそが、未来の自動車環境の発展に寄与する」という理念の持ち主で、当初からサーキットに家族連れで楽しめる自動車遊園地を併設することを考えていた。この「モータースポーツランド構想」の下、東京都の多摩テック(1961年)、奈良県の生駒テック(1961年)、鈴鹿サーキットのモートピア(1963年)、埼玉県の朝霞テック(1964年)が順次開園した。コースは東西に細長く、中間部分の立体交差を挟んで右回りと左回りが入れ替わる、世界的にも珍しい8の字形のレイアウトとなっている。コース全長は4輪で5.807km、2輪で5.821km。これは日本のサーキットの中でも最長である。コース幅は10 - 16m。コーナー数は20。最大高低差は52m。世界の多くのサーキットと比べ摩擦係数の高いアスファルト舗装である。レースイベントによっては、東西に分けたハーフコースで使用する場合もある。また、西ストレートの南側には、おもにジムカーナやカートレースが開催される南コース(全長1.264km)がある。かつて駐車場だった場所に1989年に作られ、規模の大きなレースが開催される時は駐車場として使用される。土地の高低差と低速〜高速コーナーのバランスが上手く配合されており、難易度が高く走り甲斐のあるコースとして評価されている。デビッド・クルサードは「自分がグランプリドライバーであることを本当に実感できるすごいコースだ」と語り、2009年のF1日本GPで優勝したセバスチャン・ベッテルは「神の手で作られたサーキットじゃないかと思う」と賞賛した。ジェンソン・バトン、ルイス・ハミルトンら他のドライバーからも好意的な意見が寄せられている。S字コーナー区間について、ベッテルは「F1マシンはこういうコーナーを攻めるために作られているんだ」と興奮気味に話す。マーク・ウェバーも「ここをいかに速く走り抜けられるかが男を決める」と語っている。2005年に国際自動車連盟 (FIA) がF1ファンを対象に行ったアンケートでは、「好きなサーキット」の項目においてモンテカルロ市街地コース(モナコ)、スパ・フランコルシャン(ベルギー)、シルバーストン・サーキット(イギリス)、モンツァ・サーキット(イタリア)に次ぐ5番目、欧州以外ではトップの得票を得た。FIAはサーキットの安全基準を等級化しており、日本国内では鈴鹿と富士スピードウェイが最上級の「グレード1」に認定されている。アクシデント発生時のコースマーシャルの対応、メディカルスタッフの救護体制は整備されており、F1開催サーキットの中ではモナコと並んで世界一という高い評価を得てきた。しかし、開業から50年を経る間に競技車両の走行速度が上昇したため、近年はコース幅やセーフティーゾーンの狭さが課題となっている。過去の改修工事ではトラックを内側にずらしてランオフエリアを拡張したり、2輪用のシケインを追加している。また、2輪・4輪両方での安全性を考慮し、舗装したエスケープゾーンの外周に砂利(グラベル)を敷く「ハーフ&ハーフ」という方式を採用している。それでも、コースレイアウトや立地条件から、安全面のキャパシティ拡大には制限がある。2003年のMotoGP日本グランプリで起きた加藤大治郎の死亡事故ではコースの安全性が問題となり、国際モーターサイクリズム連盟 (FIM) のグレードA認定を取り消されている。サーキット西方の鈴鹿山脈より流れこむ雲が「通り雨」を降らし、レースに影響を及ぼすことがある。コースが東西に長いため、西側と東側で天気が異なることもある。また、サーキットのある紀伊半島は台風の進路になりやすく、台風接近の影響でレースが中止または順延された事例がある。主なレース・イベントとしては3月のモータースポーツファン感謝デー、7月に2輪の鈴鹿8時間耐久ロードレース、8月にSUPER GTのインターナショナルSUZUKA1000km、10月にはF1日本グランプリが開催されている。また、スーパーフォーミュラと全日本ロードレース選手権は、4月に鈴鹿2&4レース(同時開催)と、最終戦でそれぞれの統括団体の名を冠した「JAF鈴鹿グランプリ」(10月末)・「MFJグランプリ」(11月)が開催されるのが恒例となっている。その他にスーパー耐久、フェラーリ・チャレンジ、ポルシェ・カレラカップ、FIA ALTERNATIVE ENERGIES CUP ソーラーカーレース鈴鹿、アジアロードレース選手権など多くの2輪や4輪レースが開催されている。モータースポーツ以外には2輪車安全運転全国大会、自転車のシマノ鈴鹿ロードレース、鈴鹿シティマラソンなども催されている。富士スピードウェイが日本GP(1960年代)や富士グランチャンピオンレース(富士GC)などのスポーツカーレース路線をとっていたのに対し、鈴鹿は長距離耐久レースやフォーミュラカーレースの開催を打ち出していた。国内のF2レースでは、全日本F2選手権とは別に鈴鹿でのレースを対象とした「鈴鹿F2選手権」が制定されていた。4輪では2006年F1日本GP予選でミハエル・シューマッハ(フェラーリ)が記録した1分28秒954。2輪では2015年の第47回 MFJグランプリレースでJSB1000クラスの中須賀克行(ヤマハ)が記録した2分05秒192。その他のカテゴリの記録は鈴鹿サーキット公式ホームページに掲載されている。初期のコース全長は6.00415kmで、1966年にはFIA国際トラックライセンスが下りた。1983年 - 1987年にかけて安全性確保、F1開催への基準クリアのために段階的にコースレイアウトやランオフエリアの改修が行われ、その後も継続的に改修が行われている。開設から40年以上が経過し、新設サーキットに比べてコース幅やランオフエリアが狭くなった。また、改修されて20年以上が経過したピットエリアやその上のメディアセンターなどの施設の老朽化などもFIAから指摘され、ピットとパドックエリアの拡充やモーターホーム施設の強化、コンピュータ機器の更新などが要求された。特にコース上の安全確保は緊急の課題であり、敷地の問題から東コースの改修は手付かずとなっていたが、F1再開催に向けて2007年から改修工事が行われた。国際レーシングコースを中心に、遊園地「モートピア」、鈴鹿サーキットホテル、レストランS-PLAZA、リゾート施設として天然温泉クア・ガーデン、オートキャンプ場、スポーツ施設としてボウリング場、テニスコートなどがあり、大型レジャーランドを形成している。以前はゴルフ練習場や、スノーボードゲレンデなどもあった。サーキットと隣接してホテルがあるために、選手やチーム関係者の宿泊先からサーキット内への移動が容易である。また修学旅行の宿泊地としても歴史がある。さらに、交通マナーの向上やドライビングテクニック向上を目的とした「交通教育センター」が設置されており、ホンダ製の自動車やオートバイを利用して自動車やオートバイの運転技術指導を行っている。二輪免許取得教習も行っていたが、2009年3月末日で入校申込を終了している。2012年7月7日には鈴鹿サーキット開場50周年を記念して場内のGPフィールドにてフォーミュラーカー、オートバイの運転をシミュレーションで体験できる新アトラクション「レーシングシアター」がオープンした。2015年9月28日に、サーキットカートの営業を11月15日に終了し、2016年3月19日からレーシングドライバーの佐藤琢磨をプロジェクトアドバイザーに迎え開発した「サーキットチャレンジャー」と命名された新アトラクションがデビューした。人里離れた場所にある国内の多くのサーキットと比べ交通手段は比較的恵まれており、特に近隣の各鉄道駅から徒歩20分から1時間程度である。また、鈴鹿市など自治体や地域住民もサーキットに協力的で、F1等の国際レース規模の大きなレースイベントを開催する際でも渋滞などの問題は発生するものの、長年の経験によるノウハウも持っていることから、概ね円滑に運営されている。2009年、国・三重県・鈴鹿市並びに周辺市町、観光・経済・交通等の関係団体が官民共同で「鈴鹿F1日本グランプリ地域活性化協議会」を設立。F1開催の時は白子駅からのシャトルバスが中勢バイパス建設現場をバス専用ルートとして運行し、2006年のF1開催時に比べ所要時間が半分に短縮された。2014年に開通した後も同区間を通行止めにして運用されている。

出典:wikipedia

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