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利根型重巡洋艦

利根型重巡洋艦(とねがたじゅうじゅんようかん)は、大日本帝国海軍の重巡洋艦。同型艦は2隻。太平洋戦争直前に竣工している。水上偵察機を6機搭載するなど航空索敵能力を重視し、ミッドウェー海戦やレイテ沖海戦など、数々の大規模海戦に参加した。福井静夫は本型を理想に近い巡洋艦と評している。日本海軍は航空索敵手段として水上機も重視しており、巡洋艦に水上偵察機を搭載することに熱心に取り組んだ。だがアメリカ海軍の巡洋艦は日本のそれを上回り、4機の水上機を搭載可能であった。そこで1934年(昭和9年)から最上型軽巡洋艦を改良した軽巡洋艦として本型の設計が開始された。主砲の門数を妥協した代わりに、水上機搭載数を一挙に6機に増やし水上機母艦的な能力を持った重巡洋艦としてアメリカ巡洋艦を凌駕する事を狙った。計画開始時が軽巡洋艦であったために、艦名も川にちなんだものとなっている。1935年(昭和10年)に起工した段階ではロンドン海軍軍縮会議の制限があったため、諸外国には「基準排水量8,636トン、水線全長187.21 m、喫水4.42 m、最大口径砲15.5 cm砲」という要目の巡洋艦と通告した。1936年(昭和11年)に軍縮条約から脱退したことで重巡洋艦の保有制限が失効し、建造途中で15.5 cm砲搭載の軽巡洋艦から、日本軍重巡洋艦の共通武装である50口径三年式20.3 cm連装砲を搭載した重巡洋艦へ設計変更された。また艦が完成する前に第四艦隊事件と友鶴事件が発生したため、急遽船体構造の見直しと強化が行われた。こうした諸処の設計変更と船体強化などにより、設計当初より排水量の増加と若干の速力低下があった。利根が1938年(昭和13年)11月に、筑摩が1939年(昭和14年)5月に就役した。なお、利根に搭載予定の15.5cm砲塔は1939年(昭和14年)2月に特務艦「知床」によって呉工廠から長崎造船所へ運ばれたという。艦の特徴は、20.3 cm連装砲塔4基を艦の前部に集中配置し、艦の後部は航空艤装となっていることにある。後部甲板はフラットではなく、階段状となっていた。この配置によって主砲と艦載機の位置が離れたため、艦載機が主砲の爆風で破損する危険性がなくなり、常に主砲を発射できるようになった。本級以前の日本重巡洋艦では、主砲と艦載機の待機位置が接近していたため、爆風で艦載機が破壊される危険性が常に存在した。実際に妙高型重巡洋艦妙高はスラバヤ沖海戦で、高雄型重巡洋艦高雄は駆逐艦ピルスバリーを撃沈した際にそれぞれ射出を待っていた艦載機を4番主砲の爆風で破壊してしまった。利根型も計画では6機の航空機を搭載可能だが、実際に搭載した数はそれよりも少ない。戦前は三座水偵2機、二座水偵4機、1940年(昭和15年)に三座水偵1機、二座3機、レイテ沖海戦時には零式水上偵察機5機だった。本型側面写真からもわかるように、砲塔は第2砲塔のみ一段高くなっており、第1・第3・第4砲塔は同レベルにある。第3・第4砲塔は後方に向けられている。砲の集中配置は、集中防御などの利点もあるが、重量配分上は不利な面もあった。また利根二代目艦長大西新蔵によれば、利根型の主砲散布界は大きすぎて命中率が低く、遠距離砲戦の場合、砲術長はお手上げだったという。しかし、研究の結果、並んで飛んでいく2つの砲弾の相互干渉が原因と判明した。そこで、一斉打ち方の際は左右両砲の発砲電路が0.03秒という微小な間隔で接続されるように改正され、この問題はまもなく解消した。。利根型は日本海軍が完成、就役させた最新最後の重巡である。しかしその設計の改良・後継型は計画されず、次級重巡建造計画は利根型の前級にあたる鈴谷型を僅かに部分改正した伊吹であった。

出典:wikipedia

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