的場 順三(まとば じゅんぞう、1934年9月15日 - )は、日本の元大蔵官僚。滋賀県出身。2006年9月から2007年9月まで安倍内閣の内閣官房副長官(事務担当)を務めた。大津市立皇子山中学校、滋賀県立大津東高等学校(現滋賀県立膳所高等学校)を経て、1957年京都大学経済学部卒業後、大蔵省に入省、同期に保田博(大蔵事務次官)、内海孚(財務官)、森田一、藤田恒郎ら。大蔵省主計局主計官、東京税関長、主計局次長、内閣官房内閣審議室長(内閣内政審議室長)を経て、国土事務次官。退官後、国土庁土地政策審議会委員、総理府阪神・淡路復興対策本部参与、中小企業金融公庫副総裁等を歴任。1995年から大和総研理事長、1996年8月より日本船舶振興会理事に就任。2006年9月、第1次安倍内閣の発足に伴い内閣官房副長官(事務担当)に就任( - 2007年9月)。2009年4月、旭日大綬章を受章。内閣官房内閣内政審議室長時代、内閣官房内閣安全保障室長を務めていた佐々淳行と意気投合した。佐々の著書によると「内政審議室と安全保障室は『お互い領空侵犯し合おう』(組織の壁を越えて協力し合おうという意味)と約束した」という。また、佐々が自身と後藤田の関係をまとめた『わが上司 後藤田正晴』の文庫版を出版した際、巻末の解説を的場が担当している。また、的場は当時の上司であった内閣官房長官・後藤田正晴にも気に入られていた。後藤田が政界引退後、フジテレビ系列のテレビ番組「平成日本のよふけ」に出演した際、佐々、岡本行夫(岡本も後藤田のお気に入りだと番組中言われている)とともに的場も出演している。なお、警察庁出身で衆議院議員の平沢勝栄は、的場の内政審議室長時代、後藤田の秘書官として、ともに後藤田の下で働いていた。1986年発表の前川リポート(経済構造調整研究会報告)の取りまとめにも奔走した。在職中であった1985年から1989年にかけて、昭和の次の元号制定準備にも関わり、国内の学者数人へ極秘裏に、新元号の候補作成を依頼していた。的場によるとこの間、10以上の元号候補が集められ、これらが昭和最後の前日となる1989年1月6日から7日にかけて「平成」「修文」「正化」の3つに絞られたという。『国の内外にも平和が達成される』という意味においても「平成」は政府として第一候補だったという。そしてアルファベットを使った略表記の際に「修文」と「正化」ではともにSとなって昭和のSとの区別が難しくなるが、「平成」ならHとなるのでそうした混乱はないことが決め手になった。なおこの元号制定の経緯、特に考案者については制定時に20年間の極秘事項とされた。竹下登(当時の内閣総理大臣)、小渕恵三(当時の内閣官房長官)らとの会談により、「考案者の名前が出れば、本人にまつわる色々なことからケチがつく。20年は黙っておくこと」として決められたものである。実際に当事者だった的場から「平成」の考案者は山本達郎であることが公表されたのは、改元から26年を経た後のことだった。2006年9月21日、前日に行われた自民党総裁選で当選した安倍晋三に祝電を送ったところ、翌22日に安倍から内閣官房副長官(事務担当)への就任を要請され、翌日要請を受け入れた。内閣官房副長官は自治省、警察庁、厚生省といった旧内務省系省庁の事務次官経験者が充てられるのが慣例となっていたため、大蔵省出身で退官後15年以上にわたり民間で過ごしてきた的場の起用は異例であった。的場の官房副長官起用は、安倍の掲げる政治主導の促進と「内閣の知恵袋」としての役割を期待されてのことだと言われている。内閣官房経験のある的場は石原信雄の後任として、かつて官房副長官就任が取り沙汰されたこともある。就任後は、定期的に迎賓館前で記者団の質問に答えている。しかし、2006年に就任した頃は16年近く中央省庁から離れていたこともあり現役官僚への人脈が乏しく、また、首相補佐官や閣僚との軋轢も多かったため「政権運営に支障をきたした」とも評された。
出典:wikipedia
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