吉成 信貞(よしなり のぶさだ、寛政9年(1797年) - 嘉永3年9月4日(1850年10月9日))は、江戸時代後期の水戸藩の藩士。幼名は小太郎・十五郎、諱は信貞。仮名は又右衛門、又衛門。号は慎亭、南園。字は履善。父は水戸藩士・吉成市大夫信友、母は板橋善衛門元信の女。妻は青山延于の女、次いで軽部六郎左衛門政行の女。子に吉成勇太郎信順、吉成恒次郎一徳がいる。位階は贈正五位。大竹雲夢に学問を学び、のちに藤田幽谷の門下となった。剣・槍・銃・射の武術にも優れた。文政4年(1821年)に家督を相続した。小普請組を経て、馬廻組、進者番に進む。徳川斉昭の水戸藩主襲封問題においては、斉昭派となった。天保10年(1839年)、郡奉行となり、大子陣屋に住む。藩の天保の改革の際には斉昭の側近として活躍し、主に民政の面で尽力。特に天保検地の実施、秋成新田(現・茨城県水戸市)の開拓、那珂湊(現・茨城県ひたちなか市)の大火対策などに治績を収めた。弘化元年(1844年)に斉昭が致仕となると、その宥免に奔走し、逼塞・謹慎・蟄居の難に遭った。本姓は坂上氏。白河氏の家臣に陸奥国三春城主田村氏庶流の吉成氏あり(ただし、本家の田村氏には平氏説がある)。佐竹氏の家臣を経て、水戸藩に仕官する。
出典:wikipedia
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