『傷だらけの天使』(きずだらけのてんし)は、1974年10月5日から1975年3月29日まで、毎週土曜日22:00 - 22:55に日本テレビ系で放送されたテレビドラマ。全26話。1997年には阪本順治監督により映画化もされた。本項では、テレビドラマ版と続編の小説版『魔都に天使のハンマーを』についても述べる。『白い牙』に続く“土曜夜10時の日テレアウトロー路線”第2弾で、2人の若者の怒りと挫折を描いた探偵ドラマ(犯罪ドラマ)。暴力団の抗争から捨て子の親探しまでストーリーはバラエティに富んでおり、後に脚本を担当した市川森一は「13人の脚本家と監督による壮大な実験劇」と表している。日本テレビ系列での土曜夜10時枠のドラマはこの作品で一旦途切れ、1992年4月の『悪女(わる)』(こちらは読売テレビ制作の番組)まで待つことになる。萩原健一が『スポーツニッポン』に、2009年11月1日 - 11月30日まで連載した『我が道』の初回によれば、「自分の相棒役にキャスティングが予定されていたのは火野正平であったが、火野が『斬り抜ける』などのレギュラー番組が決まりスケジュールが取れなくなったために水谷豊に変更になった」という旨のことを明かしている。また、当時、東宝側のプロデューサーの一人だった磯野理は、自身の回想本『東宝見聞録』にてHのスケジュールの関係で所属事務所の社長と揉めて、降板させたと記している。修と亨が暮らしていたビル。綾部探偵事務所からビルの屋上にあるペントハウスを借りていた。実際にロケが行われたのは、代々木駅隣(西口)にある代々木会館ビルで、かねてより老朽化しているため取り壊しの話が出るものの、いまだに当時のまま残っている。たびたび熱狂的ファンが進入を試み、住居侵入罪で逮捕される。演出は恩地日出夫、 撮影は木村大作。カメラに三脚をつける時間がないほどタイトなスケジュールでの撮影だったという。皮ジャンを着て、ヘッドフォンを付け、水中眼鏡を付けた修が眠りから目を覚まし、冷蔵庫の扉を開き、新聞紙をナプキン代わりに首から下げ、トマト、コンビーフ、リッツ、魚肉ソーセージに次々とかぶりつき、口で栓を開けた牛乳で喉に流し込む。当初は最後に牛乳を画面にぶっ掛ける趣向であったが、牛乳噴射のシーンをカットし、その直前の画面をストップモーションにすることで対処された。深作欣二は「仁義なき戦いシリーズ」五部作の最終作・『仁義なき戦い 完結篇』と「新仁義なき戦いシリーズ」一作目の『新仁義なき戦い』の間に演出を担当。深作は本企画には参加する暇がなく「ショーケンでこういうのやりたいんだけど」と言われ参加した。前述のタイトルバック(オープニング映像)と二話分を恩地日出夫が撮影していたが、放映では前後して深作が演出した二話分が第一話と四話になった。萩原健一は深作に会うなり「何で僕は『仁義なき戦い』の出られなかったのか」「僕があそこに出てなかったのは自分でも信じられない」と話していたと言い、本作品の撮影はスムーズに進んだという。深作はこの「傷だらけの天使」で初めて木村大作カメラマンと組んだが、木村も『仁義なき戦い』を観ていたから、手持ちキャメラでも負けないと、オートバイに乗ってキャメラを担いだという。この第一話で萩原扮する木暮修が古美術屋に強盗用のモデルガンを借りに来るシーンがあるが、その店の店主が金子信雄で広島弁を喋る『仁義なき戦い』の山守親分のようなキャラクターで登場する。萩原がもごもごと「このオジさんむかし広島でヤクザの親分だったから」などと言うシーンがある。「仁義なき戦いシリーズ」撮影中が縁でのカメオ出演と思われる。矢作俊彦が萩原、市川両者に許可を得て著作された小説版。最終回から30年後、ホームレスとなった修を描き、ドラマや俳優陣の経歴を知っていなければよくわからない小ネタ描写が散りばめられている。文自体はドラマの雰囲気そのままにイメージを壊さなかったものの、『実態あるものにしか価値は無い』と仮想空間、バーチャルリアリティを絶対悪とする内容は時代遅れだと賛否が大きく別れている。最終回後修は、東東京市(ひがしとうきょうし。埼玉県を東京都知事が市町村合併で吸収合併し東京都となっている)でホームレス仲間と賭けゲートボールでその日の銭をもうけていた。ある日、仲間の1人が軽口で修を名乗ったことで謎の集団からリンチされ事の真相を突き止めようと亨との別れ以降足を踏み入れなかった新宿へ出向く。
出典:wikipedia
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