鈴鹿峠(すずかとうげ)は、三重県亀山市と滋賀県甲賀市の境に位置する東海道(国道1号)の峠。標高は357m。滋賀県側は比較的なだらかである一方、三重県側は高低差が急激であり、現在でも箱根峠に次ぐ「国道1号有数の難所」と言われるほど、険しい区間が多い。東海道本線や東海道新幹線、名神高速道路もその険しさによる難工事が予想されたために、このルート採用を断念して中山道に迂回した経緯がある。現在では鈴鹿峠を越える国道1号とほぼ並行するルートに新名神高速道路の鈴鹿トンネルが開通しているほか、鉄道でも利用者は東海道本線より少ないが草津線がある。鈴鹿山脈のなかで最も低い位置にある峠で、古くから畿内から東国への重要なルートであった。壬申の乱に際しては、大海人皇子(後の天武天皇)に味方した伊勢国司の兵が鈴鹿山道(鈴鹿峠)を封鎖している。飛鳥時代に現在の亀山市関地区に鈴鹿関が置かれ、以後これより東を関東と呼んだが、当初は伊賀国を経由する加太越えの道が用いられていた。仁和2年(886年)、斎宮繁子内親王の伊勢行きを契機として鈴鹿峠を経由する新道(阿須波道)がひらかれ、その後明治にいたるまで東海道の本道として機能した。また、「鈴鹿山」と呼ばれる鈴鹿峠とその周辺の山地は、『後撰和歌集』以降歌枕として多くの和歌に詠まれた。盗賊の横行する場所としても名高く、新道開通12年後の昌泰元年(898年)には伊勢神宮への勅使一行が襲撃され、以後鈴鹿山の盗賊はたびたび史書に現れることとなる。こうしたなかで、坂上田村麻呂による鬼退治や、女盗賊立烏帽子(鈴鹿御前)の伝承が生まれた。峠をへだてて滋賀県側には土山の田村神社が、三重県側には坂下の片山神社があり、それぞれ田村麻呂や鈴鹿御前を祀り、室町時代・江戸時代を通じて東海道の旅人たちの守護神として崇敬された。江戸時代には東海道五十三次として坂下宿・土山宿が整備されたが、明治23年(1890年)に草津-柘植-四日市間に関西鉄道(現在の草津線-関西本線)が開通したことにより、東海道の要衝としての地位を失った。現在の鈴鹿峠は自動車社会の急速な進行に対応すべく国道整備が進み、 旧街道は東海自然歩道の一部として残っている。峠付近では、国道1号のバイパス整備が進んでいる。※荒天時は鈴鹿峠バイパス三重県側区間は徐行もしくは通行止めになる。また、冬場は路面凍結に注意を要する。
出典:wikipedia
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