テリー・リー・コリンズ(Terry Lee Collins , 1949年5月27日 - )は、アメリカ合衆国ミシガン州ミッドランド出身の元プロ野球選手(内野手)・監督。MLB・ニューヨーク・メッツの監督を務める。、イースタンミシガン大学卒業後、ピッツバーグ・パイレーツ傘下のチームに入団。途中、ロサンゼルス・ドジャース傘下チームに移籍。に引退した。同チームの監督に就任。6年間でリーグ優勝の功績を収めた。に古巣のパイレーツ傘下の監督を務めた。にメジャー(パイレーツ)のブルペンコーチに就任。にヒューストン・アストロズの監督に就任しまで務めた。からまではアナハイム・エンゼルスの監督を務めた。その後、シカゴ・カブススカウト、タンパベイ・デビルレイズコーチ、ドジャース育成担当を務めた。、オリックス・バファローズ監督に就任。チームとしては2003年途中のレオン・リー以来の外国人監督となる。4月8日の対西武戦(スカイマークスタジアム)で、トム・デイビーに対するボークの判定に抗議、東利夫球審への暴言により両リーグ通じたシーズン退場第1号となった。4月下旬から5月にかけて17試合で1勝16敗するなど序盤より低迷し、最下位に終わる。も序盤より低迷し、5月21日の試合後にオリックス監督を辞任している。千葉ロッテマリーンズで監督を務めていたボビー・バレンタインとは交友がある。また、現在独身であるが、結婚・離婚ともに経験していることをコリンズ本人が認めている。来日直後から、吉本興業のタレントシルクとはたびたび食事をともにするなどの交流があり、そこから交際説が度々報じられ、一時は「結婚秒読み」などと報じられていた。タフィ・ローズ、グレッグ・ラロッカ、アレックス・カブレラという実績ある大砲3人組に対し、コリンズ自らが「ビッグ・ボーイズ」と命名した。吉井理人など一部選手は、親しみをこめて「TC」の略称で呼んでいた。2009 ワールド・ベースボール・クラシック中国代表監督に就任した。初戦の対日本戦には0-4で敗れたが、チャイニーズタイペイには勝利し、WBC中国代表としては初の勝利を挙げた。オリックス監督時代にはあまり見られなかった、ベンチに戻ってくる選手にハイファイブをしたり、自らマウンドに行くなどの行動を積極的に行っていた。またオリックス時代の教え子の小松聖と談笑する場面もあった。その後は学生チームの指導者として活動した後、シーズンからニューヨーク・メッツのマイナーチームを統括する「フィールド・コーディネーター」を務めた。からはメッツの監督を務める。、サブウェイシリーズでニューヨーク・ヤンキースに球団史上初のスウィープ(同一カードを全勝すること)を果たした。同年シーズン終了後、就任から3年連続でプレーオフ進出を逃したが、若手の育成などが評価され、2015年まで2年間契約を延長が発表された。は25年ぶりで球団史上タイ記録の11連勝、9年ぶりの地区優勝を果たすと、ポストシーズンでもロサンゼルス・ドジャースとシカゴ・カブスを破り、チームを15年ぶりのリーグ優勝に導いた。2007年は、チームに2004年以来の最下位を記録させることになったが、序盤の1勝16敗という大型連敗が大きく響いた。また、終盤戦、楽天との3連戦での連敗などで大きく評判を落としてしまった。メジャー式の改革を標榜したが、選手への指導法にもギャップが生じ、先発投手が100球限定で中4日のメジャー式ローテーションを遵守したところ、アメリカ出身のトム・デイビーも日本式のローテーションに慣れきっており先発投手は不調であった。一方で中継ぎローテーションは驚くほどに機能し、オリックス救援投手陣の防御率はJFK擁する阪神に次ぎ12球団中2位を記録した。そのため2008年は先発ローテーションを日本式に移行、主軸の大型補強など、両者を折衷したチーム改革を進めていたが、ローテーション投手が全員故障し開幕から低迷、また主軸以外のレギュラーを固定しない併用制も批判を浴びる。その後、ゼロから投手陣を再編成し、スターティングメンバーも固定してくると調子も持ち直し、5月20日の交流戦初戦では阪神タイガースを逆転勝利で破り、パシフィックリーグの単独最下位を脱出するが、翌5月21日に突然辞任が発表された。シーズンに入り、チーム状況が思わしくない中、5月中旬あたりから進退に悩んでいた。後任には監督代行として大石大二郎ヘッドコーチが就任した。5月21日の対阪神戦に敗れた後の記者会見では「この数週間、チームを見て自分に何ができるか考えた時、限界が見えた」「野球は情熱がなくなった者が続けていくわけにはいかない」と語った。その後の5月24日に、同じく辞任したジョン・ディーバス打撃コーチ、マイク・ブラウン投手コーチとともに帰国した。オリックス監督時代のコリンズの選手起用に関しては賛否両論ある。2007年度は一軍と二軍の選手の入れ替えが極めて少なかったため、シーズンオフの契約更改の場では、ファームで三冠王を獲得したにもかかわらず、一軍ではほとんど出場の機会が与えられなかった迎祐一郎や香月良太など、一部の選手から起用に関する不満のコメントが出た。一方で、コリンズは目をつけた選手を積極的に起用し、それが奏功するケースも多かった。辛抱強く起用した坂口智隆や下山真二は、2008年には主力選手に成長した。下山はコリンズ辞任の翌日、自身のブログ上で「(コリンズの辞任は)ショックだった」「自分の野球人生を良い方に変えてくれた」と記し、コリンズに感謝の意を表している。また、辞任前日の5月20日にも、カブレラの負傷を受け、2年ぶりの一軍昇格となった一輝をいきなり6番スタメンに抜擢すると、一輝は7回裏2死満塁の場面でジェフ・ウィリアムスから逆転決勝2点タイムリーを放ち、後の飛躍のきっかけを掴んだ。また、投手陣の例としては、中継ぎで起用していた金子千尋・山本省吾・小松聖を先発に、加藤大輔を抑えに転向させ、更には開幕直後の先発投手陣の相次ぐ離脱を受け、一軍での実績が乏しかった近藤一樹を先発に抜擢した。すると、2008年に小松は15勝を挙げて新人王に、金子・山本・近藤も10勝(金子は2010年に最多勝をとるまでに成長した)を挙げ、加藤は33セーブで最多セーブ投手を獲得したように、結果的に投手陣の整備は成功した。
出典:wikipedia
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