豊田 隈雄(とよだ くまお、1901年(明治34年)12月13日 - 1995年(平成7年)2月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。大分県杵築市出身。旧制大分県立宇佐中学校より海軍兵学校第51期入校。席次は入校時293名中146番、卒業時255名中84番。戦後、復員庁第二復員局に勤める。在職中は極東国際軍事裁判の対策に携わる。日中戦争当時には台湾からの中攻による渡洋爆撃を考案、自ら搭乗してこれを指揮し、金鵄勲章を拝受している。しかしこの時の賞金1万円はついに支払われず、戦後佐藤首相より金杯を受けたのみで、請求権を放棄させられたという。戦場にあっては勇猛果敢な航空参謀、海軍武官補佐官としては、誠実かつ有能な外交官であった。戦後は、駐独海軍武官で(財)日独協会の副会長だった小島秀雄(兵44)に誘われて、日独協会の常務理事を務め、日独友好に尽力した。また若い人を好み、海軍時代や、東京裁判での経験をフランクに語り、その穏やかな性格と、公平な人柄から協会の青壮年部のメンバーからも人望があったという。裁判対策については、資料収集の他、戦後に海軍の高級将校OB達が行った海軍反省会の場で貴重な証言を多く残した。理由は後世のために海軍が行った良い事も悪い事も残し、教訓とするためだったと言う。また、兵学校において高松宮宣仁親王と同期であったことから、晩年は宣仁親王妃喜久子の嘱託を受けて宣仁親王の日記(『高松宮日記』)の出版事業にも従事していた。戦後は復員庁第二復員局調査部長から法務省司法法制調査部に移り、参与として同僚の井上忠男元陸軍中佐(梅津美治郎元秘書)と共に1955年から1973年まで元被告、弁護人らから資料収集と聞き取り調査を実施、これを数万ページ、約6000冊の資料として纏めた。長らく非公開のままであり、晩年のインタビューでは「これが早く世に出され、歴史の研究を志すすべての人々が自由に使えるようになるといいと思っています」と語っている。
2000年代に入り法務省から国立公文書館へ資料が移管され公開が始まり、様々な書籍で資料が利用されつつある。
出典:wikipedia
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