安土宗論(あづちしゅうろん)は、1579年(天正7年)、安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の宗論。安土問答とも称される。織田信長の命により、浄土宗の僧(玉念・貞安・洞庫)等と、法華僧(日珖・日諦・日淵)等の間で行われた。法華宗は敗れて処罰者を出し、以後他宗への法論を行わないことを誓わされた。『信長公記』等に依ると、1579年(天正7年)5月中旬、浄土宗浄蓮寺の霊誉玉念(れいよぎょくねん)という長老が上方へ出てきて安土の町で説法をしていた。そこに法華宗信徒の建部紹智と大脇伝介が議論をふっかけた。霊誉長老は「年若い方々に申し開きを致しましても、仏法の奥深いところは御理解出来ますまい。お二人がこれぞと思う法華宗のお坊様をお連れ下されば、御返答しましょう」と答えた。説法の期間は7日の予定だったが、11日に延長して法華宗の方へ使者を出させた。法華宗の方も、では宗論をやろうと京都の頂妙寺の日珖、常光院の日諦、久遠院の日淵、妙顕寺の大蔵坊、堺の油屋の当主の弟で、妙国寺の僧普伝という歴々の僧たちが来る事になった。そしてこの噂が広まり、京都・安土内外の僧俗が安土に集まると騒ぎは大きくなり、信長も伝え聞く事になる。信長は「当家の家臣にも法華の宗徒は大勢いるので、信長の考えで斡旋をするから、大袈裟な事はせぬ様に」と、菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一らを使者として両宗に伝えた。しかし、浄土宗側ではどの様な指示でも信長に従うと返答したが、法華宗側は宗論に負けるわけがないと驕って従わず、ついに宗論をする事になってしまう。そこで信長は「それなら審判者を派遣するから、経過を書類にして勝負の経過を報告せよ」と申しつけ、京都五山の内でも指折りの博学で評判の、日野に住む臨済宗南禅寺・建仁寺長老・鉄叟景秀(てつそうけいしゅう)を審判者に招いた。そして折り良く因果居士(いんがこじ)が安土に来ていたので、彼も審判に加えて、安土の町外れに有る浄土宗の寺浄厳院の仏殿に於いて宗論を行った。寺内の警備に、津田信澄・菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一の5人を派遣。法華宗側はきらびやかな法衣を着飾り、頂妙寺日珖、常光院日諦、寂光寺日淵、妙国寺普伝、そして妙顕寺の大蔵坊の5人が記録係として、法華経八巻と筆記用具を持って登場。浄土宗側は、黒染めの衣で、質素ないでたち、霊誉と、安土田中の西光寺の聖誉・貞安(せいよていあん)、正福寺信誉洞庫、知恩院一心院助念の4人が筆記用具を持って登場。法論の出席者は以下の通り。『信長公記』等に依ると法論の概要は以下の通り。 天正七年己卯年五月二十七日辰刻宗論が終った直後、頂妙寺の日珖は「妙」の一字に答えられず、群集に打擲され、法華八巻は破り捨てられた。法華宗の僧や宗徒達は逃げ散ったが、これを津田信澄らが捕え、宗論の記録を信長の下へ届けた。信長は時を移さず、安土から浄厳院へ出向き、法華宗・浄土宗の当事者を召し出して、霊誉と聖誉に扇と団扇を贈り、大いに褒め称えた。審判者の景秀鉄叟には杖を進呈した。そして大脇伝介を召しだして「一国一群を支配する身分でもすべき事ではないのに、お前は俗人の塩売りの町人ではないか。この度は霊誉長老の宿を引き受けたにも係わらず、長老の応援もせず、人に唆されて問答を挑み、京都・安土内外に騒動を起こした。不届きである」と、厳重に申し渡して真っ先に斬首した。また、普伝を召しだして普伝の業績を問い質(ただ)した。普伝は一切経の何処にどんな文句があるか諳んじる程博識である。しかし、何宗にも属していない。彼の行状は、ある時は小梅の小袖、ある時は摺箔の衣装など結構な物を着て、ぼろぼろになると、仏縁を結ぶと称して、これを人々に与えていたそうである。得意顔をしていたが、よくよく調べてみると小袖は値打ちのない紛い物であった。博識の普伝が納得して法華宗に入ったとなれば、法華宗は益々繁栄するからと懇願され、金品を受け取ってこの度法華宗に属したのである。よい歳をして嘘を吐いていた訳である。「今度の宗論に勝ったら、一生不自由しない様にしてやろうと法華宗から堅い約束をされ、金品を受け取って、役所にも届を出さずに安土に来た事は、日頃の言い分に反し、不届きである」更に信長は追及して「宗論の場では己は発言せず、他人に問答をさせて、勝ち目になったらしゃしゃり出様と待ち構えていた。卑劣な企みで、真にけしからぬ」と、普伝の首も斬った。残った法華宗の歴々の僧達へは、次の様に言い渡した。「大体、兵達は軍役を日々勤めて苦労しているのに、僧職の者達は寺庵を結構に造り、贅沢な暮らしをしている。それにも関わらず、学問もせず『妙』の一字にも答えられなかったのは誠に許し難い。ただし法華宗は口が達者である。後日、宗論に負けたとは多分言うまい」、そして「宗門を変更して浄土宗の弟子になるか、さもなくば、この度宗論に負けた以上は今後は他宗を誹謗しない、との誓約書を出すがよい」と申し渡した。詫び証文の概要は以下の通り。敬白 起請文(きしょうもん)の事天正七年五月二十七日 法花宗上様、浄土宗様この様な証文を出した 上に「宗論に負けました」と書いてしまったからには、法華宗が負けた事を女子供迄もが後の代まで聞き知る事になった。別の文句が幾らでもあったのに失敗した、と歴々の僧たちが後悔していると伝え聞いて、またまた世人はこれを笑い者にした。建部紹智は堺の港まで逃げたが捕縛された。この度の騒動は大脇伝介と建部紹智が発端となったのだから、紹智も首を斬られた。以上、信長公記の記述による。この宗論で最大のポイントとなるのは「方座第四の『妙』」という言葉である。この宗論は一般的に信長の策略により、浄土宗側の意味不明なその言葉・発言に嵌められたと解釈されている。古来より法華宗側では、この発言を「貞安の卑怯な手」で相手を煙に捲いたとしている。また他の法華系宗派では、以下のように説明している。この4つを総称して爾前(法華経より前)の妙といい、法華の妙と対比すると説明し、五時八教の教相判釈では、浄土三部経は方等部に位置付けられるから、方座「第三」の妙と言うべき所を、方座「第四」の妙と嘘をつき、捨てるか捨てないのかと質問した詐欺師だ、などと判じている。この質問に混乱した法華側が1~4のどの妙の話なのかと問い返した所、浄土側は嘘に嘘を重ねて法華の妙だと回答したので、法華側が思考停止に陥ってしまった。日蓮宗の田中智學は「こんな事は全く話にならない、それこそ御釈迦様でも気がつかない事だ。知って居るのは、世界中に唯一人、劫初(こうしょ=この世の初め)以来何億万年にも誰一人、その唯の一人しか知るものは無い、それは大雲院開山教蓮社退魯大和尚聖誉貞安上人唯一人である。『経文』にも『論文』にも『釈義』にも、かつて登録されない珍妙怪奇の『造り名目(つくりみょうもく)』を以て、相手を煙に捲かうといふのは、モー法義論談の分域を通り越して、残るところは貞安の人格問題だ」と言及し激しく非難した。ただし田中智學はこうも述べている。「“方座第四の『妙』”といふのは、追究したら恐らく"『方等会座四教並説中第四円教所談の妙』というつもりであらう」"浄土宗の学僧、林彦明(はやしげんみょう)は「専修学報第1号・安土宗論の真相に就て」で、これを指摘した。また作家の井沢元彦も『逆説の日本史』10「戦国覇王編 - 天下布武と信長の謎」において、この一言で法華宗の負けが決まったと指摘した。即ち、もしこの発言が従来より法華宗側が言っている「浄土宗側が卑怯な手を使った」のであれば、法華宗側はその場において「方座第四の『妙』」を意味不明・解釈不能であるという態度を徹底的に貫かねばならず、それをしなかった法華宗側は『造り名目』でない事を認めてしまった事になる。つまり田中智学も認める通り「方等会座(方等座)における四教並説中の『円教』に所談(語っている所)の『妙』である」。五時八教の教判では、釈迦仏は華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃の五時に分けて教えを説いたが、方等時で「蔵・通・別・円」の四教を並説したとされる。このうち「蔵・通・別」は小乗の教えで、第4番目の「円」が大乗の最高の教えとされる。「円教」では当然、妙(妙法蓮華経=法華経)に象徴される完全な教えを説いたとされている。この教判は天台宗の教学で智顗が考案し、それを後の法華宗が採用継承した。つまり、貞安の問いである「方座第四の「妙」の一字を捨てるか、捨てざるか」というのは、「もし天台教学の考えを以って、法華以前の教えをすべて“方便(真実に導く手だて・手段)”として否定するなら、方等時において説いた円教=妙も捨てるのか、捨てないのか?」というのが真相であるとされる。従って、他の法華宗派が解釈する「方座『第三』の妙と言うべき所を、方座『第四』の妙と嘘をついた」というのは、単なる誤解であり、第四とは「蔵・通・別・円」の「円教=妙」のことであり、また田中智学が述べた「造り名目」でもないことが明らかと指摘されている。また法華宗側の日珖・日諦が、後に詫び証文を書いた(書かされたとも解釈される)のは、「方座第四の「妙」」の意味すら分らなかったからに他ならず、だからこそ素直に詫び証文を書いたといわれる。日蓮宗側の論拠は主に「安土問答実録(著者・日淵)」「因果居士記録(因果居士から聞き取ったとされる)」だが、この2つの史料には問題がある。前者には因果居士が登場せず、後者には日淵が登場しないのである。両者を統合しようとする考えとして、「日淵が因果居士のことを書き忘れた。そして日淵は日雄(因果居士記録に登場)と同一人物である」とする説がある。しかし「因果居士記録」において、因果居士は宗論に非常に大きく干渉して、浄土宗側を勝利に導いた立役者となっており、その名前を書き忘れるのは甚だ不自然であることや、日淵=日雄を立証する史料が見つかっていないことなどから、少なくともどちらかは虚偽だと思われる。ちなみに信長は、宗論後も本能寺を始めとした法華宗の寺を宿泊施設として使っており、信長側が不正をしていない傍証になる。ルイス・フロイスの『日本史』でも、信長公記と全く同じ流れで宗論が進んでおり、やはり「妙」のところで法華宗側が回答に詰まって決着がついている。宗論の項冒頭にフロイスが書いている通り、彼にとっては法華宗も浄土宗もどちらも「悪魔の教え」として完全否定すべきものであり、また「彼らはなんら哲学的知識を持っていなかったので」などと両者とも蔑視している。つまりフロイスが浄土宗の勝利のために信長と口裏を合わせる理由は全くないと言え、信憑性は高い。結論として、「信長が法華宗を不当に弾圧した」という歴史学上の見解には非常に疑問が残る。信長がこのようなことを主催した動機については、予ねてから法華宗をどう諌めようか想定していたから、という説が有力である。一応、経済的に豊かであった法華宗寺院及び信者から矢銭を調達するための策略であった、という説もあるが、当時すでに織田家は非常に裕福だったと思われることや、天文法華の乱の被害規模を考えれば、利益とリスクが全く釣り合わない話である。井沢元彦も「もし信長が法華宗を嵌めたのなら、なぜ素直に詫び証文を書いたのか、また当時の宗教は世俗の権力に徹底的に反抗するのが常であり、特にその傾向が強い法華宗がなぜ大規模な法華一揆を起こさなかったのか」と指摘している。浄厳院
出典:wikipedia
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