ウィリー・ハワード・メイズ(Willie Howard Mays, 1931年5月6日 - )はアメリカ合衆国アラバマ州ウェストフィールド出身のプロ野球選手(中堅手)。ニックネームは「セイ・ヘイ・キッド(The Say Hey Kid)」。メジャーリーグ史上最高の「コンプリート・プレイヤー」と称される。ニグロリーグでのプレーを経て、1950年、ニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)と契約。にAAA級のミネアポリス・ミラーズで35試合に出場して打率.477を記録し、同年の5月25日にメジャーデビューを果たした。当初は12打数連続で安打を放てずにいたが、13打数目でウォーレン・スパーンからメジャー初安打・初本塁打を記録。このシーズンは121試合に出場し、打率.274・20本塁打・68打点を記録し、新人王に選出された。に34試合に出場した後、朝鮮戦争に従軍し、一時的に野球を離れる。に復帰。打率.345で首位打者のタイトルを獲得し、41本塁打・110打点の活躍でMVPに選出された。ジャイアンツはナリーグのペナントを制し、ワールドシリーズではクリーブランド・インディアンスを4連勝で下してワールドチャンピオンとなる。このワールドシリーズの第1戦で、メイズは「」として語り継がれる伝説的ファインプレーを披露している。には51本塁打を放ち、最多本塁打のタイトルを獲得。また、24歳137日で達成したシーズン50本塁打はにプリンス・フィルダー(23歳139日)に更新されるまでメジャー最年少記録だった。は36本塁打・40盗塁を記録。は35本塁打・36盗塁で2年連続して30本塁打・30盗塁を達成。1957年シーズン終了後ジャイアンツは本拠地をニューヨークからサンフランシスコへ移転。新しいホームグラウンドのキャンドルスティック・パークはレフトからホームへ海からの強風が吹きこみ、メイズの引っ張った打球も強風で押し戻されることが多かったが20-20-20を達成。にはシーズン49本塁打で2回目の最多本塁打のタイトルを獲得。には2回目のMVPに選出され、同時に自己最多の52本塁打を記録した。このシーズンの8月には17本塁打を放ち、月間本塁打のナ・リーグ新記録を樹立し、9月13日に通算500本塁打を達成した。5月4日に通算512本目の本塁打を放ち、メル・オットのナ・リーグ通算最多本塁打記録を更新。しかし、1966年以降はシーズン30本塁打や100打点を記録することはできず、成績は徐々に下降線をたどる。は不調が続き、スポーツ・イラストレイテッド誌は「メイズの両目の下にはクマができている。おそらく不振で眠れないのだろう。すでに36歳。エネルギッシュで颯爽としていたプレーは、過去のものとなってしまった」との記事を掲載した。これに対し、メイズは反論をせず、記事を認めるコメントをしている。その一方で1970年1月17日に「スポーティング・ニュース」はメイズを1960年代最高の選手("Player of the Decade")に選出した。5月12日にチャーリー・ウィリアムズと金銭50,000ドルでニューヨーク・メッツへトレード移籍。に現役を引退した。メイズの背番号「24」は1972年にジャイアンツの永久欠番となった。、432票中409票(94.68%)の得票で有資格初年度にアメリカ野球殿堂入りを果たした。1979年10月29日に、カジノ経営に絡む企業の仕事を受けたとして、MLBコミッショナーのボウイ・キューンから追放処分を受ける。同様の処分は1983年にミッキー・マントルにも科せられていたが、1985年3月18日にMLBコミッショナーのピーター・ユベロスが2人の追放を解除している。通算660本塁打を放ち、引退当時はベーブ・ルース、ハンク・アーロンに次ぐ3位だった。1951年新人王、ゴールドグラブ賞12回・本塁打王4回・盗塁王4回を獲得している万能選手である。「ライフルアーム」と呼ばれた強肩の持ち主であった。オールスターにも1954年から1973年まで20回連続で出場した。テッド・ウィリアムスは「オールスターはメイズのためにつくられた」と述べている。1954年のワールドシリーズはメイズ擁するニューヨーク・ジャイアンツとクリーブランド・インディアンスとの対戦で、第1戦は9月29日、ジャイアンツの本拠地ポロ・グラウンズで行われた。2対2の同点で迎えた8回表、インディアンスは先頭のラリー・ドビーがフォアボールで出塁、続くアル・ローゼンのヒットでノーアウト一、二塁とチャンスを作る。ここで打席に立ったビク・ワーツが打った打球はセンターのメイズの後方への大飛球となる。この瞬間、誰もがインディアンスの勝ち越しを予期し、試合が決まったと思った。しかし、この打球を懸命の背走で追ったメイズは、ほとんど振り向くことなく、全速力のままボールの落下点に到達。グラブを大きく開いたメイズは肩越しに捕球すると同時に反転、内野に送球すると勢いで前方に倒れこんだ。固唾を飲んで打球の行方を追っていた大観衆は、ヒット性の当たりがアウトになったことを悟り、大歓声をあげた。ジャイアンツが絶体絶命のピンチを脱した一方で、インディアンスは試合を決めるチャンスを逃した。結局この試合は延長戦にもつれ込み、最後はジャイアンツがサヨナラ勝ちを収めた。そのまま勢いに乗ったジャイアンツは、下馬評で有利と見られていたインディアンスを4タテ(スウィープ)してワールドチャンピオンに輝いた。このメイズのファイン・プレーはシリーズの流れを決し、メイズがボールをグラブに収める瞬間を見事にとらえた写真が広まったこともあり、「」として今も語り継がれている。また、この打球を放ったワーツは後に、「あの打球が三塁打かホームランになったら、みな私の事など忘れているだろう」と語っていたという。「ザ・キャッチ」のプレーは有名だが、メイズは4度出場したワールドシリーズにおいて特筆すべきプレーは同プレーが唯一と言ってよく、その8年後に出場したニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでは第1戦で3安打1打点を挙げるものの、第2戦以降は24打数4安打0打点であった。ワールドシリーズ通算でも打率.239、本塁打0本に終わっており、メイズはワールドシリーズで本来の実力が発揮出来なかった名選手の一人に挙げられている。同時代に活躍したハンク・アーロンと比較されることが多かった。一時期は地味なアーロンに比べ華やかなメイズの評判が高かったが、1974年にアーロンがベーブ・ルースの通算本塁打記録を更新してからは評価が逆転した。なお、殿堂入りの際に「あなたの現役時代においてもっともすぐれた選手は誰だったと思いますか」と問われたメイズは、「俺こそがそうだった」と答えている。バリー・ボンズの名付け親としてもよく知られており、バリーがジャイアンツに移籍する際に、メイズの永久欠番である「24」をつけたいと依頼し、これにはメイズも快諾したが、周囲の強い反対を受けた。そのためバリーの父であり、メイズのチームメイトであったボビー・ボンズがつけていた隣の「25」をつけた逸話がある。若かりし頃の野村克也に「ムース」のあだ名をつけたのはメイズである。
出典:wikipedia
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