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ヒルデブラントの歌

『ヒルデブラントの歌』()は、ドイツに伝わる唯一の頭韻英雄詩である。もとはフルダ修道院()にあったが、現在はドイツのカッセル大学図書館に保存されている。北イタリアで成立したと考えられ、年代は5世紀末から6世紀初めの東ゴート人とする説と、6世紀から8世紀の間のランゴバルト人を起源とする説がある。フルダ修道院で東フランク語に翻訳され、830年から840年にかけて書きとめられたとされる。古代のドイツ人の口誦の内容を反映した重要な作品である。帰郷の途にある老いた武将ヒルデブラントは若き武将ハドゥブラントと出会い、彼に名乗りを求めた。ハドゥブラントは、父は妻と幼き私とを棄て、東のテオドリック王のもとに落ちのびて死んだと答えると、ヒルデブラントは自分こそ彼の父であると言う。ハドゥブラントは敵を欺く策略としてあざ笑う。ついに戦いが始まり、二人は槍を交える。全68行で構成されるが、結末を記した部分が残っていない。以下は冒頭である。1715年ごろ、ヨハン・ゲオルク・フォン・エッケルト(Johan Georg von Eckert)に発見された。9世紀の羊皮紙の写本の2ページ渡って記されており、830年代に写本の余白に書きこんだものであるとされる。書き込んだ人は二人おり、二人目が書いたのは二枚目の初頭の11行のみである。文字は主にカロリング小文字体(Carolingian minuscule)で、文中の「w」のほとんどがアングロ・サクソン・ルーンを起源とする(ウィン)で書かれている。第二次世界大戦時、カッセルの図書館から疎開させられたものの、米兵に略奪されて稀覯書(きこうしょ)として売られた。後に2ページ目がカリフォルニア州で見つかり、1955年にドイツに返還された。切り取られた1ページ目は1972年にフィラデルフィアで発見され、こちらも返却された。『ヒルデブラントの歌』における最も奇妙な点は、東フランク語と古サクソン語の混在(例えば、一人称主格代名詞は古高地ドイツ語「ik」と、古低ドイツ語「ih」の両方が見られる)である。混在の理由は分かっていないが、現存する写本の筆者の手によるものではなく、彼らが書き写した原本で既に存在していたらしい。詩の始まりの部分にひときわ目立つ古サクソン語には誤記が散見されるため、原本が古サクソン語であったことは否定されている。48行目で頭韻する「riche」と「reccheo」はサクソン方言では「rīke」と「wrekkio」になり押韻せず不完全な形となることが決定的な根拠とされている。古い時代には研究者たちは原本が古サクソン語であると考えていたが、現在では元は古高地ドイツ語であったとするのが一般的である。古サクソン語の機能的な誤りが、筆記者は方言を完全には理解していなかったことを示唆している。現在のドイツ語の「heißen」と「weiß」に当たる「heittu」(l.17) と「huitte」 (l.66)は、古サクソン語では「t」一文字になるところを誤って綴っているが、これらの誤りにより、筆記者が古高ドイツ語の「zz」が子音推移すると古サクソン語の「tt」ではなく「t」と一致することを知らなかったことを暗示されている。また、ディートリッヒ伝説()の発祥の地が北イタリアであることも、『ヒルデブラントの歌』の起源が南にあることをより強く示している。フルダで話された東フランク語は古高ドイツ語に属するが、修道院は北ドイツへのキリスト教伝道の中心地でもあった。そのため修道院に古サクソン語の知識を有する者がおり、おそらく話者もいたとする仮定は不合理ではない。しかし、古サクソン語への翻訳を試みた理由は不可解であり、それをフルダ修道院の伝道活動を結びつけて考えるのは推測の域を出ない。方言以外の解釈は一様に、この作品が古い詩の慣用語法によって書かれた典型的作品であるとしている。後代の類似した内容の作品からヒルデブラントがハドゥブラントを殺したという結末が推測される。またペルシアの『シャーナーメ』に英傑のロスタムが敵兵に深手を負わせるがそれは昔産まれたときに与えた腕輪をしている実の子であったという話がある。ヒルデブラントはおそらく架空であるがテオドリック(文中ではテオドリック=フン族の王=アッティラとされているが、これは史実ではない)とオドアケルは実在の人名でテオドリックがオドアケルを破ったことになっている。

出典:wikipedia

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