ベニー・ディステファーノ こと ベニート・ジェームス・ディステファーノ(Benito James Distefano , 1962年1月23日 - )は、アメリカ合衆国・ニューヨーク出身の元プロ野球選手(外野手)。1月のMLB二次ドラフト2巡目でピッツバーグ・パイレーツに指名され契約。5月18日の対アトランタ・ブレーブス戦で、エイモス・オーティスに代わり左翼手として途中出場してMLBデビューを果たし、この試合でMLB初安打もマークする。以後はMLBとマイナーリーグの往復生活が続いたが、には左投げながら捕手を務めたこともある。「左投げの捕手」はMLBでも非常に珍しいもので、当時話題になった。には初開催となった3Aオールスターゲーム(バッファロー)に出場している。バッファローは当時パイレーツの3Aだったため、地元のディステファーノはナショナルリーグ代表の4番打者として起用された。この試合にはグレッグ・ジェフリーズ(ニューヨーク・メッツ)等の後のメジャーリーガーに交じって、1984年にNPBの広島でプレーしたデーブ・レーシッチ、さらに後に広島でプレーするマーティ・ブラウンもナ・リーグ代表として出場していた。にNPBの中日ドラゴンズに入団。パワフルな打撃に期待が集まり、開幕戦こそ来日初打席初本塁打を打ったものの、ドアスイングかつアッパースイングのため、内角球に弱く変化球に崩されやすいという欠点がたちまち明らかとなり、深刻な不振に陥った。打率は2割そこそこで期待された本塁打もあまり出ず、力のないポップフライを量産するなど結果を残せなかった。7月2日に監督の星野から直々に二軍落ちを通告され、結局シーズン途中の8月に解雇された。中日を退団後、をボルチモア・オリオールズAAA級ロチェスター・レッドウイングスでプレイした後、にヒューストン・アストロズでMLB復帰。しかし同年8月に解雇され、シーズンの残りをシアトル・マリナーズAAA級のカルガリー・キャノンズで過ごした。はテキサス・レンジャーズでMLB再昇格を目指したが果たせず、同年限りで引退。にデトロイト・タイガース傘下ルーキーリーグので、-には同じくタイガース傘下の1Aウェストミシガンで、それぞれ打撃コーチを務めた。はニューヨーク・メッツ傘下の1Aブルックリン、からは同じくメッツ傘下のサバンナ・サンドナッツで打撃コーチを担当している。気性が荒く、暴れっぷりは来日以前からアメリカ3Aなどでは知られており、“ベニー・エキサイティング” と呼ばれていた。凡打の後にベンチ裏で暴れることも珍しくなく、よく珍プレー番組などで取り上げられていた。3月15日にナゴヤ球場で行われた西武とのオープン戦で、鹿取義隆から受けた死球に激怒し、制止しようとした捕手の大宮龍男の顔面を何発も殴打する乱闘騒ぎをおこして退場処分を受けた。今でオープン戦において審判の暴言等の退場処分はあるものの、乱闘による退場処分はこの試合が初で現在のところ唯一となっている。星野は「エキサイティングな外国人が来た」とコメントしたが、暴れっぷりに関しては全盛期だった星野がここまで言ったことに、ディステファーノの暴れ方の凄さがうかがえる。公式戦に入ってからも暴れっぷりは変わらず、5月24日の対巨人戦(ナゴヤ球場)で、槙原寛己がバンスローに顔面付近の投球をしたことでバンスローが槙原と捕手の村田に激怒。その後星野が槙原の投球に対し、球審の友寄に「危険球ではないか」と抗議をしていたところ、巨人コーチの松原誠が星野に野次をしたことから星野が激昂し、三塁側の巨人ベンチへ詰めより割って入った水野雄仁に張り手を食らわすなど両チーム入り乱れての乱闘になった。その乱闘の際無関係のディステファーノが巨人コーチの江藤省三の顔面を殴りつけて出血させるなど大暴れし、当事者ではないのに1人だけ退場処分になった。星野は「なんで(当事者ではない)ディステファーノが退場なんだ!!」とコメントした。この試合はその後、中日の鹿島忠が巨人のウォーレン・クロマティの頭部付近に危険球を投げ、もう一度乱闘が発生した。また退団前の試合で、審判の判定に不満を持ってベンチに戻り(退場処分にはなっていなかった)、ナゴヤ球場のベンチの設備を壊して球団から罰金を科せられた。しかし、罰金が支払われる前にシーズン途中での解雇が決定したため、罰金は未納のままとなった。
出典:wikipedia
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