LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

祥鳳 (空母)

祥鳳(しょうほう/しゃうほう)は、日本海軍の航空母艦。元は剣埼型潜水母艦剣埼(つるぎざき)であった。剣埼の艦名は神奈川県三浦半島東南の剱崎(劍崎)に依る。本艦の同型艦には、瑞鳳(高崎)がある。日本海軍の軍艦としては2代目となり、初代「剣埼(剣崎)」は、海軍で最初にディーゼルエンジンを搭載した特務艦(運送艦/給油艦)。ロンドン海軍軍縮条約により航空母艦の保有量を制限されていた日本海軍は、有事において短期間(軍令部希望1ヶ月 - 3ヶ月間)で航空母艦(空母)に改造できる艦船を建造することで、条約の制限を乗り切ろうとした。そのような意図で建造されたのが空母3隻(祥鳳、瑞鳳、龍鳳)の前身たる潜水母艦3隻(剣埼、高崎、大鯨)である。最初から潜水母艦だった「大鯨」に対し、後発2隻(剣埼、高崎)は高速給油艦として設計されたが建造中に潜水母艦へ変更された。「剣崎」は1939年(昭和14年)1月15日横須賀海軍工廠で竣工した。潜水母艦として活動したのち、1940年(昭和15年)11月から計画通りに航空母艦へ改造されたが、不調のディーゼル機関をタービンと交換したため工事に約1年掛かってしまった。空母化と共に剣埼は『祥鳳』、高崎は『瑞鳳』、大鯨は『龍鳳』と改名されている。空母改造は1941年(昭和16年)12月22日に完成し、「剣埼」は「祥鳳」と改名(上述)。「祥鳳」は第四航空戦隊に編入。続いて南洋部隊(第四艦隊)に編入。だが1942年(昭和17年)5月7日の珊瑚海海戦で撃沈され、太平洋戦争において戦闘で最初に失われた日本海軍の空母となった。「剣埼」と「高崎」の姉妹艦2隻は横須賀海軍工廠で剣高(ケンタカ)と呼ばれていた。2隻はマル2計画(第二次補充計画)で建造が決まり、1933年(昭和8年)6月に具体的な要求事項が決定したが、本当の建造目的(空母化)は軍事機密として伏せられていた。1934年(昭和9年)11月5日、日本海軍は正式に特務艦「剣埼 (ツルギザキ)」と命名。同年12月3日、横須賀海軍工廠において、「剣埼」は潜水母艦「大鯨」、最上型重巡洋艦3番艦「鈴谷」と同一船台で起工した。準姉妹艦(大鯨)に引き続いて電気溶接技術を多用したが、同艦での溶接失敗経験を生かして作業は順調に進んだ。1935年(昭和10年)6月1日午後5時45分、「剣埼」は進水した。同日附で、山下知彦大佐は剣埼艤装員長に任命された。10月7日、山下(剣埼艤装員長)は横須賀海軍工廠総務部長へ転任。後任の剣埼艤装員長は隠戸型給油艦2番艦早鞆艦長の大塚幹となった。友鶴事件での復元性問題や、第四艦隊事件の船体構造問題を受けて、2隻(剣埼、高崎)も船体補強を実施した。「高崎」は建造中のため船台上での補強を実施したが、本艦は進水済のため、約3年ほど横須賀港で繋留放置されている。1936年(昭和11年)6月19日、横須賀海軍工廠で「高崎」が進水した。7月8日、同工廠で空母「飛龍」が起工したため、剣埼型2隻(剣埼、高崎)は建造途中のまま横須賀で停泊することになる。10月7日、水崎正次郎大佐(高崎艤装員長)が早鞆特務艦長へ転任したことに伴い、大塚(剣埼艤装員長)は高崎艤装員長も兼ねることになった。12月1日、大塚(剣埼・高崎艤装員長兼務)が古鷹型重巡洋艦1番艦古鷹艦長へ転任したため、空母加賀副長樋口曠大佐が剣埼艤装員長に任命された(大塚は1945年7月、戦艦長門艦長として戦死)。1937年(昭和12年)5月20日、樋口(剣埼艤装員長)は舞鶴海軍航空隊司令へと転任した。そのため柿本權一郎(高崎艤装員長)が剣埼艤装員長を兼務することになる。6月15日、柿本大佐は剣埼・高崎艤装員長の兼務を解かれ、浅間型装甲巡洋艦1番艦「浅間」艦長橋本愛次大佐が剣埼艤装員長となる。11月16日、横須賀工廠で「飛龍」が進水した。その時も剣埼型2隻(剣埼、高崎)は横須賀に繋留されていた。12月1日、橋本(剣埼艤装員長)は高崎艤装員長との兼務を命じられる。1938年(昭和13年)9月15日、日本海軍は「大鯨」での経験を生かし、「剣埼」の高速給油艦から潜水母艦への改造に着手。9月20日、橋本(剣埼艤装員長)は制式に剣埼艦長となった。11月20日、橋本(剣埼艦長、高崎艤装員長)は軽巡洋艦五十鈴艦長の兼務を命じられた。同日、館山沖で全力公試を実施。同時期、「剣埼」は本艦を特務艦と宛名する郵便物に対し軍艦として扱うよう通達している。12月15日、橋本大佐は各艦艦長兼務を解かれて五十鈴艦長のみとなり、高崎艤装員長には中里隆治大佐(大鯨艦長)、剣埼艦長には第18潜水隊司令と第30潜水隊司令を兼ねていた福沢常吉大佐が、それぞれ任命されている。1939年(昭和14年)1月15日 、「剣埼」は潜水母艦として竣工、横須賀鎮守府籍となった。しかし将来の布石として大型複合ディーゼルを導入したものの、運転公試で故障が発生。その後も機関故障が続発、最大発揮速力は約17ノットに制限された。一応の完成をみた本艦は2月5日に第二艦隊・第二潜水戦隊に編入。2月6日、長良型軽巡洋艦6番艦「阿武隈」から第二潜水戦隊旗艦を継承する。北支や南洋方面で活動。11月15日、艦隊の再編により第一艦隊・第四潜水戦隊に編入、「剣埼」は同潜水戦隊旗艦に指定された。同日附で、福沢(剣埼艦長)は第15防備隊司令へ転任(福沢は、太平洋戦争開戦時の工作艦明石艦長)。後任の剣埼艦長は、室戸型給炭艦2番艦野島特務艦長伊藤尉太郎大佐となる。翌年に掛けて南支や南洋方面で活動。高速大型の最新鋭潜水母艦2隻(大鯨、剣埼)が潜水戦隊に加わったことで、潜水艦部隊の練度は大いに向上したという。また潜水戦隊関係者の武技・体技大会も、格納庫を利用して開催された。一方で、剣埼型2番艦「高崎」は1935年(昭和10年)6月20日に起工(剣埼の進水から一ヶ月以内)、翌年6月19日に進水したが、その後は前述のように「剣埼」と共に横須賀軍港で繋留放置されていた。1940年(昭和15年)11月15日、「剣埼」は横須賀鎮守府第四予備艦となり航空母艦への改造工事に着手。横須賀工廠では、すでに翔鶴型航空母艦1番艦「翔鶴」の建造がはじまり、進水も前年6月1日にすませていた。未完成のまま放置されていたため先行して航空母艦へ改造中の「高崎」は同年12月15日附で空母瑞鳳と改名され、12月27日に竣工したがその際に『瑞鳳:1938年(昭和13年)1月15日起工、1939年(昭和14年)3月1日進水』という架空の起工・進水日を登録した。また本艦の場合も『1939年(昭和14年)1月10日起工、1940年(昭和15年)2月23日進水』という架空の起工日と進水日を設定した。このため本当の起工順は(1番艦:大鯨 - 2番艦:剣埼 - 3番艦:高崎)だが、瑞鳳型航空母艦としての関係は(1番艦:瑞鳳《高崎》 - 2番艦:祥鳳《剣埼》 - 3番艦:龍鳳《大鯨》)となった。本艦(祥鳳)の空母改装は1940年(昭和15年)11月15日から横須賀海軍工廠ではじまった。同日附で伊藤(剣埼艦長)は海軍潜水学校教頭へ転任。横須賀海軍工廠で建造中の翔鶴型航空母艦1番艦翔鶴艤装員長城島高次大佐が、翔鶴艤装員長と剣埼艦長を兼務することになった。不調のディーゼルエンジンを陽炎型駆逐艦の艦本式ボイラーと艦本式タービンに換装、このため前述のように改造に1年かかった。1941年(昭和16年)4月17日、城島大佐は翔鶴初代艦長に任命され、引き続き2隻(翔鶴、剣埼)艦長を兼務することになった。8月8日、城島大佐(翔鶴艦長、剣埼艦長)は両艦艦長兼務を解かれ、扶桑型戦艦2番艦「山城」の小畑長左衛門艦長が剣埼艦長と山城艦長を兼務することになった。10月1日、小畑艦長(山城艦長、剣埼艦長)は兼務を解かれ、剣埼艦長は元山海軍航空隊司令伊沢石之介大佐となった。11月1日、横須賀鎮守府特別役務艦に定められる。12月20日、ほぼ改装が終わった剣埼(祥鳳)と交替で、横須賀で「大鯨」の空母改造がはじまり、それにともない同艦が予備艦となった。12月22日、改造完成により、本艦は「剣埼」から祥鳳へと改名された。同日附で航空母艦に類別。横須賀鎮守府籍。伊沢剣埼艦長以下、剣埼乗組員は祥鳳乗組員となった。また、艦艇類別等級別表の潜水母艦欄から剣埼型が削除された。1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発、本艦は12月22日の完成・命名(前述)と共に連合艦隊・第一航空艦隊・第四航空戦隊(司令官角田覚治少将)に編入された。第四航空戦隊から連合艦隊附属に転出した春日丸級特設空母1番艦「春日丸(大鷹)」の代艦であった。司令官角田少将は空母「龍驤」を旗艦として南方作戦・蘭印作戦に従事しており、竣工したばかりの本艦は内地で訓練に従事した。「祥鳳」の航空母艦としての最初の任務は、ニューブリテン島ラバウルへの零式艦上戦闘機(以下『零戦』)輸送任務であった。1942年(昭和17年)2月1日附で南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官)に編入された。2月4日、「祥鳳」は峯風型駆逐艦12番艦「帆風」と共に横須賀港を出港、当時の祥鳳搭載機は九六式艦上戦闘機4(補用2)機、九七式艦上攻撃機9(補用4)機だった。出港時の収容機は、九六艦戦6(内3機解体)、九七艦攻12(甲板上2機)、零戦9機であったという。2月6日、対潜哨戒中に九六艦戦が着艦に失敗、パイロットは「帆風」に収容されるも戦死した。2月9日、第四艦隊(司令長官井上成美中将《南洋部隊指揮官》:旗艦鹿島)の根拠地トラック泊地に到着。2月13日、祥鳳隊2隻(祥鳳、帆風)はトラックを出発し、15日ラバウル北方150浬で零戦9機を発艦させ、2月16日トラックへ戻った。航海中の15日、第四艦隊は本艦に対しパラオでの基礎訓練と同基地配備の九六艦戦12機をトラック泊地へ輸送するよう命じた。2月18日、祥鳳隊(祥鳳、帆風)はトラックを出港するが、暗号解読により待ち伏せていた米潜水艦グレイリング ("USS Grayling, SS-209") に狙われた(グレイリングの場合は赤城、加賀を標的としていた)。400-500mまで迫ったもののグレイリングは攻撃に失敗し、日本側は何も知らぬまま航海を続けた。2月20日、米空母レキシントン ("USS Lexington, CV-2") がラバウル東方海面に出現したため、井上中将は練習巡洋艦(旗艦)「鹿島」、敷設艦「沖島」を率いてトラックより出撃、さらに第六戦隊(司令官五藤存知少将:青葉、加古、衣笠、古鷹)と「祥鳳」にも迎撃を命じた。20日正午、「祥鳳」はトラックに向け反転。21日に第六戦隊(五藤少将)の指揮下に入る。レキシントン追撃のための措置だったが、本格的な交戦に至る前にラバウル航空隊に迎撃されてレキシントンは撤退した(ニューギニア沖海戦)。第四艦隊の追撃作戦は中止され、「祥鳳」はパラオへ向かった。仮にこの時点で大型空母レキシントンと対決した場合、珊瑚海海戦と同じ結末を辿ったと思われる。2月24日、空母エンタープライズ("USS Enterprise, CV-6")の艦載機がウェーク島を空襲した。パラオへ向かっていた「祥鳳」は再び反転してトラック諸島近海に戻り、2月26日トラック到着。以後は同地で訓練に従事した。3月上旬にもラバウル方面への航空機輸送任務を実施、零式艦上戦闘機20機がラバウルに進出した。4月6日朝、搭載航空機を旧式の九六艦戦から零式艦上戦闘機に更新するため、トラック泊地を出発。4月11日夕方、2隻(祥鳳、帆風)は横須賀に到着した。本艦は零戦18機(台南海軍航空隊用9機)、九六艦戦2隻(分解収納)、九七艦攻6機を搭載し、4月20日に横須賀を出港する予定だった。4月18日、ウィリアム・F・ハルゼー中将率いるアメリカ軍機動部隊(ホーネット、エンタープライズ基幹)が日本本土東方海面に接近、哨戒漁船第二十三日東丸に通報されたため、予定より十時間はやくジミー・ドーリットル中佐以下B-25ミッチェル爆撃機16機を発進させると、米軍機動部隊は西方へ退避。昼間強襲を敢行したB-25隊は各地で爆撃に成功した。ドーリットル空襲時の「祥鳳」は東京湾で航空隊発着艦訓練に従事中だったが、横須賀を爆撃したB-25に対し12.7㎝高射砲2発を発砲した。つづいてアメリカ軍機動部隊追撃のため、訓練を中止して横須賀へ入港。当時の使用可能な祥鳳航空隊は零戦10、九六艦戦4、九六式艦上攻撃機6機であったという。一方、米空母追撃の指揮をとる第二艦隊司令長官(前進部隊指揮官)近藤信竹中将は、まず横須賀在泊中の第四戦隊(愛宕《第二艦隊旗艦》、高雄)、第10駆逐隊(夕雲、巻雲、風雲)、第7駆逐隊(潮、曙、漣)、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)、第4駆逐隊(嵐、野分)を率いて横須賀を出撃、同時に三河湾に停泊中の重巡摩耶(第四戦隊)、桂島泊地の第五戦隊(妙高、羽黒)、呉の軽巡神通(第二水雷戦隊)に前進部隊への合流を指示し、「祥鳳」に対しても前進部隊編入を下令。本艦は近藤中将(愛宕)の指揮下に入った。4月19日、午前4時頃に横須賀を出発した「祥鳳」は千葉県野島崎附近まで駆逐艦2隻(朝雲、山雲)に護衛されたあと、単艦で前進部隊(第二艦隊)の後を追って東進した。本艦の護衛には第7駆逐隊(潮、曙、漣)が指定されていたが、合流できないまま4月20日夕刻の作戦中止通達を迎え、各隊・各艦は母港への帰路についた。近藤長官は第7駆逐隊のかわりに第4駆逐隊(嵐、野分)を派遣する。合流後、3隻(祥鳳、嵐、野分)は23日朝になり横須賀へ帰着した。空母「祥鳳」は1942年(昭和17年)5月7日の珊瑚海海戦において、MO攻略部隊主隊(青葉、加古、衣笠、古鷹、祥鳳、漣)として輸送船団護衛中にアメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃を受け撃沈された。経過は以下のとおり。日本軍は米豪遮断作戦の一環としてニューギニア島の要所ポートモレスビーの攻略を目指していた(ポートモレスビー作戦)。その布石として第四艦隊(司令長官井上成美中将:旗艦鹿島)の指揮下でニューブリテン島ラバウルを占領、さらにフロリダ諸島ツラギ島を確保して水上機部隊の進出を企図する。連合軍にとってもポートモレスビーはオーストラリアの安全を守ると同時に、将来の反攻作戦における『跳躍台』として重要な拠点だった。連合軍(イギリス軍、アメリカ軍)はすでに日本軍の暗号を解読しており、「祥鳳」は新鋭空母「龍鶴」として認識されていた。また日本軍の複雑な作戦計画に乗じて敵軍の各個撃破を狙える立場にあったが、投入できる空母は2隻(ヨークタウン、レキシントン)のみで、戦力的に充分とは言い難かった。一方の日本軍も、小型空母1隻(祥鳳)のほかに第五航空戦隊(司令官原忠一少将)の翔鶴型航空母艦2隻(翔鶴、瑞鶴)を投入することになった。南洋部隊としては空母「加賀」(その後、第二航空戦隊《蒼龍、飛龍》に変更)の増援を要請したものの、兵力不足のため第五航空戦隊の2隻に変更されたという経緯がある。4月24日、「祥鳳」は吹雪型駆逐艦19番艦「漣」(第7駆逐隊所属)と共に横須賀を出撃。4月29日、トラック泊地に到着して第六戦隊(第1小隊《青葉、加古》、第2小隊《衣笠、古鷹》)と合同した。だが第六戦隊との作戦打ち合わせは出撃前日に『辛うじて間に合った』という情況だった。トラック泊地での会議では、第四艦隊参謀川井厳大佐、第五航空戦隊参謀山岡三子夫中佐も出席して、おもに「祥鳳」の運用について討議したという。第五航空戦隊側は空母3隻(瑞鶴、翔鶴、祥鳳)を集中運用する方針を示し、祥鳳側も搭載機を戦闘機に統一した上で防空任務を担うことを希望した。しかし第四艦隊は輸送船団の護衛を重視して、五航戦の案を却下した。また祥鳳飛行長杉山利一少佐は、本艦を輸送船団から分離させ適宜行動するよう主張したが、第四艦隊側は「輸送船団を安心させるために船団の視界内を航行するように」と主張、祥鳳飛行長の意見は却下された。輸送船団14隻の速力は約6 - 7ノットだった。こうして本艦の任務はおおむね決定したが、第六戦隊司令官五藤存知少将としても『祥鳳は元来兵力微弱にして練度亦充分とは云ひ難い』小型空母の運用については悩むところがあり、水上機母艦部隊(神川丸、聖川丸)航空隊と連携した上で、本艦任務を船団護衛上空と定めた。MO攻略部隊主隊は4月30日トラック泊地を出撃するが、最初の任務はツラギ攻略部隊の上陸支援だった。航空隊収容のため2隻(祥鳳、漣)は第六戦隊の重巡4隻から遅れた。5月2日に第六戦隊と合流するが、敵飛行艇迎撃時に事故で戦闘機1を喪失した。5月3日、ツラギ攻略部隊はフロリダ諸島(ツラギ島、ガブツ島等)を簡単に占領、ただちに水上機部隊の基地設営がはじまる。作戦成功によりツラギ方面部隊の護衛をやめ、MO攻略部隊輸送船団護衛のために反転した。5月4日、ヨークタウンはツラギ空襲を敢行、睦月型駆逐艦「菊月」(第23駆逐隊所属)を撃沈し、敷設艦「沖島」(第十九戦隊司令官志摩清英少将座乗)等に損害を与えた。急報を受けた主隊(第六戦隊、祥鳳)は反転南下してアメリカ軍機動部隊を捜索したが、ヨークタウンは既に南へ避退しており発見できなかった。5月5日昼間の船団護衛を実施後、「祥鳳」はブーゲンビル島ショートランド泊地にて給油艦「石廊」から夜間燃料補給を行うことになった。ところが作業不慣れのため約1時間しか補給できなかった。そこで5月7日夜にデボイネ諸島で宝洋丸より燃料補給を行う手筈が整えられた。ショートランド出港後、オーストラリアより飛来したB-17重爆3-4機に爆撃されるが、特に被害はなかった。同日、MO攻略部隊主隊、MO攻略部隊輸送部隊、デボイネ隊のいずれもアメリカ軍基地航空隊・機動部隊に発見され、5月7日の空襲は確定的となった。また日本軍も九七式飛行艇がツラギ南方約600海里に空母1隻を含む艦隊を発見して通報、日米双方とも艦隊決戦に向けて準備を進めた。第六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)は索敵機発進のため一時主隊から分離し、5月7日0700に合流した。5月7日朝、索敵に出たSBDドーントレス(ヨークタウン所属機)はルイジアード諸島ミシマ島北方海面に『空母2隻、重巡洋艦4隻』を発見して報告した。フランク・J・フレッチャー少将が指揮する空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)から西北西に約175海里で、フレッチャー少将は日本軍主力空母部隊と判断、躊躇なく総攻撃を命じた。攻撃隊90機以上(レキシントン隊50《艦戦10、艦爆28、艦攻12》、ヨークタウン隊43《艦戦8、艦爆25乃至24、艦攻10》)が発進した。ところが偵察機が母艦に戻って報告したところ、『巡洋艦2隻(天龍、龍田)と駆逐艦2隻』の誤報であることが判明した。フレッチャー少将は激怒したが、日本軍輸送船団撃破を狙って攻撃隊を呼び戻さなかった。つづいてアメリカ陸軍のB-17重爆から空母1隻および数隻の艦隊を発見したとの報告が入り(最初の攻撃目標から北方35マイル地点)、アメリカ軍攻撃隊はこの『小型空母』に向かった。一方、祥鳳以下MO攻略部隊主隊も朝から哨戒機や偵察機を発進させていたが、古鷹・衣笠偵察機(青葉経由)からアメリカ軍機動部隊発見の報告を受け、本艦は攻撃隊発進準備に着手する。当時のアメリカ軍機動部隊は、MO攻略部隊主隊の東南東160海里(片道1時間20分ほど)に位置していた。だが直衛機の収容に手間取り、攻撃隊を発進させる前にアメリカ軍攻撃隊が来襲した。午前8時30分、本艦は艦戦3・艦攻1を収容、艦戦3を発進させた。同時刻には青葉・加古からも水上機が発進した。また5隻(重巡4隻《青葉、加古、衣笠、古鷹》、駆逐艦1隻《漣》)は「祥鳳」を中心とした輪形陣を形成し、対空戦闘に備えた。午前9時前後、アメリカ軍機がMO攻略部隊主隊に対する攻撃を開始した。最初の急降下爆撃(レキシントン攻撃隊と推定)は回避に成功。続いて空襲下で零戦3機を発進させるも日本時間9時20分(現地時間11時20分)頃から次々に爆弾と魚雷が命中した。零戦3機、九六艦戦3(乃至2)の護衛では、90機を越えるアメリカ軍機の爆撃雷撃同時攻撃を防ぐのは不可能だった。TBD艦上攻撃機デヴァステイターより魚雷が投下され7本が命中、SBD急降下爆撃機ドーントレスより投下された爆弾13発が命中。他に艦攻1機が魚雷を抱いたまま祥鳳左舷に自爆(特攻)したとされる。上空で戦闘を目撃したアメリカ軍の戦闘機パイロットが悲惨な光景に動揺するほどの徹底的な攻撃が小型空母の「祥鳳」に叩き込まれた。レキシントン攻撃隊は爆弾7発命中と魚雷9発命中、ヨークタウン攻撃隊は爆弾14発と魚雷10本命中を報告しており、これは双方の航空隊が同時に攻撃を仕掛けたため戦果が重複したものとされる。また軽巡洋艦1隻破壊も報告したが、該当艦は存在しない。短時間のうちに過剰ともいえる爆弾と魚雷が命中して大火災となった為、乗組員は手の施し様がなくなった。9時31分(現地時間11時31分)に総員退艦が発令されるが、相当数の乗組員が配置についたまま沈んだ。退去命令より間もない9時35分(現地時間11時35分)、艦首から沈没、アメリカが沈めた史上初の空母(日本が喪失した最初の空母)となった。アメリカ軍攻撃隊はSBDドーントレス3機喪失。祥鳳直衛隊機は3機が行方不明となり、零戦2・九六艦戦1がデボイネ諸島へ向かい、同地で不時着した。奥宮正武によれば1機は友軍地上部隊に誤射され撃墜された可能性があるという。宇垣纏連合艦隊参謀長は陣中日誌『戦藻録』の中で、祥鳳沈没について以下のように言及している。旗艦「鹿島」に乗艦しラバウルに進出していた南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官は、当時の心境について「東郷大将ハ如何ナサレシヤ」(東郷《連合艦隊司令長官》は旅順港閉塞作戦で戦艦2隻《初瀬、八島》を喪失)と思い出して平静を務め、以下のように回想している。MO攻略部隊主隊はアメリカ軍機の再空襲を避けるため、祥鳳生存者の救助を中止して北上した。各艦は丸太、木片、救助用具、空樽などを投下すると、夕刻救助に戻る旨を祥鳳漂流者に手旗信号で伝え、沈没現場を離れた。12時15分、五藤司令官は「漣」を祥鳳沈没現場に向かわせた。3時間後に到着して救助を開始。祥鳳全乗組員836名のうち、准士官以上3名・下士官兵約600名の計631名が戦死、生存者205名(負傷者72名)と記録されている。乗員839名中生存者は203名とも。伊沢石之介大佐(祥鳳艦長)も生還した。また沈没時に乗艦してた報道班員(従軍記者)も救助されたが、漂流中にフィルムの乳剤が解けたため、戦闘中の祥鳳及び乗組員写真は現存しない。さらに18時55分、第六水雷戦隊旗艦(司令官梶岡定道少将)の軽巡洋艦「夕張」は溺者の声を聞いて第30駆逐隊(睦月、弥生、望月)と共に救助活動を行う。駆逐艦「弥生」は祥鳳乗員2名を救助。つづいて母艦を見失った漣内火艇を発見し、同艦に帰艦させた。その後、祥鳳生存者は給油艦「石廊」に移動後、トラック泊地で内地送還を待った。その際に伊沢大佐(祥鳳艦長)が加古の高橋艦長を訪問してる。なお、5月7日のMO機動部隊(翔鶴、瑞鶴)の攻撃は、索敵機が給油艦ネオショーを空母と誤認報告してこれに集中攻撃を行い、肝腎のアメリカ軍機動部隊には手を出さなかった。第六戦隊偵察機からの報告でヨークタウン、レキシントンに薄暮攻撃を敢行するも、アメリカ軍戦闘機に迎撃されて戦果なく大損害を受けた。結果的に見て、祥鳳喪失(アメリカ軍攻撃隊の祥鳳への集中攻撃)は第六戦隊や攻略部隊輸送船団を間接的に守ったことになり、これはアメリカ側も「この種の海戦ははじめてなので仕方が無いが、空母を過剰に叩きすぎて巡洋艦や輸送船団を見逃してしまった」と認めている。一方で、機動部隊同士の戦闘においてはMO機動部隊(翔鶴、瑞鶴)がチャンスを生かせなかったことで無駄になったといえる。深夜になり第六戦隊は二分割され、第1小隊(青葉、加古)は第六水雷戦隊等と共に輸送船団護衛を続行、第2小隊(衣笠、古鷹)はMO機動部隊(第五戦隊《妙高、羽黒》、第五航空戦隊《瑞鶴、翔鶴》、第7駆逐隊《潮、曙》、第27駆逐隊《時雨、白露、夕暮》)と合流して5月8日の戦闘に臨んだ。また、祥鳳沈没により南洋部隊指揮官(井上成美第四艦隊司令長官)はポートモレスビー攻略船団に対し退避を命令した。海からポートモレスビーを攻略する日本軍の企図は頓挫し、オーストラリアは日本軍の脅威から解放された。真珠湾空襲以降、日本軍の攻勢に押されていた連合国軍にとって、「祥鳳」(米軍認識「龍鶴」)の撃沈は日本海軍主力艦艇の初の撃沈であった。その戦果は戦意高揚のため大いに宣伝されたが、実際には大破だった「翔鶴」も撃沈したと錯覚していた。対する日本軍は国民の動揺を抑えるため大本営発表で『我方損害、給油艦を改造せる空母1隻』と発表している。また第四艦隊(司令長官井上成美中将)が受けた衝撃も相当なものだったという。戦史叢書では『兵力不足に加えて、広正面の作戦を担当していた南洋部隊としては、軽空母とはいえ、種々交渉の末ようやく与えられた、虎の子の空母であったからであろう。』と結んでいる。上記のように日本軍のポートモレスビー海上攻略構想は本海戦をもって頓挫し、珊瑚海海戦はアメリカ軍の戦略的勝利で終わった。5月20日、「祥鳳」は航空母艦から削除された、また水上機母艦「瑞穂」と同日附で軍艦籍から除籍された。計画1942年1月30日1942年4月23日1942年5月7日

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。