古賀 英彦(こが ひでひこ、1939年9月3日 - )は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手(外野手、投手)・コーチ・監督。日本人としてアメリカのプロ野球で監督を務めた唯一の人物である。愛称はアメリカ時代、アメリカ人には「英彦」が発音し辛いことから名付けられたハイディ("HIDEI")。ハイデー古賀を登録名としていたこともある。熊本工業高校から大学野球を目指すも受験に失敗し、卒業後の半年間はホームレス生活やキャバレーでボーイとして働くなどして過ごす。半年遅れで近畿大学に入学。、読売ジャイアンツに投手として入団。柴田勲や宮田征典らが同期だった。入団後、打者(外野手)へ転向。しかし、目立った成績を残すことなくに解雇される。その後はサンフランシスコ・ジャイアンツ極東スカウトのキャピー原田に誘われて渡米し、ジャイアンツやシカゴ・カブス傘下のマイナーリーグ球団などで主に投手としてプレー。3A昇格の内示を得る機会もあったが、直後に交通事故に遭い頸椎を骨折、全治2か月の重傷を負い、3A昇格も逃がす不運に見舞われる。またこの事故による影響で球速も落ちてしまう。にはグローバルリーグに「東京ドラゴンズ」の一員として参加。、アメリカ、ベネズエラ、プエルトリコを転戦したが、リーグが資金難やその他の事情で崩壊。その後の3年間( -)はアメリカでレストランを経営する傍ら、冬季に行われるベネズエラリーグのマラカイボで2シーズンプレー。しかし、レストラン経営に失敗してに帰国。プロ野球選手を引退する。帰国後は叔母のツテを頼って大洋ホエールズの打撃投手兼通訳(1973年 - )を務める。に太平洋クラブライオンズで一軍投手コーチ補佐(登録名はハイデー古賀)、その後は南海ホークスなどで通訳、編成担当を歴任。南海の後身である福岡ダイエーホークス職員だったから3年間、日本人として初めてマイナーリーグ1Aのサリナス・スパーズの監督に就任(サリナスとダイエーは懇意の関係にあった)、ダイエー(村松有人など)やヤクルト(河野亮など)からの派遣選手や、後にダイエーにドラフト1位で入団する大越基やメジャーリーガーとなるマック鈴木らを指導している。ハワイ・ウィンターリーグ球団のコーチ・監督を経て、からは旧知の仲である専務の根本陸夫の要請で福岡ダイエーホークスに復帰。ヘッドコーチ、二軍監督を務め、松中信彦や吉武真太郎らを育てたほか、外国人選手の通訳、外国人の世話係を兼務した(まで)。にはアメリカ独立リーグのウエスタン・ベースボール・リーグに加盟するソノマカウンティ・クラッシャーズでティム・アイルランドが監督の下、ケビン・ミッチェルと共にベンチコーチを務めた。なお、ホークス時代一緒に在籍していた佐々木誠も選手としてプレーしていた。からは千葉ロッテマリーンズで二軍監督を務め、、にはイースタン・リーグ連覇へ導いている。シーズン中に体調を崩して入院し、成績不振(最下位)だったこともあり、一度はフロント入りを打診されたが、成瀬善久らを育成した実績を盾に現場にとどまれるよう食い下がった結果、は二軍ヘッドコーチに配置換えとなった。からスコアラーを1年間務めて同年オフ、ボビー・バレンタイン監督の退任に合わせて退団。退団後、2009年の低迷の裏には、球団代表の瀬戸山隆三による圧力があったと主張している。、日本野球連盟に新規加入したTOKYO METSの監督となった。日本人野球関係者としては異例の経歴を持っており、またMLB球団の極東スカウト経験もあるなど、アイク生原やパンチョ伊東らと同様、アメリカやその他各国の野球事情や関係者に精通する希有な存在である。2008年には、古賀の人生を描いたドキュメンタリー書籍「二軍監督」(國安輪著、講談社)が出版されている。
出典:wikipedia
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