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政教分離の歴史

政教分離の歴史(せいきょうぶんりのれきし)では、政教分離の歴史、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけ政教分離が重視されたヨーロッパのキリスト教国家を中心に概観する。政教分離の画期としては叙任権闘争,宗教戦争,フランス革命がある。中世の西ヨーロッパ世界では、古代ローマ帝国の帝権(皇帝の権力)の延長線上に自身を位置づけ、世俗世界での至上権を主張するドイツの皇帝と、キリスト教信仰と教会組織を持ち不可謬権と聖書解釈を独占しようとするローマ教皇が、それぞれローマ法とカノン法という独自の法を持ち、権力と権威を二分していた。教会の取り込みは政治的にも重要視され、叙任権闘争では皇帝と教皇の優位性が争われた。宗教戦争や宗教改革を経た近代になるとジョン・ロックやフランス革命などでは信教の自由は自然権とされ、多くの近代世俗国家・国民国家で、信仰生活と政治活動は分離されるべきであるという政教分離原則が憲法に取り入れられた。今日では教会を国教制(イギリス)、公法上の法人格(ドイツ)、私法上の組織(アメリカ・フランス)として扱いは異なるが、国家と霊性を分離し、信教の自由を認めるのが一般的である。プラトンでは、個人的な徳の問題が公的なポリス政治の問題と結びつき、哲人王の支配の下、ポリスの公的領域を拡大し私的領域を縮小することが理想とされ、政治秩序に相対的な価値しか認めず、個人の内面道徳との懸隔を見るキリスト教以後の政治思想と大きく異なる。また霊性(スピリトゥアリタス、Spiritualitas)は、プラトン主義においては「霊(プシュケー)」を持っていることで人間が本質的に神と同族とされ、旧約聖書では「霊(ルーアッハ)」は人間を活かす生命力であり、肉とともに神と関係する人間を示し、新約聖書の「霊(プネウマ)」は人間的な意味を持ち、神の霊と人間の霊とは区別された。エイレナイオスは霊と肉の区別を批判し、その傾向が著しいグノーシス主義を排斥した。12・13世紀に教皇権が高まると霊性は教会聖職を指すようになった。パウロは政治秩序を神の摂理の中に位置づけ、当時のキリスト教徒が政治秩序のキリスト教的理解に基づいて受け入れるよう促した。パウロは教会と国家を分離し、国家に対するキリスト教徒の服従を説くが、従うべき対象として皇帝ではなく、神によって認められた権威を挙げて、この世の権威は神に拠らないものはなく、したがってこれを受け入れなくてはならないといった。パウロはローマ帝国の支配を無条件に肯定しているともいわれる。パウロや初期の教会指導者たちが政治権力への服従を述べている背景には、この時代のキリスト教徒に政治秩序への鋭い対立意識があったためとされる。アウグスティヌスはイエスが唱えた愛の精神的共同体を「神の国」とし、世俗世界を「地の国」とし、「地の国」はやがて「神の国」にかわると説いた。アウグスティヌスによれば、「地の国」の信者共同体である教会も本来のキリスト教とは異質なもので世俗の要素が混入しているが、教会は魂の救済を司る霊的権威として、「地の国」において「神の国」を代表する。また、国家は人間の支配欲に基づく卑しい存在で、その存在理由はあくまで神の摂理への奉仕、つまり教会への従属によって得られるとした。アウグスティヌスにおいて、倫理目標の実現の担い手が国家から教会へ、政治から宗教へと移行する過程を見ることができ、古典古代の政治思想との断絶が生じたとされる。またアウグスティヌスは人間の自由意志について論じたが、ルターらは予定説に立つ恩寵先行論に基づいて自由意志を否定的に論じたとし、エラスムスらは個人の自由意志を積極的に認めたとするなど解釈は別れ、後世でも論じられた。両剣論とは、教皇ゲラシウス1世が提唱し、「この世は聖俗二つの権力によって統治されている」という思想である。彼によれば、政治的支配をする王は「権力」 (potestas) を持つのに対し、教皇は権威 (auctoritas) を持っているが、後者こそが完全な主権なのである。。1140年頃に教会法学者ヨハンネス・グラティアヌスは「祭司は王と君侯の父であり師である」「皇帝は司祭に先んじるのでなく、従わねばならない」と説かれた。1302年に教皇ボニファティウス8世が出した教皇勅書『ウナム・サンクタム』では教皇権の至上性が説かれ、教皇の権力は「まったき権力」(plenitudo potestatis)とされ、万人への裁判権を有すると説かれた。中世になると皇帝に有利な解釈もあり、帝権が直接神に由来することは世俗的世界での皇帝権の自立性の根拠となった。なお、12世紀後半のイングランドでも国王ヘンリー2世と対立したカンタベリー大司教トマス・ベケットは教会優位の立場である。イエスは旧約的な神殿の礼拝を拒否してはおらず、祝日には自ら神殿に赴いたが、一方で内面を重視した新しい礼拝観を示した。しかし初期キリスト教ではイエスこそが祭司であり、そのキリストに繋がれているという意味で教会が祭司であった。このようなキリスト教はローマ帝国のいわゆる「皇帝礼拝」と相容れざるもので、帝国は公共祭祀である「皇帝礼拝」を受け入れないキリスト教徒を迫害し、とくに自らを「主にして神」と称したドミティアヌス治下に激しい迫害が起こったと考えられてきたが、迫害の史料は2世紀以降の伝承に基づくもので、迫害は無かったとする見方もある。保坂高殿は、「皇帝礼拝」という名での祭儀は多様であり、範囲も担い手も一様でなく、統一的に把握することには飛躍が伴うし、またヨハネの黙示録の「獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。」という記述についても正確な史実ではなく、ドミティアヌス統治期に皇帝礼拝拒否が処刑につながったという見方は困難とする。正教会における国家と教会の関係を示す政治理念についてはビザンティン・ハーモニーを参照。カトリックとは異なり、ビザンツ(東ローマ)皇帝の強い影響下にあった正教会においては、権威において教会の首長であるコンスタンティノープル総主教が皇帝を上回ることはなく、公会議も皇帝によって招集された。ヨーロッパ中世の世俗国家と教権の推移を概説する。中世初期の5・6世紀の段階においては、ゲルマン人の侵入や西ローマ帝国の滅亡など歴史的な地殻変動を象徴する事件が起きた後であったにもかかわらず、地中海をとりまくローマ世界はビザンツの帝権の下に存続していた。6世紀のユスティニアヌス帝は一時的に地中海の大部分を制圧し、かつてのローマ帝国を再現した。7・8世紀になると、地中海を中心とした統一的な世界は崩壊し、西ヨーロッパはローマを中心としたカトリック世界として、コンスタンティノープルを中心とする正教世界とは分離する傾向が決定的となる。その要因としては、イスラーム教徒の侵入、ビザンツ帝権の弱体化、ローマの自立の3つを挙げることが出来る。イスラーム教徒は、北アフリカ・イベリア半島を制圧し、これらの地のキリスト教文化は衰退した。とくに教会会議が頻繁に開かれ、中世初期において西方のキリスト教世界の一つの中心であったイベリア半島陥落の影響は大きい。ピレンヌはイスラーム教徒の進出が、地中海世界に経済的停滞をもたらし、それが西欧内陸の農村社会の発達を促したとする。ビザンツ帝国は一時的に地中海を回復したものの、イスラーム教徒の東地中海地域での拡大とランゴバルト族のイタリア半島侵入によって支配領域を縮小させ、西地中海での覇権を維持することが困難となった。これ以後ビザンツの帝権は南イタリアの支配地域を通じて間接的にしか西方世界に影響を及ぼせなくなる。ローマ教皇はビザンツ帝権の影響力低下に伴って、西方世界において強力な庇護者を別に求めねばならなくなった。と同時に、東方から自立して西方世界の宗教指導者たらんと積極的な布教活動に乗り出す。8世紀ビザンツで起こった聖像破壊運動に対する教皇の対応の仕方はこの表れで、教皇は西方教会をして、この運動の蚊帳の外におくことに尽力した。こうして東ヨーロッパと西ヨーロッパは、ローマ帝国とキリスト教という共通の根を持ちながらも、それぞれ独自の発展をしていく。リュシアン・フェーヴルによれば、ゲルマン人が徐々にローマ化し、ローマ人が徐々にゲルマン化した。そしてカール大帝により「一つの新しい政治的文化的現実」がまとまり、ヨーロッパ文明・ヨーロッパ形成体とでも呼ぶべきものが生まれ、それは自ら「キリスト教世界」と名乗った。レオ1世教皇が455年にヴァンダル族からローマを防いで以降、教皇の権威は高まり、5世紀前半にはイタリア・ガリア・ヒスパニア・アフリカ・イリュリクムに及んだ。ところが東方の神学論争に介入する皇帝の姿勢は不満の種となり各地で当時すでに有力な世俗領主となりつつあった司教の分離傾向が見られ、当時のガリア教会はメロヴィング朝の領邦教会と化していた。これに対抗してグレゴリウス1世は、ナポリ司教を解任し、メリタ司教を降格し、司教座に対する支配を徹底した。教皇グレゴリウス1世は、部族国家という政治単位に分断されつつある西欧世界の現実の中で、教会の統一を守ろうとし、教皇ゲラシウス1世の両剣論を根拠に、宗教的裁治の管轄権が教皇にあると主張した。しかし、俗権である皇帝権力が世俗的職務に専念すべきとしたわけではなく、皇帝の権威が神に由来すると認めて尊重し、皇帝権と教皇権の協働を唱えた。グレゴリウス1世は部族の君主たちに助言を与え指導することで、間接的に道徳的権威を行使した。それまで各部族国家の王は法律を作る権威を持たず慣習に従属していたが、キリスト教精神は国家理念の欠如していたこれら部族国家の目標となり、教会は国家に活力を与える存在となり、教皇座の霊的権能を高めた。イリュリクムに対する管轄権は732年、ビザンツ皇帝レオーン3世によってコンスタンティノープル総主教の手に移された。フランク王国でメロヴィング朝に替わってカロリング家が実権を握るようになると、教皇ザカリアスはカロリング家のピピン3世の王位簒奪を支持し、ピピン3世はランゴバルド族を討伐するとラヴェンナをローマ教皇に献じて教皇領が形成された。カール大帝も教皇ハドリアヌス1世にローマを中心とした中部イタリアを献じた。教皇レオ3世は800年、カール大帝に帝冠を授け、「西ローマ皇帝」の地位を与えた。かくして西ローマ帝国が事実上復活し、フランク国はキリスト教世俗国家を代表することとなった。カール大帝が帝冠を教皇から与えられたことは、のちに世俗君主が皇帝を名乗るのに教皇の承認を必要とするという観念につながり、教皇に優位性を与える根拠となった。西ヨーロッパでは、西ローマ帝国が滅亡してもローマ世界は存続していた。ゲルマン人の諸王は「皇帝の名によって」統治し、東ローマ皇帝の超越的な主権に服していた。これらゲルマン族の国王は宗教的権威において支配したのではなく、純粋に世俗的なものであって、教会はこれらの国家にとって本質的な構成要素ではなかった。国王の即位に際して何らかの宗教的儀式がおこなわれていたわけではない。ゲルマン人の王国では国王が教会の首長であり、司教を任命し、宗教会議を開催した。後世の国家とは異なり、これらの王国では世俗的支配者の同意なくして聖職者になることができなかった。ゲルマン系の国家にはフランク王国、東ゴート王国、西ゴート王国、ヴァンダル王国、ブルグント王国、ランゴバルド王国、アングロ・サクソン諸王国がある。ここでは西ゴート王国・ヴァンダル王国・メロヴィング朝フランク王国を特筆し、それぞれの国家と教会との関係を記述する。メロヴィング朝を開いたクロヴィス1世はカトリック教徒であった妻との約束により、ゲルマン人に定着していたアリウス派よりアタナシウス派キリスト教(カトリック)に改宗し、崩壊した西ローマ帝国貴族の支持を得た。カトリックへの改宗は集団改宗という形式で行われた。ただし、ゲルマンの王は集団の支持を必要としており、改宗は個人的な内面性より集団に重点が置かれていた。改宗が直接的に国王個人や住民の生活習慣を変えるようなものではなく、クローヴィスは洗礼を受けたにも関わらず、その後の有様は蛮族の王そのままであった。メロヴィング王国住民も表面的にしかキリスト教化されていなかった。600年頃には王国はアウストラシア、ブルグント、ネウストリア、アキテーヌに分割したが、クロタール2世により再び統一された。614年で王が出したパリ勅令で教会に裁判特権を与え、各分王国で宮宰が特別な地位を認められるようになった。メロヴィング朝治下のトゥール司教トゥールのグレゴリウスは、フランク王はクローヴィス以来、その征服活動によって自らガリアの支配権を打ち立てているという見方が示されており、ビザンツ皇帝から自立した独自の西欧世界の萌芽、領土意識と一定の民族意識を見ることができる。また、549年のオルレアン公会議は王権による司教任命権を承認したうえでその介入に歯止めをかけようとしたものであるが、グレゴリウスはフランク王権による教会介入に疑問を呈していない。メロヴィング朝の地方行政は司教が中心的な役割を担うようになり、宮廷官僚は地方に転出するときに司教職を望み、ゲルマン貴族が司教職に進出するようになった。メロヴィング朝では7世紀クロタール2世の統治期に王の権威の上昇が見られるが、これはキリスト教が王権に王国を守るという崇高な任務を与え、聖性を付与し、その意義を高めたからである。アリウス派を信仰した西ゴート族の西ゴート王国は、クローヴィスによってガリア(南フランス)から追い出されると、イベリア半島のトレドに宮廷を定めた。レオヴィギルド王は分裂傾向にあった国内を再統一した。カトリックに改宗したヘルメネギルド王子の反乱の翌580年に王は教会会議を開き、従来「父」より下位に置かれていた「子」を、「父」と同格とした。これによりカトリック側からの改宗者が増えたが、カトリック教会側は勢力切り崩しと捉え、反発した。しかし、つづくレカレド王は587年から589年にかけて、メロヴィング朝と同じくカトリックに集団改宗した。3世紀までのキリスト教への改宗は、使徒や宣教者の超自然的能力に対する驚きや感嘆、あるいは殉教の目撃という個人的体験に基づいて行われていたのに対し4世紀以降の改宗は崇敬感情よりも政治的熟慮のほうが勝っており、宣教活動は支配者を対象として行われた。レカレド王は改宗後に徹底的なアリウス派根絶に努めており、それにより王を中心とする政治的宗教的統一体形成の基盤をなしたという見方もある。また、セビリャのイシドールスの活躍により、西ゴート王国の教会は独立と自由を維持しながらも国王に忠誠を誓うという形で、ローマ教皇の管轄権を排除した。第4回トレド公会議において、西ゴート古来の制度によってゴート人の代表と聖職者によって王が選ばれるべきとされ、イスパニアの教会は西ゴート王国の現実政治に責任を負う存在となった。アフリカ北岸にヴァンダル族が築いたヴァンダル王国もアリウス派を信仰しており、カトリック司教がローマを通じて東ローマ帝国に通じているのではないかと疑い、敵対的な関係にあった。ヴァンダル王国ではほぼその全時代を通じて、カトリックと王権の間に軋轢が絶えなかった。ゲイセリクス王はカルタゴを占領すると、同地のカトリック司教クオドウルトデウスを追放し、以後24年間カルタゴには司教が置かれなかった。ゲイセリクスの後継者フネリクス王は晩年の484年に、かつてホノリウス帝がドナティストに出した告示を踏襲して、カトリック教徒を法の保護外とする告示を出した。カトリック聖職者、ルスペの司教フルゲンティウスは王権とアリウス派に対する抵抗運動を指導した。王権は弾圧し、カトリック聖職者はプロヴァンス地方やカンパーニア地方、イベリア半島へ集団亡命した。しかし、すでにアウグスティヌスの伝統が深く根を下ろしていた北アフリカの教会はこの弾圧に耐え、東ローマ帝国によって再征服後イスラームの支配が及ぶまで北アフリカは正統信仰を維持した。西ローマ帝国滅亡後のイタリア半島は、東ゴート族の支配を受けたのち、東ローマ帝国の支配に復帰したのであるが、やがてランゴバルド族の侵入によって、北イタリアから中部イタリアにかけての大部分はランゴバルド王国の支配に帰した。しかし、ローマとラヴェンナの間と南部イタリアは東ローマ帝国の支配下に止まった。やがてカロリング朝がローマ教皇の要請を受けて北イタリアに侵入し、774年にはカール大帝により北イタリアのランゴバルド王国はフランク王国に併合された。しかし、中部イタリアのランゴバルド系公国であるベネヴェント公国は存続し、分裂しながらも独立した政体を維持した。またビザンツ支配下の南イタリア都市も徐々に独立し、シチリア島はムスリムの支配下となる。こうして中世初期のイタリア半島南部は分裂状態におかれるのであるが、やがて傭兵として雇われたノルマン人の集団がシチリア王国を建国し、地域の統合をもたらすこととなり、新局面が訪れた。西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスがオドアケルによって476年に廃位されると、西ローマ皇帝は存在しなくなった。しかし、ローマ帝国の支配体制自体が変化を蒙ったわけではない。オドアケルは東ローマ帝国の宗主権を認めており、そのオドアケルの政権を打倒した東ゴート王テオドリックも東ローマ帝国の宗主権を認め、この間西帝国の元老院も存続していた。しかし、東ゴート族はアリウス派を信仰しており、東ローマ帝国との政治的対立に結びついた。東ゴート王国はローマ人官僚によって支えられていたが、彼らは正統信仰を維持しており、信仰上の対立がゴート人とローマ人の不和の原因となって王国の統治を攪乱した。テオドリックは寛容政策を展開して国内平和を保っていたが、晩年には宗教問題が政治問題化した。ローマの有力貴族アルビヌスが王位継承問題に絡んで東ローマ帝国と通じた問題でアルビヌスを弁護したボエティウスが処刑された。東ローマ帝国はボエティウス事件をカトリック教会に対する迫害と捉え、アリウス派を容認していたユスティヌス1世の態度を硬化させ、527年の勅令でローマ軍入隊を正統信仰者にのみ限定し、違反者には罰金や体刑を科して、アリウス派を弾圧した。ただし、国境軍や同盟軍などは対象から除外されるなど東ゴート族への配慮も見られた。さらに東ローマ帝国は以前からカルケドン信条を守っていたブルグント王ジギスムントやカトリック信仰に転じたヴァンダル王ヒルデリックと同盟してテオドリックを牽制した。ヒルデリックは523年に即位すると、先王トラサムントの親東ゴート的政策を放棄して、王国内の東ゴート族を虐殺し、アリウス派信仰を捨ててカルケドン派に転じていた。ユスティヌス1世を継承した甥のユスティニアヌス1世は532年にサーサーン朝のホスロー1世と永久平和条約を結んで帝国東部辺境を安定させると、西方の旧西ローマ帝国領の再征服に乗り出した。533年にカルタゴを占領し、534年にはヴァンダル王国を滅ぼした。535年にテオダハドが東ローマ帝国と友好的な東ゴート女王アマラスンタを殺害したことを口実としてイタリア半島に遠征軍を派遣した。東ローマ帝国軍は当初有利に事を進めたが、最高司令官ベリサリウスと将軍ナルセスの間に不和が生じるなど指揮系統に混乱が生じた。ナルセスが本国に召還されると、539年にはベリサリウスは東ゴート族を懐柔することに成功し、東ゴート族はベリサリウスを王に推戴した。しかし、ベリサリウスはササン朝の侵入に対抗するため540年に本国に召還されて、失望した東ゴート族は再び反乱を起こした。東ゴート族はトーティラを王に推戴して勢力を盛り返した。544年にベリサリウスはイタリアに戻るが、兵力不足から有効な反撃が出来ず、549年には再び本国へ召還された。550年にはトーティラ率いる東ゴート軍はローマを占領し、イタリア半島をほとんど支配して、シチリア島に侵入するまでになった。552年にナルセス軍が派遣されると東ローマ帝国軍は反撃に転じ、で東ゴート族を破った。東ゴート族はなおも各地に拠って抵抗したが、554年にはほぼイタリアに平和が戻り、561年には抵抗は完全に収まった。しかし戦乱によってイタリア半島の荒廃は進んだ。東ゴート王国下においては、古典古代の文化を保存する活動は維持されており、ボエティウスが『哲学の慰め』を著述し、カッシオドルスが『ゴート人の歴史』を書いてローマ人とゴート人の調和を説いたりといった文化活動が見られた。カッシオドルスは修道院教育に自由七科を導入するなど修道院文化の育成にも関わるが、この伝統は戦乱とともに一時廃れた。ユスティニアヌス帝による再征服活動によってイタリア半島は再びローマ皇帝の支配に服すこととなったが、ランゴバルド族が侵入し、ランゴバルド王国を築いた。アダロアルドゥス王の時代に妃テオデリンダはカトリック信仰に熱心で、教皇グレゴリウス1世とも親しく、聖コルンバヌスによる修道院設立を支援した。アギフルススがアリウス派を捨て、カトリックに改宗したのも彼女の影響である。また彼女以後歴代の国王は、三章書論争で三章書を支持して分離したミラノやアクィレイアの教会とローマ教会との調停に尽力した。しかし626年にアダロアルドゥスは義兄アリオアルドゥスによって弑され、アリウス派のアリオアルドゥスが王位に就いた。ビザンツ皇帝レオン3世がイコノクラスムを開始すると、教皇グレゴリウス2世はこれに反発して皇帝と対立し、折しも対イスラーム教徒戦争の重税に苦しんでいた多数のイタリア都市も帝国の支配に反抗し、リウトプランド王はビザンツ領へ侵攻し、ラヴェンナを奪取した。ビザンツ帝国は教皇グレゴリウス3世の登位後、ヴェネツィアの協力を得て734年にこれを奪還した。アイストゥルフ王は751年にラヴェンナを制圧してイタリア半島をほぼ統一した。しかし教皇ステファヌス3世の懇請を受けてピピン3世がイタリアに奪回した。次代の王デシデリウスはカール大帝の弟カールマンと結んでフランク王国の政治に介入しようとし、また教皇領を攻撃して領土拡大を目指したが、カール大帝のイタリア遠征を招き、ランゴバルド王国は実質的に滅亡した。フランク王国では7世紀半ばになると、各分王国で豪族が台頭し、メロヴィング家の王権は著しく衰退した。アウストラシアの宮宰を世襲していたカロリング家が台頭した。8世紀半ばにイングランドからの影響でフランク王国に大司教制が導入されると、カロリング家は各地の司教職に一門を送り込み、ゲルマニア・ルーアン・ランス・サンスの大司教をカロリング家が占めた。カール・マルテルはイベリア半島から侵入してきたイスラム教徒を撃退し、カロリング家の声望を高めた。つづくピピン3世は教皇ザカリアスの支持を取り付けた上で国王に選出され、カロリング朝を開いた。ランゴバルド王国を討伐して、ラヴェンナからローマに至る土地を教皇に献上した(「ピピンの寄進」)。763年頃に改訂されたサリカ法典序文では、キリスト教倫理を王国の法意識の中心に据え、フランク人を選ばれた民、フランク王国を「神の国」とするような観念が見られる。カール大帝の時代にはその版図はイベリア半島とブリテン島を除く今日の西ヨーロッパのほぼ全体を占めるに至った。ローマ教皇レオ3世は800年にカール大帝に帝冠を授け、東ローマ帝国から独立した、新しいカトリックの帝国を築いた。カール大帝の帝国は、後継者ルートヴィヒ1世の死後3つに分割され、今日のイタリア・フランス・ドイツのもととなった。888年には西フランク王位がパリ伯ウードに移り、一時的にではあるがカロリング家の血統から外れた。西フランク王位はこれ以後、カロリング家とロベール家の間を行き来し、やがて987年にはユーグ・カペーの登位とともにカペー朝が創始され、フランス王国にいたった。この時代は北からノルマン人・南からムスリム・東からマジャール人が侵入し、辺境防衛を担った貴族が軍事力を高めて、やがてカロリング家が東フランクで断絶すると、これら有力貴族が玉座に登り、ドイツ王国の枠組みが形成されていく。カール大帝の助言者の神学者アルクインはカトリック信仰が地上に平和をもたらすもので、その実現者をカール大帝に見て帝権を教権より優位とした。アルクインによるとされる795年のカール大帝の教皇レオ3世宛外交書簡では、キリスト教のための戦争、信仰の擁護などをフランク国王の職務と述べ、ローマ教皇の職務は祈りを通じた国王の補佐と述べている。799年のアルクイン・カール大帝宛書簡では、教皇・ビザンツ皇帝がいずれも堕落しているのに対し、カール大帝のみが正しいキリスト教君主であるとした。別の書簡でアルクインはカールのフランク王国を全キリスト教共同体を覆う「キリスト教帝国 ("Imperium Christianum")」と呼び、これは翌800年のカール大帝の戴冠で劇的に現実化した。アルクインはまた両剣論を取り上げ、カール大帝が世俗の剣も霊的な剣もともに神から授かったとして教権に対する帝権の優位を説いた。他方、同時代の教皇権を主張するものとしては偽文書の『コンスタンティヌス帝の寄進状』がある。これは教皇権擁護のため、フランク王国に対し旧ビザンツ帝国領に対する教皇の主権を証明するためであったといわれるが、教皇への対抗のために作られたとするものもいる。その内容は、コンスタンティヌス1世ローマ皇帝の病を教皇シルウェステル1世が救い、皇帝は教皇領と皇帝権を教皇に委譲したというもので、教皇が皇帝任命権を保持しているという主張の根拠とされた。カール大帝の戴冠もこの理念に則った形で行われた。中世ヨーロッパでは、皇帝権と教皇権という2つの権力・権威が相補的役割を果たしていた。11世紀に入ると、この皇帝権と教皇権の関係が叙任権闘争において対立した。叙任権闘争は1075年からヴォルムス協約に至る皇帝権を相手としての俗権叙任に関わる政治闘争である。他方で、教皇レオ9世はシモニア(聖職売買)根絶を目指して教会改革を始め、ニコライティズム(聖職者妻帯)も禁止したが、これらは抵抗に遭った。その後ニコラウス2世は1059年、ラテラノの教会会議で下級聖職者に限って俗人叙任を明確に禁止した。つづくアレクサンデル2世もシモニアやニコライティズムを強く批判した。教会改革は、グレゴリウス改革に結実する。また、教会改革と並行して展開した修道院改革運動は、11世紀初頭のロートリンゲンでクリュニー修道院を中心に行われた。クリュニー修道院はベネディクトゥスの修道精神に厳格に従い、世俗権からの「教会の自由」を主張し、この考えがロートリンゲンの修道院運動でシモニアやニコライティズムなど世俗世界の混入を批判した批判に結びついた。ただし、クリュニーはシモニアに対しては妥協的であった。こうした修道院改革は、ザリエル朝の皇帝ハインリヒ3世の共感を呼んだ。しかし、息子ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世は聖職者の任免権を巡って叙任権闘争で争うことになる。クリュニー精神の影響を受けたロートリンゲンの修道院は、徐々に修道士団の自立性を唱えるようになり、皇帝権からの自立を目指すようになった。教皇主導の教会改革が急進化するに及び、クリュニーは教皇庁と距離を置くようになっていった。改革派が唱えるドナトゥス派に通じる叙品論に対しては、クリュニーはペトルス・ダミアニとともにこれに反対し、イスパニアのカスティーリャ王国に影響を及ぼそうとする教皇の政策に対し、クリュニーはアルフォンソ6世と結びついて対抗した。叙任権闘争と教会改革の結果、教皇権は、皇帝権に対して一定の自立を勝ち得、その完結性を実現した。また日常生活に関わる秘蹟への関与を強めて民衆の精神支配において影響力を持った。12・13世紀に霊性(スピリトゥアリタス、Spiritualitas)は、人間の「超自然性」「非物質性」を意味し、さらには国家に対する教会法的意味での教会の聖職を指す用語となった。さらにシュタウフェン朝の断絶後に皇帝権が著しく影響力を弱めると、教権は全盛の時代を迎える。一方で教会改革を通じて高められたキリスト教倫理は、12・13世紀になると、民衆の側から使徒的生活の実践要求という形で教会に跳ね返り、さらには異端運動を生み出す元ともなった。また14世紀に入ると、教皇権は国家単位での充実を果たした俗権の挑戦を受けることになった。中世ヨーロッパにおいて周縁に位置するイングランドやイベリア諸国、スカンディナヴィアでは、そこがキリスト教世界にとって前線であるがゆえに、西ヨーロッパの中央とは異なったあり方でキリスト教が存在していた。これらの地域ではカトリックとは異なる典礼を発達・維持させていた教会が存在していたのである。しかしグレゴリウス改革の影響はこれらの地域にも波及し、新たな展開を見せた。ノルマン朝のウィリアム1世は王権を強化しようとして、国内の司教や大修道院長を叙任した。また王はカンタベリー大司教ランフランクの協力を得て、カンタベリー教会の首位権を確立した。ローマ教皇庁は批判したが、ウィリアムとランフランクは政教協力の思想の下に、イングランド教会の独立を守り抜いた。このことが、イングランド王国を信仰を通じた一つの共同体に変え、普遍的カトリックからの切り離しをもたらし、のちの国民国家へつながる枠組みの萌芽を成立させたという見解もある。一方、後任者アンセルムスは教皇首位権を認め、国王の干渉を非難した。ヘンリー1世は聖職叙任に関して教皇とアンセルムスに歩み寄り、ロンドン協約で俗人による聖職叙任を禁じた一方、国王に対する臣従宣誓を理由として司教叙任を拒んではならないという規則が設けられ、イングランド国王は教会に対する影響力を維持した。スティーブン王は教会との対立を深め、ソールズベリー司教ロジャーを逮捕投獄する事件が起こった。司教たちは、司教には国王を聖別する権利があると主張し、マティルダを「女支配者」 とした。スティーブン王の治世の間、教会はその混乱の中で影響力を強めた。イングランドでは、ウィリアム1世時代に世俗の裁判所と教会裁判所が分離されて、聖職者は教会裁判所で裁くとされていた。国王裁判所では死罪に当たるような罪でも、教会裁判所では軽い罰で済んた。ヘンリー2世は聖俗で刑罰が異なるこの制度の改革を意図し、教会裁判所で聖職者が裁かれ聖位を剥奪された場合は国王裁判所で改めて俗人として裁くことができるとし、国王の許可無く聖職者が教皇へ上訴することを禁じたクラレンドン法を制定した。カンタベリー大司教トマス・ベケットは教会の権利を擁護して国王に反対し、殺害された。711年の西ゴート王国滅亡後イベリア半島はイスラム教徒によって支配された。北部山岳地帯のキリスト教国アストゥリアス王国は最も積極的にイスラーム諸国に対抗した。アルフォンソ2世の治世後半にはアル・アンダルスから移住してきた西ゴート式典礼を維持したキリスト教徒(モサラベ)の建言を容れて、西ゴート方式の儀式を部分的に採用し、アストゥリアスが西ゴート王国の継承者であるという「新ゴート主義」が成立した。レオン王国・ガリシア王国・アストゥリアス王国はそれぞれ別の王を戴きつつ、レオンのガルシア1世がそれらをまとめて連合した。一方のアル・アンダルスでは、後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世やハカム2世の宮廷は北部キリスト教国のみならず遠くビザンツ帝国や神聖ローマ帝国からも使節を迎え、ナバラ王国やレオン王国に遠征してこれを屈伏させた。11世紀にはいるとサンチョ3世のナバラ王国が台頭し、カスティーリャ伯領・レオン王国を併合した。その息子フェルナンド1世はカスティーリャ=レオン王国として統一し、イスラム教国家諸国を攻撃して金による貢納(パリア)を求めた。フェルナンドの晩年にはレコンキスタ的な行動が見られたが、キリスト教国との戦争も頻繁に行われており、晩年の軍事行動が宗教的動機を離れたものか、キリスト教の保護者を自認するものだったか解釈は別れる。11世紀にはサンティアゴ・デ・コンポステーラがフランス人の巡礼者を引き付けた。聖ヤコブはスペイン人にとって重要でなく、レオン王国は聖イシドロ、カスティーリャでは聖ミリャン ()、アラゴンでは聖ゲオルギウスが守護聖人とされており、民衆の信仰対象は聖母マリアだった。フランス人はクリュニー修道院の改革精神をスペインにもたらした。クリュニーは王権から寄進を受けてスペイン各地に修道院を獲得した。アルフォンソ6世はトレドを攻略すると、トレド大司教をクリュニー派のベルナール () に任せた。必ずしも王権とクリュニーの利害が一致していたわけではなく、トレド大司教が独断でトレドの大モスクを奪取したが、これに王は激怒した。アルフォンソ自身は「二宗教の皇帝」と自称したように、イスラム教徒との共存を考えており、クリュニーや改革派教皇が称揚する十字軍的な聖戦概念とは、ずれがあった。一方でグレゴリウス7世がイベリア半島に首位権を主張した時、アルフォンソは「イスパニア皇帝」あるいは「トレド皇帝」を自称して牽制した。アルフォンソはクリュニーを支援することで教皇権に対する防壁とした。スカンディナヴィアでのキリスト教波及は西ローマ帝国の滅亡以前に遡るものもあるが、8世紀の北欧とフランク王国などのキリスト教諸国との間の交易が大きな影響を及ぼし、フランク王国は北方地域への布教を継続的に支援していた。8世紀初頭にイングランドの修道士ウィリブロード (Willibrord) はフリジアへ布教し、デンマーク南部のリベ(Ribe)の少年を連れ帰って教育し現地語で布教させようとしたが、伝道がデンマークに及ぶのは1世紀後である。9世紀初頭にフランク王国はザクセン戦争の結果エルベ川以南のサクソン人を服従させ、改宗を強制した。このことはサクソン人と境を接していたデーン人に脅威を抱かせ、デーン人を率いていたゴッドフリード () はフランク王国に抵抗するが、810年に政敵に暗殺された。彼の死後は息子たちが抵抗を続けたが、フランク王国との宥和政策を主張するハラルド () が台頭して内戦となった。819年にフランク王国の支援を受けてハラルドが権力を回復すると、彼の支配領域で、ランス司教エボ () の主導によってキリスト教布教が開始された。ハラルドの権力はつねに脅かされていたために、826年マインツでルートヴィヒ1世フランク王の見守る中キリスト教へ改宗した。彼は修道士アンスカル () を伴ってデンマークへと帰還したが、1年後には追放された。一方、829年にはスウェーデン東方にあったスウェーデン人 () の王の要請でビルカにアンスカルが派遣された。18年の歳月を要した彼の伝道活動は成功裏に終わり、ビルカの総督であったヘリガル () を改宗させ、彼によって教会堂が建てられた。グレゴリウス改革以後、西ヨーロッパ教会における教皇首位権が確立され教権が世俗の領域へ介入しようとしたが、封建君主たちの激しい抵抗に遭った。この時期封建制国家は、身分制秩序が発展し、身分制議会(等族議会)が形成され、等族国家という国家形態がとられた。これは貴族による王権の制限でもあり、同時に王国単位での共同体を創設することにもなり、普遍的な世界の解体につながり、絶対王政への橋渡しをする役割を担った。等族国家は教権の側から見れば、王国ごとに教会を分断する動きとなり危険なものであった。フィリップ4世は聖職者への課税権を巡って教皇と対立した。教皇の側ではコロンナが論陣を張り、一方のフランス王権を支持したのがパリのヨアンネスであった。ヨアンネスは聖職者は単なる精神的権威であるから世俗のことに関わるべきでないとし、一方で世俗国家を自然的社会の最高形態であるからその君主は教会による聖別を必要としないと論じた。ケレスティヌス5世が教皇庁を統治できずに5か月で辞任し、その後ボニファティウス8世が即位するが、不正な手段を用いたとみなされ、フィリップ4世は三部会を開いて等族諸身分の支持をとりつけ、教皇ボニファティウス8世を捕らえて憤死させた(アナーニ事件)。フィリップ4世はクレメンス5世を擁立し、1308年教皇庁をアヴィニョンに移転させた(アヴィニョン捕囚)。またテンプル騎士団も異端として告発された。「アヴィニョン捕囚」期は、枢機卿法廷や教皇庁控訴院(トリブナリア・ロータ、tribunalia rota)、教皇庁内赦院(ペニペンティアリア・アポストリカ、poenitentiaria apostolica)などが整えられ、教権の教会法上における権限の上昇が見られた。神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世が皇帝代理をイタリアに派遣し皇帝戴冠を目指すと、アヴィニョンのヨハネス22世教皇は教皇への服従を求めたが、ルートヴィヒ4世が応じないので破門した。また教皇は清貧論争で教皇と対立し、数名を異端として処刑されたフランシスコ会聖霊派はルートヴィヒ4世のもとへ逃亡した。パドヴァのマルシリウスは『平和の擁護者』(1324年)などで教皇首位権および世俗社会に対する教会の介入を批判して、国家は完全な共同体であり、法の権威を教皇でなく人民に求め、また教会はキリスト教徒全体の共同体であり、教皇権はキリスト教自体に根拠を持たない歴史的な産物とし、本来聖職者は平等であるべきとして公会議主義を唱えた。さらにマルシリウスは皇帝ルートヴィヒ4世と教皇ヨハネス22世との論争において皇帝の権力を正当化し、絶対主義的な国家理論を唱えた。マルシリウスの影響もあり、ルートヴィヒ4世は1328年にローマ人民によって戴冠された。ルートヴィヒ4世はヨハネス22世の廃位を宣言し、ニコラウス5世を擁立したが、ニコラウス5世は皇帝がイタリアを去るとヨハネス22世に屈服した。1338年の帝国法「リケット・ユーリス」は帝権が神に由来するとし、選挙侯による選挙によって選ばれた者がただちに国王であり、皇帝であることを定め、ドイツの国王位と神聖ローマ皇帝位に対する教皇の介入を徹底的に排した。ルートヴィヒ4世の死後、カール4世は金印勅書を制定して国王選挙権を7人の選帝侯に限り、ドイツ国王は教皇の承認を経なくても皇帝権の行使をおこなうことが可能となり、皇帝位がドイツ国王位と永久的に結びつけられた。一方で大空位時代から力を強めていた諸侯、選帝侯は領国内での無制限裁判高権、至高権、関税徴収権、貨幣鋳造権などの諸特権を獲得し、国王からの自立性を強めた。重要な帝国法は帝国議会で決定されるのが常となり、典型的な等族国家を形成した。イングランド王権と教権はジョン王の時代にカンタベリー大司教の選任問題をめぐって対立した。カンタベリー大司教ウォルターが1205年に死ぬと、その後継を巡って王とイングランド教会は別々の人物を後任としようとし、ジョン王は教皇インノケンティウス3世に仲裁を求めた。教皇は王と教会両方を批判した上でラングトンを大司教にするよう命じた。この決定にジョンは不満をあらわした。教皇はイングランドの全教会の聖務停止を科し、ジョン王は教会財産の没収を命じた。この争いの結果、イングランド王権はラングトンを大司教とすることを受け入れ、イングランド王が教皇の封臣となることを認めさせられ、多額の賠償金を払うこととなった。イングランド諸侯は反発はし、マグナカルタを起草して王に承認を求めた。マグナカルタの「保証条項」が王権の制限をもたらすことを危惧した王は直ちに拒否した。1215年5月5日諸侯は臣従誓約を破棄して反乱し、ジョン王は反乱諸侯の所領の没収を命じた。しかしロンドン市民が反乱に荷担し、ジョン王は妥協を余儀なくされ、6月19日にマグナカルタが承認された。ところがマグナカルタは「保証条項」で諸侯の権利拡大を規定していたため、教皇もマグナカルタを批判した。1216年にジョン王は逝去し、息子ヘンリー3世の即位にあたって、マグナカルタから「保証条項」が削除され、さらに摂政マーシャルの印章と共に、教皇特使の印章が付与された。またヘンリー3世は常設の国王評議会(キングズ・カウンシル)を認め、のちにこれが議会(パーラメント)と呼ばれるようになった。エドワード1世の時代、1295年の「模範議会からは平民の代表が呼ばれることが規則となった。エドワード1世はこの模範議会で聖職者と平民に課税同意を求めたが、聖職者は教権に訴え、教皇ボニファティウス8世は教皇勅書で俗権の教会課税には教皇認可が必要としたので、エドワード1世の意図はくじかれた。14世紀半ばのエドワード3世の時代になると、イングランド教会に対する教権の支配に対して国内の聖職者からの反発が強くなってきた。この時期教皇庁はアヴィニョンに遷移させられてイタリア半島にある教皇領は周辺勢力に浸食されて慢性的な資金難にあえいでおり、収入の一環として聖職売買をさかんにおこなっていた。とくにジョン王以来教皇の教会支配が強まったイングランドでは聖職売買によって地位を得た外人聖職者を受け入れていた。国王と議会は1351年に聖職者任命無効令を、1353年に上訴禁令で国内における教権の影響を排除しようとしたが、実際に行使されなかった。中世を通じて王権はキリスト教的な至上権から普遍的な支配権を主張する皇帝権・教権に対抗しうる神聖性、霊性を獲得しようとし、塗油による聖別などによって霊威、あるいは超自然的権威を位置づけることに成功した。霊威は徐々に世襲され、王家に一種のカリスマを付与し、王権が教権に対して一定の自立性を示す根拠となった。また、宗教的儀式によって、王は半聖職者的性格や奇跡的治癒能力を付与されると解釈され、王は聖職者に対しては優位性を主張した。このような王権の超自然的権威はローマ教皇の宗教的権威、具体的にはボニファティウス8世の教皇勅書ウナム・サンクタムでの教皇至上権への挑戦であった。中世前期、皇帝派の著述家は王の霊的権能を主張した。カロリング朝時代、カスウルフはカール大帝について「我が王よ、汝は汝の王たる神の代理人であることをつねに頭にとめておかれますよう。…(中略)…司教は二次的な地位にいるに過ぎません。」と述べた。王は純粋に世俗的で肉体的な自然的身体を持つ一方で、王として塗油された瞬間から他の世俗的権力者を超越する霊的身体を持ち、皇帝は教皇が存在する以前から存在し、この世のあらゆる権力は神に由来するのであるから、古代の皇帝は完全な権力を有し、皇帝権は教皇権に由来するものではないとされた。中世後期に帝国勅令「リケット・ユーリス」によって、皇帝の権力は神のみに由来し、教皇の承認なくして権力行使ができるとされた。中世後期に王の霊的権能のほとんどは名目的な称号や役職へと退化していたが、王権は叙任権闘争の過程で失った聖職者的性格を、新たにローマ法哲学によって回復するに至った。ルッジェーロ2世の1140年法令序文に「神へのこの奉献により王の職務は、自らに司祭としての特権を要求する。このことにより、或る賢者や法学者は、法を解釈する人々を『法の司祭』と呼ぶ」とある。中世の法学者は、裁判官や法学者を司祭になぞらえ、神聖視するに至った。そして世俗国家に新たな聖性を付与することに成功した。法学者たちは、王には自然的身体と政治的身体の二つの身体があり、自然的身体は可死的な王の生まれながらの身体であるが、政治的身体は不可死かつ不可視で、政治組織や政治機構からなり、公共の福利をはかるために存在していると考えた。教会では教皇首位権に対する公会議主義の思想が展開した。アヴィニョン捕囚以前の1213年の第4ラテラノ公会議でも、聖職者だけでなく、諸王の使節・イタリア諸都市の使者も出席した。また同時期にドミニコ会でも代議制的統治組織が発展し、世俗支配においては、1158年、バルバロッサがロンカグリアにおいて招集した帝国議会をその嚆矢とする。代議制統治の発展において、教会法学者の影響が大きいともされる。教皇グレゴリウス11世は教皇庁をローマへ戻し、アヴィニョンの時代は終わったかに見えた。しかし、1378年、ウルバヌス6世が即位すると、彼は枢機卿に対し強圧的になったため、枢機卿はフランス王の甥にあたるクレメンス7世を選出し、アヴィニョンに拠った。ここに教会大分裂が始まった。ヨーロッパの主要国は一方の教皇を支持して分裂した。ウルバヌス6世の側には、ルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝と帝国の大部分、ハンガリー、ボヘミア、ネーデルラントの諸国、イングランドがついた。一方のクレメンス7世にはフランス、スコットランド、サヴォワ、ハプスブルク家のオーストリアが支持を表明した。両教皇の死後も教権は分立し、ローマではウルバヌス6世が死ぬと、ボニファティウス9世が跡を継ぎ、アヴィニョンではクレメンス7世の死後にはベネディクトゥス13世が即位した。このベネディクトゥス13世はフランス教会への支配を徹底しようとして、パリ大学を中心とするフランス人聖職者の反発を招き、ガリカニスムを強めた。このような混乱のなか、両教皇庁の枢機卿団は公会議で新教皇を選任しようと公会議主義(公会議派)が形成された。ピサ公会議は両教皇の廃位を宣言し、新たにアレクサンデル5世を選出した。これに対し、ベネディクトゥス13世とグレゴリウス12世は自派の公会議を開いたため、ここに3人の教皇が鼎立した。ルクセンブルク家のジギスムント皇帝は、教会統一をめざしてコンスタンツ公会議を開いた。この公会議ではイングランドとフランスが百年戦争中で長い対立の中にあったこともあって、国民的な単位に基づく異例の投票形式が採用された。公会議派は公会議の決定が教権に優越すると主張した。会議ではフスなどの異端問題や諸対立で紛糾したが、3教皇を廃位しあらたにマルティヌス5世を選任し、教会大分裂は終わった。16世紀に登場したイベリア半島の大国スペインとポルトガルは盛んに海洋進出をはかり、新大陸・アジアなどへの航路を確保しながら広大な植民地を獲得し、これらの地域への布教活動においても重要な役割を担った。教権との関係でいえば、スペインは重要な個性として固有の位置を占める。カスティリャ王国とアラゴン王国の合同によって成立したスペインは、レコンキスタを完成してイベリア半島からイスラームの勢力を駆逐すると、国内の宗教的統一をはかるようになった。当初は征服地のイスラム教徒であるムーア人に信仰の自由を許していたが、彼らが反乱したのを理由に1501年、ムーア人に信仰を守って移住するか信仰を捨てて洗礼を受けるかの二者択一を迫った。またユダヤ教徒を国内から追放し、キリスト教に改宗したユダヤ人(コンベルソ)についても密かにユダヤ信仰を守っているのではないかという疑いをかけていた。イサベル1世とフェルナンド2世は、国内の宗教的統一が不可欠であると考え、教皇に要請して1478年スペイン異端審問所を設けた。この異端審問所は国王が全権を握り、スペイン教会における事実上教権からの自立を勝ち取った。さらに支配下のナポリ王国に教皇が領主権を主張すると、これに激しく反発して一時は教皇と断交寸前にいたった。つづくカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の時代にはサンティアゴ騎士団長の位が王家によって世襲されることを定め、国王は国内の宗教的権威と権限を掌握した。ポルトガルも1497年にイスラム教徒とユダヤ教徒の礼拝式を禁じ、1536年に設置されたポルトガル異端審問所は、スペインの場合と同じく、王権の秘密警察として機能した。しかしながら、のちのブラガンサ王朝の成立期においては、スペインからの独立に対して強固な抵抗勢力となった。異端審問所はしばしばその保守的性格から、イエズス会などの反宗教改革における革新勢力と対立し、反宗教改革運動の助長よりは抑止として機能した。この異端審問所はのちに、ポンバル侯の改革によって宗教的性格を払拭され、国家の司法機関に変貌した。宗教改革が主権国家を単位として宗教生活を規定する方向に進んだことは、普遍的なキリスト教世界に立脚していた一つの教会という理念を破壊し、教権の基盤を脅かした。教権は各主権国家に対して優位性を主張することができなくなり、国民を単位とした政治社会と国民国家が形成される。14世紀に入ってからの後期スコラ学の時代には、パリ大学では神学と哲学の分離を説くアヴェロエス主義的な傾向が強まった。アヴェロエスによるアリストテレス注釈は必ずしもキリスト教の教義と合致するものではなかったので、トマス・アクィナスはマイモニデスに依拠して神学と哲学の調和を唱えた。トマスは「哲学は神学の婢」ともいった。アヴェロエス主義は17世紀までフランスやイタリアで一定程度の影響力を持った。一方、イングランドのオックスフォードでは経験主義的な傾向を強め、スコラ哲学が批判された。ロジャー・ベーコンはトマスは経験に基いていないと批判し、従来のアリストテレスに依拠せず、実験と数学に基づいて研究した。ドゥンス・スコトゥスは、学問とは必然的で論理的であるべきで、神は論理的な積み上げによって得られる知識ではないから、神学が学問の中心的分野になることはおかしいとして、トマスの「神学は哲学の婢」という考え方は演繹的でないと批判した。オッカムのウィリアムは普遍的なもの(抽象)は名辞によってしか知られず、事物の本質はそれぞれの個体(具体)に存するという考えを唱えた(「唯名論」)。これはこの考えを拡張すると、この世界が合理的な秩序に基づいているという神の摂理を主張する立場が否定され、神の秩序は、神が個々に命じた個別的な意志の集積に過ぎないとする考え方に到達する。またウィリアムは『教皇権に関する八つの提題』では聖書の啓示は万民に許されているとして教権を攻撃し、宗教改革を先取りしている。オックスフォード大学教授ジョン・ウィクリフは、アウグスティヌスに基づいて予定説を唱え、真の教会が目に見えないもので救済が予定されている者によって構成されているのに対し、可視的な教会はすでに堕落しており、聖書のみに基づいたキリスト教の原始的な信仰に戻るべきだと説いて、教皇権を批判した。ウィクリフは死後、コンスタンツ公会議で1415年に異端とされ、死体が掘り起こされて焼かれた。ウィクリフの教えに従ったロラード派は弾圧された。ウィクリフに影響されたヤン・フスは個人の信仰を重視して教会を否定的に考えるようになり、ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖有状を批判し、聖書だけを信仰の根拠とした。コンスタンツ公会議でフスは異端と宣告され、火刑に処された。ジギスムント皇帝の時代になると、フス派は反抗的になり、皇帝はボヘミア征服のために十字軍を結成しフス戦争がおこった。フス派はヤン・ジシュカ率いる急進的なを中心としてジギスムントの十字軍を撃退したが、やがてフス派の穏健派が中心となって皇帝と和解し、皇帝を国王として認め、バーゼル公会議でカトリック教会に復帰した。エラスムスは、一般信徒が理解しやすい自国語で聖書に書かれた福音を聞くことがキリストの御心に沿うと主張した。一方、エラスムスは教皇首位権の普遍性を疑っておらず、また宗教改革派が世俗権力と結びつく傾向を見て批判した。またエラスムスとルターの教義解釈において、決定的な相違点としては自由意志の問題がある。ルターは「ローマ信徒への手紙」とアウグスティヌスに影響されて予定説に基づいた信仰義認説にいたったが、そこではただ「信仰のみ」が救いに至る道であるとされたのに対し、エラスムスは大部分の人文主義者と同じように信仰における自由意志を信じていた。エラスムスは教会の普遍性を信じ、カトリックとプロテスタントの統一に尽力したが、エラスムスの死後に宗教改革がますます激しさを増すと、当初は広汎に聖職者の支持を集めていたかに思えた彼の著作が宗教改革派との共通点を指摘されて、1546年、トリエント公会議で禁書処分にされた。1517年ルターによって「95カ条の論題」が発表され、宗教改革が開始された。神聖ローマ皇帝カール5世とエラスムス派の人文主義者、穏健的なカトリック聖職者はこの論争に際して宗教の統一を重視し、プロテスタントとカトリックの歩み寄りを期待した。一方教皇クレメンス7世とその後継者パウルス3世はプロテスタント側への歩み寄りが教皇首位権の破壊につながることを警戒して和解を拒否し、カール5世を警戒してドイツの分断を狙うフランス王、バイエルン公もこれに同調した。ルター派の側もザクセン選帝侯などが政治的理由から硬化した態度を取った。ルターはアウグスティヌスに従って人間の原罪を重視し、人間は本質的に罪人である上に神の絶対的支配の下にあるのだから、人間の意志による善行によって救われるのではないとして自由意志を否定し、ただ神の恩寵によってのみ救われるとした。神の恩寵に預かるためにはひたすら神を信頼し、神と個人との間には介在するものはなく、信仰を寄せることによって救いに至ることができる。ここから万人司祭主義、神の前での信仰における人間の平等、聖職者の特権の否定が説かれる。ローマ教皇派は聖職者は霊的身分(der geystlich stand)であり、国王や貴族の世俗的身分(der weltliche stand)と分けるが、ルターはこれは虚構であり、すべてのキリスト者は霊的な存在(geystlich stand)であるとした。これが世俗化論の起点になった。信仰の根拠は教会でなく聖書にあるとする。聖書解釈も万人の自由と述べた。ただしアウグスティヌスは教会は分裂よりも唯一であるべきと考えていた。またドイツ農民戦争の後の1528年にルターが非常時の臨時司教(Notbischof)を世俗権力者に請願したところ、世俗権力者にとってはこれを世俗権力の一部とみなし、領邦教

出典:wikipedia

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