ペドロ1世(Pedro I, 1334年8月30日 - 1369年3月23日)は、カスティーリャ王国の国王(在位:1350年 - 1366年、1367年 - 1369年)。そのふるまいから残酷王("Pedro el Cruel")または正義王("Pedro el Justiciero"、古い綴りでは"Pedro el Iusteçero")ともいわれる。名前もあだ名も同じで混同されやすいが、同じく「正義王」「残酷王」と呼ばれるポルトガル王ペドロ1世は叔父にあたる。1334年、カスティーリャ王アルフォンソ11世とポルトガル王アフォンソ4世の娘マリア(ポルトガル王ペドロ1世の姉)の間に生まれる。1350年、父が病死すると即位したが家臣の傀儡にすぎず、反発するも母マリアの裏切りもあり、逆に押さえ込まれてしまった。しかし、すぐに家臣たちは仲間割れを始め、その期に乗じて実権を握った。このとき母をポルトガルに追放した。異母兄にあたる父の庶子エンリケ・デ・トラスタマラ(後のエンリケ2世)も国外へ逃亡し、敵対する。こうして始まった治世は、有力貴族を弾圧して王権強化策をとり、下級貴族の文官やユダヤ人を登用した。しかし、エンリケが1366年に国内の多くの不平分子を結集して武装蜂起した。反乱軍は、アラゴン王ペドロ4世やフランス王シャルル5世と同盟していた。ペドロ1世はフランス王族の第2代ブルボン公ピエール1世の娘ブランシュと結婚していたが、折り合いが悪く、彼女を幽閉していたためにフランス王室が反発していた。これに対しペドロ1世は、一時的には国を追われたが、グラナダ王と結び、イングランドのエドワード黒太子に領土の割譲を条件に軍事援助を受け、1367年のナヘラの戦いでは勝利した。だが、ペドロ1世が約束の領土の割譲を渋ったことと病気(ペストではないかとの説もある)のために黒太子は戦線を離脱し、イングランドへ帰ってしまう。戦況は不利になり、ペドロ1世は1369年のモンティエルの戦いで敗北、戦死した(または捕らえられて処刑されたともいう)。ペドロ1世を破ったエンリケはエンリケ2世として即位し、トラスタマラ王朝の祖となった。ペドロ1世の戦いはカスティーリャ王室と対立する貴族階級との戦いであり、彼はエンリケに負けたのではなく貴族階級に負けたのだといわれている。貴族達は自分達にとって都合の悪いペドロ1世を排除し、自分達に従順な王朝、すなわちトラスタマラ王朝を擁立したのであった。結果的に彼の貴族たちを押さえつけようとした政策が裏目に出たこととなる。ペドロ1世の悪評の大部分は、反乱に勝利した彼の敵たちにより作られたものであると見られている。ペドロ1世の治世下ではカスティーリャ王国は治安が良く、その恩恵を受けていた商人達はペドロ1世の没落を惜しんだとされている。ペドロ1世に好意的な人々は、彼は単に法律に従わない、あるいは他人の権利を尊重しない者たちを殺しただけであるとした。後の世になって評価は見直され、その公正さから「正義王」という別名がつけられたのであった。ここに王家は交代したが、これはカスティーリャ王室と貴族階級との長年にわたる勢力争いの第1幕の終わりでしかなかった。王室と貴族階級との勢力争いはさらに2世紀近くも続き、16世紀初頭のカルロス1世の時代になってようやく終わりを告げる。王子の時代、エドワード3世の次女ジョーンと婚約した。しかし彼女はフランスからの道中、黒死病によりバイヨンヌで急死した。ペドロ1世は王妃ブランカ(ブランシュ)に対して不実であった。それは父アルフォンソ11世も同様であったが、父が王妃を冷遇するにとどまっていたのに対して、ペドロは王妃を幽閉し死に至らしめたのである。彼が誰はばかることなく情熱的に愛したのは愛妾のマリア・デ・パディーリャであり、彼はマリアと結婚していると主張した。ブルボン家のブランシュとは間違いなく正式に結婚していたが、その間にもカストロ家の女性フアナと結婚し、息子を生ませた後に捨てている。ペドロ1世が後宮の中で倦むことなく生涯愛し続けた女性はマリア・デ・パディーリャだけであった。マリア・デ・パディーリャとの間に1男3女をもうけた。成人した娘2人はいずれもエドワード黒太子の弟と結婚した。他の愛妾との間に4男1女がいる。このうち次女コンスタンスは、バイヨンヌ条約によりカスティーリャの王位継承権を放棄せざるを得なくなるが、その娘カタリナ(英語名キャサリン)が1388年にエンリケ2世の孫エンリケ3世と結婚し、ボルゴーニャ家とトラスタマラ家の血統の合一が図られることとなった。また、三女イサベルの曾孫は薔薇戦争に勝利し、ヨーク朝の祖エドワード4世となった。その血統は現代に至るイギリス王室に受け継がれている。
出典:wikipedia
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