キ74は、第二次世界大戦後期に試作された日本陸軍の偵察爆撃機である。設計、製造はキ77 (A-26) に引き続き立川飛行機。当初は戦争状態になかったものの、事実上の敵国の1つと考えられていたソビエト連邦用の長距離偵察機として開発が進められていたが、途中から戦略爆撃も可能な高高度偵察爆撃機に仕様が変更になった。連合国軍によるコードネームは"Patsy"。総計14機製造され、連合国軍に占領されたサイパン空襲等の計画が立てられたが、実戦に参加することなく終戦を迎えた(マリアナ偵察を行ったという文献もあるが、戦果も含めて詳細は不明である)。1939年(昭和14年)に日本陸軍では、立川飛行機に対して当時の仮想敵国だったソ連に対する長距離偵察を目的とした偵察機の開発を命じた。立川飛行機では行動半径5,000km、最大速度450km/hという機体の開発に着手し、1941年(昭和16年)半ばには1号機を完成させる予定で研究を進めていた。しかし、A-26長距離機計画が出たことを受けて、陸軍ではこのA-26計画機をキ77として開発することにし、その技術をキ74に転用することを決定した。この為、キ74はキ77の設計が一段落付くまで開発が中断されることになった。キ77の基礎研究終了後、立川飛行機ではキ77とキ74の設計を同時進行で進めた。このため、両機は非常によく似た外観を持つことになった。また、計画再開にあたっては、高高度性能の強化や最大速度の増加が要求され、爆撃能力や防御武装も追加となった。このため開発計画は大幅に遅延した。1944年(昭和19年)1月に試作第1号機が完成したが、当時の日本の工業力では排気タービン付のエンジンや与圧式キャビンの実用化は難しく、正式な審査が開始できる試作機が完成したのは1945年(昭和20年)1月になってからだった。なお、試作1号機の初飛行は、1944年(昭和19年)5月25日であった。従来の日本機には見られない独特な形状のコックピット、および爆撃手用の窓を持った胴体で、下部には爆弾倉が張出している。A-26よりはズングリとした形状である。与圧式キャビンのため、キャノピーの枠は太く透明部分は小さい上に、胴体内に乗員通路を設けた関係で操縦席が左側に片寄った形になった(試作1、2号機は胴体の中心線上に配置)。このため、乗員の視界は非常に悪いものになってしまった。爆撃照準器は、フィリピンで捕獲したボーイングB-17 に装備されていたノルデン爆撃照準器を国産化した10型照準器を装備した。尾翼はキ77(A-26)のものと形状はほぼ同じだが、主翼は左右別々に組み立てられた物を胴体に装着するタイプで、燃料タンクも外翼のみインテグラルタンクで内翼部は防弾タンクになっていた。また、主翼の長さはA-26より翼端が少し切り詰められて短くなっていたが、同様に層流翼になっていた。燃料漏れにまつわる話が残っていないことから、主翼のインテグラルタンクの工法はほぼ確立していたと思われる。この他、細部の形状や装備は試作機によって微妙に異なっていた。試作1号機が完成後すぐに性能審査は開始されたが、エンジンの不調、与圧キャビンの運用の難しさ以外は操縦性、運動性とも大型機としては良好とされた。(その後1号機は、昭和19年7月中頃に立川飛行場で試験飛行中にVDM電気可変ピッチの故障が原因で不時着大破している)。最大速度は軍の要求値に届かなかったものの、作戦航続距離は6000kmに達したため、陸軍では本機を爆撃機の主力とすることを決定し、試作機を使って乗員の訓練を開始した。また、縦安定性の不良が指摘されたため、形状の異なる複数の水平尾翼が試験された。陸軍では当初本機を使ってパナマ運河の攻撃を海軍と共同で行なう計画をたてていたが、搭載する爆弾の量から効果が疑問視され、途中からまとまった機数でのサイパン島のB-29基地に対する攻撃に計画が変更された。また、アメリカ本土空襲とパラシュート降下した乗員によるゲリラ作戦も考えられていた。しかし、いずれも実現することなく乗員の訓練中に終戦を迎えることとなった。終戦時には、少なくとも4機が残存していた(一部の機体は終戦時に軍の命令で破壊されたと言われる)。4機ともアメリカ軍に引き渡され、追浜からアメリカへ調査のために送られたが、1機を除き他はスクラップ処分となった。残った1機も飛行試験は行なわれず博物館に展示されることになっていたが、その後行方不明になってしまった。
出典:wikipedia
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