同和行政の窓口一本化(どうわぎょうせいのまどぐちいっぽんか)とは、同和対策事業を受注する際、民間の運動団体(多くの場合、部落解放同盟、もしくは同盟の影響下にある機関)のみを窓口として申し込むという方式を指す。一民間団体に行政機関的な権限を代行させるというものであったため、7項目の確認事項とともに、運動団体が組織を拡大していく上で大きな要因となった。戦後の部落解放運動は、部落の環境改善や個人給付などの優遇策を行政機関に要求し実施させる「行政闘争」を主眼として進められてきた。その中心となったのは、革新勢力の主導する部落解放同盟であり、部落と行政との仲介機関として、一般の被差別部落住民に、影響力を拡大していた。1961年、自民党と社会党は内閣に、同和対策審議会を設置することで合意し、政府として部落に対する本格的な取組みを開始する姿勢を明確にした。同時に自民党は、旧融和運動活動家を糾合する形で全日本同和会を発足させ、部落に集中的に予算を投下する際、部落内部の保守層を通じて自己の影響力を保つ方向性を示した。解放同盟内部には、このような自民党の対応への警戒感が生まれ、それに対抗し解放同盟が主導権を握った形での予算執行を担保させるための理論的主張が模索された。そこから提唱されたのが、各行政機関に対して、解放同盟を部落住民を代表する団体として認めさせ、唯一の窓口として施策を実施するという「窓口一本化」の主張で、「部落解放予算の人民的管理」を謳い、同和会や、保守勢力の影響が強い行政当局に影響力を強めるための有力な理論となった。この主張は解放同盟の活動家に広く受容され、大阪、広島、福岡など、解放同盟が強い組織基盤を持つ地域では実際に、解放同盟とのみ提携して同和行政を進める姿勢を明らかにする自治体が数多く生まれた。全解連の中西義雄は、ジャーナリストからと問われ、と答えている。1969年、大阪で発生した「矢田教育事件」をきっかけとして、部落解放同盟内の共産党系活動家が大量に排除され、排除された者たちは部落解放同盟正常化全国連絡会議(正常化連)を結成、解放同盟の分裂が表面化した。共産党員が幹部を務めていた府県連や支部では、旧幹部を除名した上で、新たに中央本部に直結する新府県連・新支部が結成されるなどの対抗措置がとられた。正常化連にとって、組織基盤を部落に維持し続ける上で、行政機関への影響力を保つことは不可欠であったが、そこで不都合となったのは、かつて自らも主張していた解放同盟と一部行政機関との間で実施されていた「窓口一本化」により、同和行政を実施する方式であった。解放同盟は、旧支部(その多くは、正常化連支部に移行した)との間で行われていた「窓口一本化」の対象となる組織を、府県連に直結する新支部にするよう要請し、多くの自治体がそれを受け入れると表明した。この事態に危機感を持った正常化連は「窓口一本化こそ諸悪の根源」と主張してその打破を図った。正常化連の結成当初、一部の地域で、部落解放同盟朝田派の窓口一本化は悪いが、正常化連支部による窓口一本化は良い、とする言動が見られたことは、正常化連の中西義雄も認めており、これを誤りとして自己批判している。以後、解放同盟と正常化連との間では、「窓口一本化」方式をめぐり、各地で攻防が繰り広げられた。正常化連の側では「わたしたちの組織では、正常化連の方が圧倒的につよい地域でも、朝田派や同和会に所属する人たちを、同和対策事業の対象にしてはならぬ、というようなことを主張したことはありません」としている。解放同盟、正常化連(全解連に改組)、同和会の他にも多数の運動団体が結成され活動を始めたり、団体幹部による不正行為が発生するなどという、部落をめぐる環境の変化もあり、また「窓口一本化」をめぐる訴訟が相次いだ結果「特定の運動団体を通さない同和対策事業の申請を受け付けないのは違法」との判決が相次ぎ、「窓口一本化」が実状にそぐわないことが次第に明確になってきたため、1980年4月には福岡市で、1980年12月には大阪市で同方式は廃止され、大都市の中では最後まで同方式を採り続けた北九州市でも「窓口一本化」の違法性を認める判決が続き、北九州土地転がし事件(1981年)の影響もあり、1980年代前半までに、同方式を採用する自治体はなくなった。どの同和団体が同和対策事業の個人給付(小学校入学支度金、出産助成金など)の窓口となったかは、自治体によって多種多様である。以下、1982年12月当時の状況について概説する。
出典:wikipedia
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