ニットウチドリは日本の競走馬。1973年に桜花賞とビクトリアカップを制し、4歳牝馬ながら有馬記念で2着と健闘し、優駿賞最優秀4歳牝馬に選ばれた。同期には稀代のアイドルホース・ハイセイコーがいる。主戦騎手は横山富雄。最後まで引き取り手が現れなかったが故に、牧場の基礎牝馬として残すべく牧場長自ら馬主となったニットウチドリは、親戚関係にある早来・吉田牧場で乗り込まれてデビューとなった。新馬戦は連敗したが、3戦目の未勝利戦をレコードタイムで勝ち上がった。クラシックシーズンに突入したニットウチドリであったが、そこには最優秀3歳牝馬のキシュウローレルがおり、桜花賞挑戦も馬主が調教師を説得しての参戦であった。ニットウチドリは阪神4歳牝馬特別を1分22秒8のコースレコードで勝利し、1番人気の桜花賞では1分35秒4のレースレコードで2走ともキシュウローレルを下した。2走とも、逃げるキシュウローレルを2番手マークから突き放すと言う内容であった。その後、4歳牝馬特別では3着、オークスではナスノチグサ(桜花賞馬ナスノカオリの全妹)に敗れ2着で春のシーズンを終えた。秋は京都牝馬特別こそ道悪で凡走したが、次走ビクトリアカップ(京都2400メートル。現在では秋華賞に相当)を勝利し、暮れの有馬記念でもストロングエイトの2着逃げ粘りと好走した。この好成績が決め手となり、最優秀4歳牝馬に選ばれた。しかし激戦の疲れのためか、古馬になってからは翌年1月のAJCC(東京2400メートル)で惨敗してから、見るべきものはない。1974年11月26日に引退したニットウチドリは、故郷・日東牧場で繁殖生活に入った。クラシックの反動から体調不良に陥っていたが、牧場スタッフの懸命な看病により繁殖牝馬として活躍する事となった。繁殖牝馬としてのニットウチドリは仔出しは良かったが、肝心の産駒の成績は思わしくなく、初年度のシンザン産駒・エスパル(22戦6勝。七夕賞2着、エリザベス女王杯4着)が最高であった。その後も順調に繁殖生活を送っていたが、1990年5月1日にビゼンニシキの牝馬を産んだ3日後に体調を崩してしまう。急いで獣医を呼んだものの、子宮破裂を起こしており既に手の施しようが無く、5月6日に死亡した。近年は牝系子孫の活躍は目立たないが、孫に1989年ダービー卿チャレンジトロフィーの勝ち馬アイビートウコウがいる。妹の孫にユキノサンライズ(中山記念、中山牝馬ステークス、フラワーカップ)がいる。
出典:wikipedia
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