イシノヒカルとは、日本の競走馬、種牡馬である。1972年の菊花賞、有馬記念に優勝。同年の優駿賞年度代表馬および最優秀4歳牡馬を受賞した。1969年、北海道門別町の荒木牧場で生まれる。幼駒時代は丈夫な性質であったが右前脚が外向しており、父母共に実績がなかったことから、他馬との抱き合わせでも引き取り手がなかった。3歳になっても馬主が決まらず、「キヨハヤブサ」という幼名のまま東京競馬場の浅野武志厩舎に入る。その後、浅野の妻が方々の馬主に掛け合い、7人目に話を持ち掛けた石嶋清仁が400万円で購買、これにより馬名はキヨハヤブサから、石嶋の冠名「イシノ」に光源氏から「ヒカル」を借用した「イシノヒカル」と改名された。同年(1971年)秋にデビュー。初戦は、翌年優駿牝馬(オークス)に優勝するタケフブキの5着に敗れる。その後もすぐに勝ち上がることはできず、4戦目に加賀武見騎乗で初勝利を挙げた。この次走の条件戦も快勝したが、この時期から関東の厩舎を中心に馬インフルエンザが流行し、1、2月の中山・東京開催が中止、それに伴いクラシック競走の皐月賞、東京優駿(日本ダービー)も順延となった。これにより関東所属馬の多くが影響を受けたが、右前脚外向による脚部不安を抱えるイシノヒカルには格好の休養期間となった。3月に開催が再開されると、緒戦のオープン戦を勝利、続くヴァイオレットステークスでは、「逃げの名手」とされる増沢末夫を背に、後方から鋭い追い込みを見せて4連勝を果たした。この年のクラシック戦線はロングエース、タイテエム、ランドプリンスの「関西三強」が中心と目されていたが、この3頭に対し、イシノヒカルは関東所属馬の代表と捉えられた。次走のオープン戦でロングエースと初対戦したが4着と敗れ、クラシック初戦の皐月賞に臨んだ。鞍上は加賀に戻り、当日は「三強」に次ぐ4番人気となった。レースはロングエースが騎手との折り合いを欠いて暴走気味に先頭に立ち、同馬をマークしたタイテエムが2番手、両馬を見る先行集団の中にランドプリンスがおり、イシノヒカルは最後方を進んだ。直線入り口でロングエースが失速、代わってタイテエムが先頭に立ったが、直線半ばでランドプリンスがこれを交わした。さらに後方大外からイシノヒカルが猛追、ランドプリンスを追い詰めたが、半馬身届かず2着と敗れた。次走の東京優駿では前走と同じく後方に位置取り直線で追い込みを見せたが、27頭立てという多頭数で馬群を捌くのに手間取り、ロングエースのレコード優勝の後方で6着に終わる。続く日本短波賞では1番人気に支持されたが、それまでの逃げ先行脚質のスガノホマレの鬼脚の追い込みに屈し2着となり、春のシーズンを終えた。秋は菊花賞を目指して早めに京都に入り、11月のオープン戦で復帰。以前2戦に騎乗した小島武久を鞍上に、7ヶ月半振りの勝利を収めた。次走に菊花賞を迎え、鞍上には増沢末夫を迎えた。当日は5番人気という評価であり、本馬場入場直後に大きく暴れたり、発走直前に落鉄により蹄鉄打ち直しというアクシデントもあり、レースの発走開始が数分遅れた。しかしレースでは後方2番手を進むと、直線入り口で最後方の位置から一気の追い込みを始め、ゴールまでにタイテエム以下18頭を全て差し切って優勝を果たした。このレースにより「三強」と立場が逆転し、年末の有馬記念出走馬を決めるファン投票において、第1位で選出された。迎えた有馬記念当日も1番人気に推され、レースでは後方待機から第3コーナーでスパートを掛け(3角まくり)、勝てば史上初の2億円獲得馬の栄誉を受けるはずだったメジロアサマ以下を寄せ付けず菊花賞からの連覇を達成した。秋の活躍が評価され、翌年1月には当年の年度代表馬と最優秀4歳牡馬に選出された。しかし年明けすぐに右前脚に球節炎を発症し、長期休養に入る。10ヶ月の休養後に復帰したが、一般オープン戦で7頭立ての最下位に終わり、これを最後に競走馬を引退した。競走馬を引退したイシノヒカルは、日本中央競馬会により2000万円で購買され、日本軽種馬協会の所有馬として十勝種馬所で種牡馬生活を開始した。しかし交配相手の牝馬に恵まれず、中央競馬で活躍する産駒が出ないまま、1985年に鹿追町の中野一成牧場へ無料で払い下げられた。その後、種牡馬としての再起を図っていたが、翌1986年春に肺気腫を発症し、牧場内で転んでは立ち上がる状態を繰り返すといった危篤状態になり、移転先での産駒を残すことなく安楽死の措置が執られた。1972年クラシック世代は「花の47年組」と呼ばれ、なかでもイシノヒカルと「関西三強」は、それぞれの陣営が「別の年に生まれていれば三冠馬になれるだけの可能性を持っていた」と口を揃えて語っており、個々のレベルが非常に高かったことで知られた。増沢末夫は中でも本馬を非常に高く評価し、後に自著の中で「最強馬との出会い」と題した一章を割いてイシノヒカルを取り上げ、「私は1万頭を越える馬に乗ってきた。その中で一番強い馬を挙げるとしたら、私は迷わずこの時(菊花賞)のイシノヒカルと答える」「脚さえ何ともなかったら、もっともっと活躍できたに違いない。それを思うと残念でならない」等と語っている。※マロットの代表産駒に、同馬主・同厩舎だったイシノアラシ(有馬記念勝ち)がいる。
出典:wikipedia
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