南武鉄道の電車(なんぶてつどうのでんしゃ)本項では、南武鉄道(現在の東日本旅客鉄道南武線)が保有した電車について記述する。南武鉄道では1927年の開業時には、モハ100形6両でスタートした。その後1931年までに同形車を15両まで増やしたが、経営状況が思わしくなかったこともあり、その後の沿線の工場増加などによる乗客増に対して、しばらくは中小メーカー製の改造車や鉄道省からの払い下げ車などで対応し、1935年時点では電動車17両であり、1940年時点でも電動車19両、制御車4両、付随車3両となったが、新造車は最初のモハ100形の15両のみであった。その後業績の回復により電動車10両、制御車5両を新造したが、並行して改造車も引き続き増備した結果、買収直前の時点では電動車29両、制御車9両、付随車3両(このほか付随車3両が五日市線に転出)であった。買収時には五日市線に転出した3両が客車となったため41両が国鉄電車となり、しばらくはそのまま南武線で使用された。戦災廃車は1945年4月15日の空襲で矢向電車区で被害にあった電動車3両と制御車1両(他に青梅線から借り入れていた付随車1両)で、当時の職員の話によれば空襲による火災の際に、検修庫がなければすべての電車の検査・修理ができなくなるという理由から電車よりも検修庫を守った結果であるとのことである。このほか木造の付随車3両などが戦後早くに廃車となっている。また、南武鉄道時代、南武線時代ともに競馬や工場通勤客輸送などの多客時には1001形電気機関車が電車を牽引した列車が走ったり、小田急や鉄道省から電車を借り入れたりしている。おなじ買収私鉄でも隣接の青梅線、鶴見線では早期に国鉄電車が入線しているが、南武線では建築限界が小さいため限界拡大工事が必要であり、特に線路上高圧線の鉄塔の建替えなどに手間がかかったため、1947年まで国鉄電車が入線できず、戦後の車両不足の際には旧青梅鉄道車の転属や小田急からの車両借り入れでやり繰りせざるをえなかった。南武線に国鉄車が入線するようになると次第に転属をするようになり、1951年には全車南武線から撤退した。主な行き先としては宇部・可部線が1950年~1958年の間に計16両、富山港線で1957年~1967年の間に計9両程度など、600Vもしくは750V区間での使用が多かった。(可部線は1948年は600Vから750V化、1962年に750Vから1500V化、富山港線は1967年に600Vから1500V化など)国有化時、南武鉄道に在籍した電車は、自社発注の半鋼製車と、鉄道省払下げの木造車があった。開業時に用意された15m級の半鋼製車で1926年に101 - 106、1928年に107 - 111、1931年に112 - 115が汽車製造東京支店で製造され、1951年まで南武線で使用された。価格は1次車で1両34,277円。1935年に鉄道省のモハ1形を2両譲受して401、402としたもので、17m級の木造車であった。501、5021937年に鉄道省のモハ1形を2両譲受して501、502としたもので、17m級の木造車である。503、5041940年に鉄道省の木造電車を木南車輌製造で鋼体化改造した16m級の半鋼製車で、価格は29,894.52円。505、5061942年に日本鉄道自動車で製造された17m級の半鋼製車で、価格は505で42,226.707円。1939年に211、212、1940年に213、214の計4両が木南車輌製造で製造された15m級の半鋼製制御車で、価格は211、212で1両24,731.25円。1939年に木南車輌製造で3両が製造された木造付随車で、201、202が14m級、203が16m級であった。1949年まで南武線で使用された。1941年に帝国車輌工業で151 ― 160の10両が製造された17m級の半鋼製車で、1951年まで南武線で使用された。1941年にサハ215が、1942年にハ216が、鉄道省の工場で木造客車の台車と台枠を利用して製造された、18mおよび17m級の木造付随車。サハ215はハ215とする竣工図もある。1942年に汽車製造で251 - 255の5両が製造された17m級の半鋼製車でモハ150形の制御車にあたり、価格は1両53,179.263円であった。1951年まで南武線で使用された。1942年に鉄道省の釧路工場で木造客車の台車と台枠を利用して301の1両のみ製造された15m級木造付随車。ハ301とする竣工図もある。
出典:wikipedia
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