第1海兵師団(だいいちかいへいしだん、)は、アメリカ海兵隊の師団の一つ。アメリカ海兵隊の現役部隊としては最も古くかつ規模が大きく、兵力は約19,000人である。司令部はカリフォルニア州、に置かれている。師団編制となったのは1941年2月のことである。太平洋戦争開戦後、第1海兵連隊と第5海兵連隊はニュージーランドのウェリントン、第7海兵連隊は西サモア、第11海兵連隊はフィジーの駐屯地に移動していたが、ガダルカナル島の戦いの準備のため、1942年7月28日から7月30日にかけてフィジーのに集結した。この時点でコロ島には89隻の輸送船と16,000の兵力が集結し、11日間の航海ののち、8月7日にガダルカナル島に上陸した。ガダルカナル島では12月9日に陸軍の第23歩兵師団と交代するまで戦い、650人の戦死者と1,278人の負傷者を出した。ガダルカナル島の戦いの後、第1海兵師団は休養と再編成のためオーストラリアのメルボルンに駐屯したが、カートホイール作戦開始に伴ってのニューブリテン島に移動した。1943年12月26日、第1海兵師団はニューブリテン島のグロスター岬付近に上陸し、が開始された。戦闘は翌1944年2月まで続き、310人の戦死者と1,083人の負傷者を出した。グロスター岬の戦いの後、第1海兵師団はルッセル諸島のに移動し、休養と再編成を行った。9月15日、第1海兵師団はパラオのペリリュー島に上陸した。日本軍はペリリュー島において、従来の戦術からゲリラ戦と縦深防御戦術に転換しており、第1海兵師団は苦戦を強いられることになった。ペリリューの戦いで、第1海兵師団は中隊長クラスの将校を含む1,252人の戦死者と5,274人の負傷者を出し、師団長の少将は師団長を更迭された。10月、第1海兵師団は再び休養のためにパヴヴ島に戻り、そこで新年を迎えた。そのため、硫黄島の戦いには第3・4・5海兵師団が投入され、参加していない。翌1945年4月1日、第1海兵師団は第6海兵師団とともに沖縄本島に上陸した。沖縄戦において、第1海兵師団は大名高地の戦いやシュガーローフの戦いに参戦したのち、首里城を制圧した。6月23日の戦闘終結の時点で第1海兵師団は1,655人の戦死者を出した。日本の降伏の後、1945年9月30日に第1海兵師団は中国の大沽に上陸し、河北省を中心に北平や天津、山東半島に展開した。しかし、国共内戦の激化に伴い、1947年9月1日に中国から撤退した。その後第1海兵師団は朝鮮戦争、ベトナム戦争にも投入されている。朝鮮戦争では、4,000人を超える戦死者を出した。
出典:wikipedia
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