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小林秀雄 (批評家)

小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年(明治35年)4月11日 - 1983年(昭和58年)3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家。近代日本の文芸評論の確立者であり、晩年は保守文化人の代表者であった。アルチュール・ランボーなどフランス象徴派の詩人たち、ドストエフスキー、幸田露伴・泉鏡花・志賀直哉らの作品、ベルクソンやアランの哲学思想に大きな影響を受ける。本居宣長の著作など近代以前の日本文学にも深い造詣と鑑識眼を持っていた。妹の高見沢潤子は、作家・随筆家、夫は『のらくろ』で著名な漫画家・田河水泡。長女の明子は、白洲次郎・正子夫妻の次男・兼正の妻。英文学者の西村孝次、西洋史学者の西村貞二兄弟は従弟にあたる。文藝評論家の平野謙は又従弟。正確には、小林秀雄の母方の祖母の城谷やす(旧姓千葉)と平野謙の母方の祖父の千葉實が兄妹の関係にある。小林の個性的な文体と詩的な表現は、さまざまな分野の批評に強い影響を与えた。文学の批評に留まらず、西洋絵画の評論も数多く手がけ、ランボー、アラン、サント・ブーヴ等の翻訳も行った。作家三島由紀夫は、『文章読本』(中央公論社)で、「日本における批評の文章を樹立した」と評価している。また、「独創的なスタイル(文体)を作つた作家」として森鴎外、堀辰雄と共に小林秀雄を挙げている。三島は、「文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに)芸術作品になつてしまふ。なぜかといふと文体をもつかぎり、批評は創造に無限に近づくからである」と述べ、小林秀雄を単なる批評家ではなく、芸術家とみている。小林から大きな影響を受けた批評家や知識人は枚挙に暇がない。酒癖は悪く、深酔いすると周囲の人にからみ始め、相手が泣き出すか怒り出すまでやめなかったという。日本語の通じないアメリカ兵まで泣かせたという伝説が周囲で囁かれていた。鎌倉市に在住し、文化遺産や風致地区の保存運動にも影響力をもっていた。父・豊造の洋行土産のレコードと蓄音機によって、小林は若い頃から音楽ファンであり、友人間で流行したレコードの竹針に否定的だった学生時代や、レコード針のテストのために父に貸し出したレコードをガリガリにされて憤慨したという回想も残っている。豊造の洋行土産であるバイオリンのレッスンを受けていた時期もあり(後年、小林は「ノコギリ引き」と評している)、学生時代にはマンドリンクラブに所属し、演奏会なども催している。父豊造は小林19歳の時に没しており、以後、小林は家長としての責任を背負うことになる。同年、第一高等学校在学中に神経症で休学している。初期の文章には、当時の自身に対する言及が少し見える。同世代の若者が新劇に熱心だったのを尻目に、小林は歌舞伎などの旧劇を好んだと回想している。後年の「平家物語」を論じる時などの小林の壮麗たる筆致にその影響を見ることを出来る。学生時代には美術室に一人こもって、絵画彫刻に親しんだということを書いている。一高時代から文芸同人誌に短編を発表し、志賀直哉の賞賛を受けるなどしていた。転機は大正末年、帝大仏文科在学中の23歳の春に神田の書店街でフランスの象徴派詩人アルチュール・ランボーの詩集『地獄の季節』の「メルキュウル版の豆本」と出会ったことである。「ランボオIII」で小林はニーチェのショーペンハウアー体験になぞらえて「(通りの)向こうからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである」と書いている。以後、小林の二十代はランボーを中心に展開することになる。学生時代は講義は休みがちな不良学生だったが乱読家で、在学中24歳の時に東大仏文研究室の「仏蘭西文学研究」に発表した「人生斫断家アルチュル・ランボオ」(現行タイトル「ランボオI」)を読んだ指導教官が「これほど優秀なら」と卒業を認可した。大正末期から昭和初期にかけては、第一次世界大戦後の混乱から生じた西洋進歩主義の崩壊時期であり、(参照「実存主義#不安の時代」)一方で大戦末期にロシア革命が成功し、日本の知識人においても社会主義信奉は時代の流れであった。このような時代にあって、19世紀に早々と、と、近代的進歩主義に懐疑と反逆のつぶてを投げつけた『地獄の季節』のランボーとの出会いによって、初期の小林の歩みは始まった。小林は28歳の時、文藝春秋において文芸時評を始める。その文字通り人生を斫断するかの如き歯切れの良い「溌剌とした」(当時、小林が好んだ言葉)、挑発的な批評スタイルによって、小林は新進批評家としての地位を確立した。後年になり、小林は若い時代を顧みて「当たるだろうと思ってやり、果たして当たった」という旨のことを書いている。この時代、日本の知識人は、知的に停滞した前近代的な守旧派と社会主義の二者択一を迫られ、かつ知識人は社会主義に対して何らかの反駁を行う元気もない状況にあり、そのどちらにも与しない小林の批評態度の鮮烈さが支持されたのである。この時期、小林は同人誌「作品」を立ち上げ、ランボーの『飾画』を掲載している。初期小林批評の勢いは、翌年1931年の始めに同じく文藝春秋で発表した「マルクスの悟達」で頓挫する。後年、小林は文藝春秋創立者の菊池寛を回顧する文章で、菊池が比較的早い時代から、日本の急激な左傾化が、かえって反動ファシズムを引き起こす懸念を持っていたことを書いており、このような菊池ら文藝春秋上層部の配慮が小林に対する圧力となったものと、以後の小林の文章からは推察される。当時、世界は大恐慌の入り口にあり、日本は統帥権問題を端に発した軍部の暴走、その延長として起きた満州事変と5.15事件による立憲政治の中断、特別高等警察の設置などによる緊迫した情勢下にあった。間もなく小林は、文藝春秋の連載を終了することになる。この時期に書かれた小林の「Xへの手紙」は、「マルクスの悟達」以後の経緯についての苦渋に満ちた弁明と暗黙の転向宣言とも取れる内容となっている。この時期以後、小林はランボーについて触れることが急減し、内心に複雑な屈折を抱えたまま文筆活動を継続することとなる。小林は言わば仮面の下にランボーを隠さずには文筆活動を続けることが不可能になったのであり、以後の評論では、ランボーとの出会い以前に小林に影響を与え、ランボーによって捨て去ったフランスの象徴詩人ボードレールや同じくフランスの哲学者ベルクソンに対する言及が増えて行く。以後、日中戦争開始後になっても小林は、マルクスについて単なる反共主義以上の関心を以て断続的にではあるが執拗に論じ続けることになる。また敗戦直前に獄中死した唯物論哲学者で好敵手だった戸坂潤の誘いを受けて唯物論研究会に名を連ねてもいる。小林はまた、転向者の面影を書いた文章も少なからず残している。戦後『大東亜戦争肯定論』を著し、戦後論壇に論議を起こした林房雄が、二度の入獄を経て転向する以前の好感を持てるユーモラスな性格の左翼文学青年時代を書き、林自身の興味深く辛辣な転向論を紹介している。この時代にあっては左翼知識人の検挙と転向は日常的な出来事であった。小林のドストエフスキー論はこの時期以後に始まる。ドストエフスキー論で小林は、帝政ロシアの反動体制において西欧進歩主義の世界に遠い憧憬の眼を投げる若いインテリゲンチャについて「どれもこれも辛すぎる夢」というドストエフスキーの青年期の書簡での言葉を引きつつ、ファシズム興隆期の戦前昭和で生きる自らを仮託している。1933年(昭和8年)より発刊された「文學界」の同人となり、1936年(昭和11年)には創元社に編集顧問として参加している。創元社で小林は『ランボオ詩集』、『ドストエフスキイの生活』などを出版して同社の盛名に貢献している。日中戦争が始まる前年の1936年に、小林は正宗白鳥との間で、ロシアの文豪レフ・トルストイの最晩期の家出を巡って、後年「思想と実生活論争」と呼ばれることになる論争を行う。これは、大作家トルストイが晩年になり家出によって路傍に斃死したことを、白鳥がそれをトルストイ夫人との不和を原因として大作家における凡人の苦労として共感を寄せたことに対して小林がやや大人げないとも言える攻撃的な異論をぶつけたものである。この論争についての小林の白鳥に対する論駁は晦渋で、一見要領を得ないものである。この時期より間もなく、小林は現代詩についての評論を発表し、そこでこの時期には珍しく封印中の詩人ランボーを引き合いに出している。また、やや時間をおいて別の文章でトルストイの家出を「ロシアの古い巡礼の霊」が彼を誘い出したというようなことを言っている。これからのことから、小林はトルストイの家出を、天才的詩作を惜しげもなく抛棄して放浪の生活に身を投じた詩人ランボーに引き寄せて理解していたものと推測出来るであろう。詩人中原中也とは、帝大時代に富永太郎を介して知り合った。初期の小林の文章には、若き小林と中原が公園のベンチに並んで腰掛けている時、無言のまま枯れ落ちる無数の落ち葉を異常な集中力で追う小林を中原が突如制止して、小林がそれを呆れて中原の「千里眼」と評したという回顧がある。中原は支那事変の始まった1937年の十月に病没し、小林は一週間病院に詰めた。小林の「戦争について」は、中原の死による小林の青春の終わりを宣言するように翌月発表された。この小林の文章の響きは、同時期に論じていたドストエフスキーの「作家の日記」における露土戦争へのドストエフスキーの肯定宣言に似ている。この文章で小林は「人生斫断家アルチュル・ランボオ」以来の宿命論を持ち出して以下のように書いている。この時期以後、戦時中の小林の文章には口癖のように「日に新たな」という言い回しが登場する。これは小林の手によって翻訳されたランボーの『飾画』(イルミナシオン)終章「天才」における、という一句を連想させるものである。小林は「戦争について」から間もなく、ベルグソンに深く影響を受けた歴史哲学の随想「歴史について」を序文に『ドストエフスキイの生活』を出版している。これについて小林が珍しく素直な喜びの感想を残しているのは、この出版が戦争協力に対する対価であった可能性を匂わせる。ドストエフスキー論に似つかわしくない歴史哲学が序文に付されているのもカモフラージュと言えなくもない。戦時中の小林は、哲学者カントの空気のない空間で羽ばたく鳩をしばしば持ち出して、政治的不自由に不満を抱く自由主義者を非難している。小林は戦争協力講演で、「主義(イデオロギー)」の不毛を説き、「これは僕の勝手な説ではない」と前置きし二宮尊徳の名前を持ち出すなどしている。津田左右吉の自由主義的歴史研究の弾圧された頃には、ランボー「地獄の季節」が岩波文庫に収録された。知的障害を持つ画家山下清が話題になった時期には、彼の画の感性については評価しつつも、精神性の欠如を指摘して退けている。これは山下が放浪を始める以前のことである。小林の態度を「大人げない」と取るか、「知的障害者の作なのであるから」という態度を是とするかは意見が分かれるであろう。また、当時の最先端の娯楽であった映画(活動写真)についての少なからぬ数の論考もこの時期に残している。戦後には、黒澤明のドストエフスキー映画『白痴』公開後に「『白痴』についてⅡ」を著し後に対談も行っている。また、戦後の小津安二郎作品に関わった文学者は小林周辺から出ている。小林は戦時中、6回にわたって中華民国を訪問している。最初の訪問は1938年3月で、日本軍から文藝春秋の特派員として招聘され、満洲を回った。1940年になると小林は、菊池寛らによる文芸銃後運動の一員として、戦争を支援するため川端康成、横光利一ほか 52人の小説家とともに日本国内、朝鮮および満洲国を訪問し幾つかの文章を残している。1938年の訪問は、従軍中の火野葦平に対する芥川賞の陣中授与式も兼ねており、火野は『麦と兵隊』でその時のことを書いている。小林は太平洋戦争開戦について、「三つの放送」で次のように記している。対米開戦翌年には小林は編集者として長く関係して来た「文學界」において盟友河上徹太郎の司会の元で「近代の超克」座談にオブザーバー的に参加している。ここで小林は、近代科学と形而上学の分離を説くなどする下村寅太郎を中心にした科学論に口を挟み、下村の言葉を受けて、という言葉を吐いている。また小林は戦時中、「自然を征服するとは、自然に上手に負けること」であると、鈴木大拙を思わせる言葉を残している。しかし、小林の戦争協力姿勢は時を追って勢いを失い、戦争末期には小林は口を開くのがおっくうそうであったと言われ、仲間内では「小林は何をやって食っているのか」が話題になるほどであったという。この時期の小林の目立つ仕事は時局柄、「当麻」、「実朝」、「平家物語」、「無常というふこと」など日本の古典についての文章が多い。小林は敗戦の二年前の昭和18年、旅行中の南京で『モオツアルト』を書き始めた。これはモーツァルトを中心に立てた一種の天才論であると同時に、終わりの予感が兆し始めた一つの時代への「レクイエム」でもあった。この後、しばらくの間小林は若い時期からの音楽を聴く習慣を途絶させた。GHQが公職追放令を発布して間もない1946年(昭和21年)1月12日、雑誌「近代文学」の座談会「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」で小林は、出席者の本多秋五による小林の戦時中の姿勢への言及を受けて以下のような発言を行った。一部には、これを敗戦後に戦前とはうってかわって、「右翼的文化人」から「左翼的文化人」に変貌した当時の大多数の知識人らと比して立派であると評価する声もあるが、「反省しない」と言う言葉を用いて、戦前の言動を正しかったとか、悪かったとか戦後の世間一般の価値観でもって自分自身を肯定・否定しているわけではなく、戦争に負けたとたんにその立場を180度転換した戦後の世間一般の価値観でしか己の立場を決定できない人々を小林は「頭がいい人」と揶揄し、批判したのである。戦時中は軍国青年で、戦後はすぐ左に行ってしまったと自ら回顧する吉本隆明は、敗戦の放心状態にあって小林のこの発言の一貫性について膝を打ったという旨のことを第五次小林秀雄全集によせたインタビューで述べている。「事変に黙って処する」というのは小林の事変当初から強調した表現だった。また、吉本は小林の「マルクスの悟達」に至るまでの文章を挙げてマルクスを一番良く理解していたのは小林だったと評価している。この年の半ば頃、小林の実母である小林精子が没し、左翼論壇による戦責追求、戦時中からの明治大学の教授職の辞職などが連続して起き、酩酊状態で水道橋の駅のホームから崖下に転落して奇跡的に軽傷で済むというようなことも起きている。小林はこの転落事件を強がりを見せながら触れているが、小林の娘の回想では帰宅時には生気の抜けたような青白い顔をしていたとのことである。この対談で、小林は文芸時評へのやや乱暴な決別宣言をしている。この後、間もなく小林は「マルクスの悟達」以後、殆ど触れることのなかったランボーについての論を新たに発表し(「ランボオIII」)、ドストエフスキーの『罪と罰』についての二つ目の作品論「『罪と罰』についてII」を発表するが、全体として戦後の小林の文筆活動における近代文学評論のウェイトは低下して行くことになる。ツアーリの秘密警察が跳梁する帝政ロシアにおいて、ドストエフスキーは人道主義的作品によって新進作家として華々しいデビューを飾った。間もなく社会主義サークル活動のかどで流刑の憂き目にあったドストエフスキーが、ペテルスブルクに帰還したのは1858年である。翌年、ダーウィンが「種の起源」を発表し、西洋キリスト教世界の伝統的世界観が合理主義の号令と共に激変を始める。日本では幕末に相当し、アメリカを先頭とする西洋列強と江戸幕府との間で通商条約の締結が行われている。この時期、ドストエフスキーは西欧へ視察良好へ出かけ、帰国後『地下室の手記』を皮切りに『カラマーゾフの兄弟』に至る一連の問題作の著作を開始する。『罪と罰』はその二作目に当たり、発表された1866年は日本では明治維新の二年前に当たる。『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは選良主義的超人思想にとりつかれたノイローゼ気味の青年である。ラスコーリニコフは運命の歯車に引きずられて哲学的殺人を起こし、自らの挑戦に敗北して自首し、流刑地に送られる。この作品の終わり際に、主人公が病にうなされて黙示録的な悪夢を見るという、一見するとストーリーとは直接関わりのない不思議な場面が唐突に挿し挟められている。「アジアの奥地」で発生した意志と知性を持つ魔性の微生物がヨーロッパに蔓延し、人類は傲慢と孤独の狂気に取り憑かれて世界は崩壊してしまうというのが悪夢の内容である。敗戦間もない1948年に発表された「『罪と罰』についてII」で、小林は以下のような言葉を残している。『罪と罰』で主人公はキリスト教的に救済されるが、この悪夢について作者ドストエフスキーはそれ以上、何の解説もせずに物語を終える。ドストエフスキー作品では唯一終末論が取り扱われ、冒頭で日本人の風習が話題になる次作『白痴』が発表されたのは、日本では明治維新の年に当たる1868年である。「『罪と罰』についてII」発表と前後して、小林はたまたま訪れたゴッホ展で出会った「カラスのいる麦畑」を前にして「ゴッホの巨大な目玉」に見据えられているような衝撃を受ける。以後、しばらくの期間をゴッホを中心としたフランス印象派絵画に関心を振り向けることになる。『ゴッホの手紙』はゴッホの書簡からの引用を多用しながら、戦後の小林の孤独と苛立ちのにじむものとなっている。ゴッホは読書家であり、その書簡にはドストエフスキーの名前なども見える。小林は後にみすず書房から出版された「ゴッホ書簡集」の監修もつとめ、この書簡集は小林没後に始まった80年代バブル期の絵画「ひまわり」購入騒動の頃に新訳に置き換えられるまで日本人のゴッホ信仰のバイブルでもあった。後に岩波文庫にもゴッホ書簡集は収録されることになるが、書簡引用の多い小林の『ゴッホの手紙』はそれらの先駆的な意味があると言える。この時期の小林の文章は、ゴッホなどの絵画論と並行して日本の古典、小林特有の音楽的関心からのニーチェ論などの重要なものも多いが、一方で緊張感の抜けた雑文も増える。またジークムント・フロイトについての言及が増えるのも戦後の時流の影響と無縁ではないであろう。60年安保以前には、吉田茂、南原繁、鈴木大拙などと共にNHKラジオに登場するなどもしている。小林は1952年(昭和27年)から翌年までヨーロッパへ旅行する途中、ギリシャ・エジプトなどの古代遺跡を巡り、紀行文を遺している。この時期以後、小林はプラトンの著作への関心を深める。但し、小林のプラトンへの関心はむしろソクラテスに対する関心であり、これを元にソクラテスのダイモニオンを論じた「悪魔的なもの」を書き、60年安保を前後する時期の『考えるヒント』に繋がる。1958年には、小林が悪影響を懸念して死後公開を禁じ、第五次全集で故人の遺志を裏切る形で公開された未完のベルグソン論の連載を開始する。この連載の契機となったのは何よりこの時期の小林のギリシャ哲学への傾斜であろうが、当時内外論壇を賑わしたコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』の神秘主義的進化論の影響も考えられる。この時期、小林の盟友河上徹太郎は『日本のアウトサイダー』という評論を著し、これを小林は出版事情については言葉を濁しながら、『考えるヒント』で紹介している。1859年にダーウィンが『種の起源』を公表した当時、イギリス(大英帝国)ではダーウィンに先んじジャーナリストのロバート・チェンバースが匿名で出版した、万物進化論を主張する『創造の自然史の痕跡』が話題となっていた。これについてダーウィンは「下等」、「高等」という概念を人間の主観的価値観の産物であって科学的な概念とは言えないとして、その科学的価値には否定的な評価を下している。一方で、その影響が自らの学説の普及するために一役買ったことについては一定の評価を下している。このような、「下等」な生物が「高等」な生物に変化するという形式の「進化論」は、ダーウィンの指摘するとおり近代科学の水準に至っていない疑似科学であるが故に、ダーウィン以前から存在していたが充分な影響力を持つには至らなかった。ダーウィン自身、当初は自らの自然選択説を疑似科学の代名詞たる「進化論」の範疇に入れることを拒否していた。疑似科学としての「進化論」の本質はその説が生命の謎、或いはその究極的な目的を説明することであり、これは本質的に科学的な証明の不可能な形而上学である。一方、ダーウィンの学説はそれが近代科学の枠組みにある限り「生命とは何か」という哲学的な問いには無関心であり、「種の起源」という名の通りに生命の多様な「種」がいかにして発生したかについての理論であり、「生命はいかにして誕生したか」という問いには無力である。それが社会のダーウィン学説の対するイメージからいかに隔たっていようとも、これは動かしがたい真理である。ダーウィンの有力な協力者であり、現代では疑似科学的な進化論者の見本と見られているトマス・ヘンリー・ハクスリーは、自然選択説を教えられた当時の感想を「何でこんな簡単なことに気づかなかったんだ」というものだったと言っている。これは、ハクスリーの思索態度が哲学的であって、科学的でなかったことによるものであろう。「ラマルク主義」で有名な、19世紀初頭のジャン=バティスト・ラマルクによる『動物哲学』以来、近代科学の水準を満たさない進化論学説のバリエーションは豊富であり、それぞれの理論の特徴についての議論はあるが、その内にはダーウィンの祖父エラズマスや、ハクスリーと共にダーウィンの有力な協力者であったハーバート・スペンサー、また小林が論じたフランスの哲学者ベルグソンも入れられるであろう。ベルグソンは著作中、スペンサーへの敬意を隠していない。伝統的キリスト教会の神学では、世界は神が七日で創り、人間の祖先は塵から創られたアダムと、アダムの肋骨から創られたエバであるとして来た。このような世界観を無批判に受け入れる限り、人間の存在する意味を我々が改めて問う必要はない。一方、ダーウィンの学説が主張するのは「人間の先祖がサルである」という事実だけであり、しかもこの事実だけで伝統的なキリスト教神学の権威を無効化するには充分である。しかしダーウィンの学説は神学ではなく、仮にキリスト教の神学を抛棄するならば、人間の存在する意味を改めて規定する新しい神学が必要になる。それが、疑似科学的進化論の意義であったと言える。ダーウィン学説についての科学的厳格さを伴った論争では、ハクスリーやスペンサーのような疑似科学的進化論からのダーウィン学説の擁護者は間もなく排除されることになった。しかし、教会の権威に代わる新たな神学を必要とする世俗社会では、ハクスリーやスペンサーの権威が不要になることはなかった。かくて現代に至るまで、科学としてのダーウィン学説と疑似科学としての進化論の、社会の混同は多かれ少なかれ続いており、小林もまたこの混同から完全に逃れきっているとは言えない。19世紀半ば以後、ダーウィン学説と共に西欧を中心とした自由主義的な世俗社会が受け入れた新たな神学は、原罪論も最後の審判もない楽観主義の哲学である。この楽観主義はしかし、20世紀初頭の第一次世界大戦の惨禍によって打ち砕かれた。(参照:実存主義#不安の時代)第一次世界大戦後の西欧社会の知的潮流は、この新しい神学の崩壊、乃至は解体から始まる。西洋哲学史におけるこの時代のランドマークとなる、ドイツの哲学者ハイデッガーの『存在と時間』、オーストリア出身の哲学者ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』では、いずれも新しい神学、すなわち形而上学の解体を主眼として展開されている。また、大戦以前から進化論哲学を主導して来たベルグソンのような哲学者自身、自ら路線変更を強いられた時代でもあった。ベルグソンの四冊の主著で、最後に発表された『道徳と宗教の二つの源泉』(1932年)を除いた他の三著は、第一次世界大戦(1914-18)以前の1889年から1907年にかけ公刊された。最終の「二源泉」が間が開いているのは、戦後のベルグソンが賢人会議に参加するなど、思索よりも大戦後の平和活動に熱心だったせいである。また三著がそれぞれ意識現象、生理現象、生物現象を扱った進化論哲学であるのに対し、最終の「二源泉」は、どちらかと言えば社会学的考察である。これらの点から言えるのは、進化論哲学者としてのベルグソン哲学の要となる部分は、小林が文筆活動を始めた第一次世界大戦後には既に時代遅れであったということである。ダーウィン学説の普及と共に盛んになった進化論哲学は、科学の発展を大前提とするが故に人間の理性を絶対視する「自然の光」、或いは主知主義の哲学であり、ベルグソンの哲学も例外ではない。ベルグソンをアリストテレスに象徴されるような伝統的な理性の哲学と区別するのは、その直観主義であると言われる。しかしベルグソンは、第一次世界大戦前の1903年に発表した『形而上学入門』で「知的直観」“intuition intellectuelle”と書いた箇所を、大戦後 ―― つまり思想背景としての進化論を抛棄した後と思われる時期に発表した論文集に転載するにあたり「心的直観」“intuition spirituelle”と書き直している。この戦前のベルグソンの直観主義は、我々日本人が禅仏教で歴史的に親しんでいるような宗教的直観主義とは異なるベルグソン哲学の特徴的なものであろう。また、この知的直観主義と対をなしてベルグソン思想を特徴付けるものにイマージュ論がある。ベルグソンにとって、「イマージュ」とは単なる心的表象とは異なる、一種の観念実在論である。このベルグソンのイマージュ論の影響は、小林においてはそのドストエフスキー伝の序文をなす「歴史について」で見られるような、(ややグロテスクな)実在論的な歴史哲学となる。ベルグソンのイマージュ論は、彼が一時期会長を務めた英国心霊現象研究協会が研究対象にしたエクトプラズムを連想させるものがある。また、ベルグソンの宗教観もこれに倣ったものであり、後年、英国国教会が心霊主義を内偵して秘密提出し、暴露されたと言われる報告書における心霊主義の宗教観についての批判は、ベルグソンの宗教思想を非常に連想させる。ベルグソンは、いずれ科学の発展が死後生の謎をも解き明かすことを期待する。これは現代ではいささか牧歌的に過ぎる態度と言わざるを得ないが、ともかくも小林の『感想』冒頭における小林自身の超自然的体験談は、このようなベルグソンの俗流神秘主義の影響を受けていると言えるであろう。小林のこのような形での超心理学的問題についての関心は、最晩年の未完となった『正宗白鳥の作について』(1981-83年)までに至る。ここで小林は、論旨が脱線しユング論が展開され、「心の現実に常にまつわる説明しがたい要素は謎や神秘のままにとどめ置くのが賢明・・・」という引用文で、我に返ったように絶筆となった。戦前のカントを論じた小林の初期文章では、カントの人倫重視の形而上学を「窮余の一策」と評したものがある。この小林の形而上学観はベルグソンを論じるにあたって自らの姿勢を暗に表明しているものと思われる。しかし、概してベルグソンの進化論哲学の体系は、小林がそれと信じた(信じたがった)程には精神的でも芸術的でもなく、小林の文筆活動において我々が論じる価値のあると見る分野に比較してあまりに素朴であり、楽天的に過ぎるのであって、そこから小林が期待するものを汲み上げるのは困難であったと言えるであろう。ベルグソンは生命活動を砲弾の飛び交う戦争のようなイマージュによって提示する。事実、歴史はそのようになったのであって、戦後のベルグソンの平和活動にも関わらず、生物学的民族主義と進化論哲学を奉じるナチス・ドイツがユダヤ人哲学者ベルグソンの住むパリを占拠することになったのである。ベルグソンは遺稿の公開を禁じてナチス占領下のパリでひっそりと最期を迎え、ベルグソンの膨大な遺稿を期待しながら戦後を迎えた小林はそれを知り「恥ずかしかった」と告白している。第二次世界大戦後間もなく出版され、小林の『感想』中断の2年前に邦訳出版されたバートランド・ラッセル『西洋哲学史』は浩瀚で、その膨大な学識を以てベルグソンの体系を批判している。1963年(昭和38年)に、小林はソ連作家同盟の招きで訪ソしたのを期に、5年の歳月をかけたベルグソン論を中断した。後に小林は数学者岡潔との対談で、中断の理由として「無学を乗り越えられなかった」と述べている。小林が封印したベルグソン論『感想』は本人の意志とは無関係に、生誕百年を記念した小林秀雄全集(第五次)・別巻として公刊された。1951年(昭和26年)、アメリカとの片面講和と旧日米安保条約によって一応の区切りの付いた戦後の日本には、戦後にニューヨークに本部を移して新体制として再建された国連への参加に対する、常任理事国ソ連の拒否権という障碍が存在した。1956年(昭和31年)の鳩山一郎内閣による戦後の日ソ国交回復は、このような状況下で行われた。日ソ共同宣言は、戦後の新日本再建に向けた国際社会への本格復帰の始まりとして、国内世論は歓迎ムードに沸いた。しかし、続く60年の新安保条約は、冷戦構造下でのアメリカに対する日本の一方的従属を決定づけるものであり、戦後日本の独立国としいての将来への期待を全く裏切るものとして国内世論の激しい抵抗にもかかわらず強行的に締結された。小林は戦前から創元社に顧問として関係してきたが、後戦間もない1948年(昭和23年)取締役となり、東京支社はのれん分けされ別法人となった。1951年に現代社会科学叢書が刊行され、第一回配本のフロム『自由からの逃走』はベストセラーとなる。1954年に一度倒産「東京創元社」として再開したが、1961年に再度倒産し、小林は取締役を辞任する。この年小林は、「考えるヒント」として、評論「忠臣蔵I・II」を発表。ここで小林の浅野内匠頭を書く諧謔調の筆致は、浅野に自らを仮託しているように読めなくもない。同時期の講演「現代の思想」では、本題をそれて「世捨て」を論じており、その声の調子は重く沈み切っている。小林の「世捨て」についての見方は、中国古典を引き合いに出した「世を捨てて市場にいる」というものである。これは、かつて「西行」において取り上げ、重視しながらも「馬鹿正直な拙い歌」と評した作に似ている。1963年(昭和38年)の訪ソで、小林はドストエフスキーの墓を訪れるなどし、ソ連・ロシアについての幾つかの文章を残している。「ネヴァ河」では、前年に没した正宗白鳥の、『罪と罰』の最後に登場するネヴァ河を遠い目に見る姿を回想として引いている。この訪ソで『感想』を中断してしばらくし、小林は『本居宣長』の連載を始める。小林には戦時中から日本の古典文学、芸能、絵画、骨董についての文章は数多いが、日本の古典についてのまとまった仕事はこれが最初で最後のものである。郡司勝義 『小林秀雄の思ひ出 』(文藝春秋、1993年)、107-108頁によると、James Dorsey, "Critical Aesthetics: Kobayashi Hideo, Modernity, and the War". Cambridge, MA: Center for East Asian Studies, Harvard University Press, 2009.

出典:wikipedia

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