松本 治一郎(まつもと じいちろう、1887年6月18日 - 1966年11月22日)は日本の政治家、実業家。部落解放運動を草創期から指導し、部落解放同盟からは「部落解放の父」と呼ばれる。堂々たる顎髭の風貌から「オヤジ」と呼ばれ親しまれた。福岡県那珂郡金平村(現在の福岡市東区馬出)に生まれる。出生名は松本 次一郎。父・次吉(村会議員)、母・チエの末子(五番目の子)で、上には兄二人(上から治七、鶴吉)、姉二人がいた。治一郎は後年、60歳のとき「私は被圧迫部落の貧農の子として生まれた」と語っている。父・次吉は貧しい暮らしを少しでも向上させようと、すすんで副業(履物(下駄、雪駄など)の製造・販売)にも取組んだ。次吉はそれら履物の原材料となる桐の木や竹の皮を仕入れて売る仲買の仕事をして現金収入を得ていた。次吉は村全体が貧しい中で、よく働き、村の中では比較的「上位」の立場にいた。1900年に住吉高等小学校を卒業後、私塾の粕屋学園や京都の旧制干城中学校(後に廃校)を経て上京し、旧制錦城中学校(現在の錦城高等学校)を中退。1907年に大連へ渡り、大道易者や偽医者として生計を立てる。1910年、日本総領事に強制送還されて帰国。1911年、土建業松本組を創業。配下には高松弥太郎などの九州きっての暴れん坊たちが揃っており藤田五郎の「九州やくざ者」では敵対した組の通夜の夜、殴りこんだ松本組が敵の家屋を瞬時にして「文字通りの」廃材の山としたとする記述がある。1921年、筑前叫革団を結成。同年、福岡藩初代藩主黒田長政三百回忌に際して半強制的に記念祭費用の寄付が割り当てられようとしたのを「被差別者の子孫に寄付を割り当てるとは何事か」と抗議運動を実施、任意寄付に切り替えさせる。1923年、九州水平社の委員長となる。1925年、全国水平社中央委員会議長に就任。1926年より福岡連隊差別事件への糾弾闘争を指導。また被差別部落民が苦しんでいるのは徳川幕府に責任があるとの思想から、1927年、徳川家達公爵への爵位返上勧告闘争を指導。のち、徳川公爵暗殺未遂の罪によって懲役4ヶ月の実刑判決を受け、下獄する。なお、この闘争に影響された人物が後に徳川邸に放火、全焼させている。1929年、福岡連隊爆破陰謀事件で懲役3年6ヶ月の実刑を宣せられ、再び下獄する。1936年から衆議院議員(当選3回)。当選早々に衆議院で「不当に特権を得ている華族の存在が部落民が不当な差別を受ける原因であり部落解放のためには華族制度を廃止すべし」と質問した(当時は二・二六事件の直後であり、陸軍大臣は伯爵の寺内寿一であった)。1940年、斎藤隆夫の反軍演説による衆議院議員除名に反対し、本会議を欠席。所属する社会大衆党党首の安部磯雄・鈴木文治・片山哲・西尾末広・水谷長三郎らとともに、書記長麻生久により党員除名処分となる。1942年、衆議院議員に翼賛政治体制協議会推薦で当選。これは政府がカムフラージュとして押しつけ的に推薦したといわれるが、鳩山一郎・三木武吉といった自由主義的議員は非推薦で当選しており、戦後松本が公職追放された際にも「翼賛会推薦議員」というのが理由の一つになっている。1946年、翼賛議員であったことから一旦公職追放されるが、連合国軍最高司令官総司令部からの「松本と尾崎行雄の2人は真の民主主義者だ、絶対に立候補させねばならぬから松本の追放を解除し今日中に立候補できるよう手配せよ」との通告によりまもなく解除。GHQと密接につながり、巨万の富を蓄えた特殊慰安施設協会(RAA)の経営陣の一人であった。しかし公職追放は解除されたものの時の外務大臣・吉田茂の妨害によって第22回衆議院議員総選挙への立候補届出には間に合わず、翌年の第1回参議院議員通常選挙に立候補することになる。その間に部落解放全国委員会委員長に就任する。1947年、参議院議員で初当選(当選4回)。初代参議院副議長に就任。日本社会党左派の平和同志会の領袖として知られた。なお、副議長就任の経緯について治一郎本人は「部落出身の自分を議長にしないために保守派の連中が緑風会をつくって第一党にしてそこから議長(松平恒雄)を出した。衆議院でも参議院でも選挙の時には社会党が第一党だったのだから、本来衆議院議長が社会党の松岡駒吉になったように、私が部落出身でなければ私が参議院議長になっておったはずなんだ」と徳川夢声との対談で語っている。1948年、参議院初代副議長時代、天皇への「カニの横ばい」式拝謁を拒否した(カニの横ばい拒否事件)。しかし、その後で内閣総理大臣となった吉田によって、再度公職追放される(この時はレッドパージ)。1951年に追放解除。1953年、日中友好協会初代会長に就任。1955年、部落解放全国委員会を部落解放同盟と改称し、初代執行委員長に就任。1964年、勲一等授与の対象者に選ばれたが拒否。1966年に死去するまで、部落解放運動の中心人物であり続けた。大連滞在当時、松本が「大日本国一等軍医監」を名乗って偽医者を続けていたことにつき、部落解放同盟は『松本治一郎伝』の中で「行く先々で近代的医療から見放された人々から歓迎され」たと記しているが、金静美は「もし、松本治一郎が、日本帝国主義者の中国侵略に批判的であったなら、『大日本国一等軍医監』と自称することはできなかっただろう」「松本は、日本侵略軍に所属する医者であるかのようにふるまい、中国民衆を『治療』し、金銭を得ていた。あやまった『医療』は、しばしば人命にかかわることがある。松本はなぜ、中国では、このような詐欺をおこない、日本ではおこなわなかったのだろうか」と松本の中に中国人に対する差別意識があると批判している。もっとも、松本自身は「私は打診、聴診はできないけれども、視診なら今でも自信がある」と後年語っていたという。なお日本の刑法上は、松本の行為は医師法違反ならびに詐欺罪(人体に有害な偽薬を投与したり外科手術を施したりしていれば傷害罪)にあたる。1942年4月、福岡県第一区の候補に翼賛政治体制協議会から推薦されて立候補したときは、選挙公報の中で「仕事の為には汗を流せ、人の為には涙を流せ、御国の為には血を流せ」「お互は飽くまで米英を打倒し、アングロサクソンの世界制覇を覆滅すべく、一億一心国を挙げて老も若きも鉄火の一丸となり、如何なる困難の中にも突入し且つ此れを突破して、必勝不敗の態勢を完成せねばなりませぬ」と挨拶した。翼賛議員としては、東條政権による朝鮮人徴兵法案(「兵役法中改正法律案」)の法制化に賛成(1943年2月12日)。1943年6月14日、天皇主義的な議員集団「八日会」の結成に発起人の一人として参加、中野正剛や赤尾敏らと共に結成式に出席し、「激励的発言」をおこなった。「大東亜戦争」の開始日(1941年12月8日)に由来する名称を持つこの八日会の「信条」は、「我等は一切の行動を国体の本義に発す」「我等は大詔を奉戴し断じて戦ひ断じて勝つの信念を以て行動す」というものであった。帝国議会予算委員としては戦時予算の全てに賛成するなど積極的に戦争協力していたが、敗戦後は突如として軍国主義を指弾する側に転じ、「私は戦争中は全水運動と共に、反戦的な言葉をつねに洩らし戦争の負けることを語つていた」、「私はいつも反戦的な思想を表明していたわけであつた」「私は根つからの反軍国主義者であり、民主主義者である」と語るようになった。1953年1月1日、ビルマのラングーンでひらかれたビルマ社会党主催のアジア社会党大会歓迎市民大会で日本社会党左派の代表者として演説。このとき「日本は経済的発展をとげるにつれて、自からが天皇制フアツシズムによつて侵略者にかわり、あの悪魔のような戦争をまき起しアジヤの多くの国に多大の犠牲と損害とをあたえたのであります。勿論、われわれ社会主義者はこの戦争に対して反対したのでありますが」と述べ、やはり自らの戦争協力の過去を偽った。この点について、吉本隆明は1971年6月3日、「6・3政治集会(共産同政治集会)」(豊島公会堂)での講演で次のように批判している。板付飛行場(今の福岡空港)の拡張を予想して周辺の土地を買占め、それを空港用地として国に貸し付けた。地権者の筆頭である松本一族らへの地代総額は年間80億円にも達するという。福岡空港の土地建物借料は日本全国の空港の中でも突出して高額であり、この結果、福岡空港は毎年67億円の赤字を出している。松本が空港建設に先立って周辺用地を買い占めたのは、彼が衆議院議員としての立場を利用し、空港建設計画に関する情報を事前に入手していたためとも指摘されている。生涯を通じて独身を保った。このため、妻子はいない。博多芸者を落籍して妾宅を構え、腹心の者にも絶対の秘密にしていたが、やがて水平社同人に妾の存在が露見して話題にされ「この問題の段になると主義主張の手前、何となく恥しそうな顔をするとの話があった」と伝えられる。甥の松本英一を養子として迎え、自身が創業した土建業松本組を継がせている。英一の子・松本龍は衆議院議員。その弟・松本優三は松本組社長。また、衆議院議員の楢崎弥之助は被差別部落出身ではなかったが治一郎の姪の長女と結婚。その息子が衆議院議員の楢崎欣弥である。治一郎の妹は井元麟之と結婚。野本武一の長女は井元の甥と結婚している。
出典:wikipedia
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