布部山の戦い(ふべやまのたたかい)は、1570年2月(元亀元年)に山中幸盛ら率いる尼子再興軍とそれを阻止しようとする毛利軍との間に起こった戦いである。1566年永禄9年11月28日、尼子義久が毛利元就に降伏し、尼子家は滅亡する。その後、尼子家家臣であった山中幸盛・立原久綱らは尼子家再興を目指すため、1568年、京都・東福寺に逃れていた新宮党の尼子誠久の子である尼子勝久を還俗させ、擁立する。翌1569年(永禄12年)、山中幸盛らは、但馬、隠岐を経て出雲に上陸、出雲忠山を占領後、次いで新山城を攻略し、月山富田城を除き出雲一国をほぼ手中に収めんとするまでに勢力を伸張した。同9月には、石見国から攻めてきた毛利軍の撃退にも成功している(原手合戦)。この動きに危機感を抱いた毛利元就は、伊予や北九州に出陣していた毛利軍主力を召還し、出雲方面へと展開させる。そして毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを先陣に立たせ、尼子再興軍を討伐するため石見から出雲を目指した。これを知った尼子勢は出雲の掌握を急ぐも、隠岐為清の反乱(美保関の合戦)や、月山富田城攻めの失敗などの悪条件が重なり、毛利軍の来着までに十分な態勢を整えることはできなかった。尼子勢は次善の策として、末次城に総大将・尼子勝久を残し、石見路から月山富田城に行く際に通る布部山(現在の島根県安来市広瀬町布部)で毛利を食い止める事とした。尼子軍は、布部山の2つしかない登り口(水谷口・中山口)に山中幸盛を大将とする総勢6,800の兵で布陣し、毛利軍を待ち構えた。このとき水谷口には、尼子軍は山中幸盛・立原久綱らが、毛利軍は吉川元春・小早川隆景らが布陣した。中山口には、尼子軍は秋上久家・横道正光らが、毛利軍は福原・桂らが布陣した。戦いは当初、地の利に勝る尼子軍が優勢であったが、吉川元春が別働隊を率いて間道から布部山の頂上に登り、そこから尼子軍の本陣を強襲したため、尼子勢は総崩れとなり敗北。尼子軍は本拠地真山城へと撤兵した。その後、尼子再興軍の衰勢は著しく、1571年8月下旬には出雲の最後の拠点である真山城が毛利軍の攻撃を受け落城。城に籠もっていた勝久は隠岐に脱出し、尼子再興軍は出雲より駆逐された。
出典:wikipedia
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