『シャイニング』("The Shining")は、1980年に制作されたホラー映画。スティーヴン・キング原作の同名小説をスタンリー・キューブリックが映画化した。コロラド州のロッキー山上にあるオーバールック・ホテル。小説家志望のジャック・トランスは、雪深く冬期には閉鎖されるこのホテルへ、管理人としての職を求め家族を引き連れ訪れた。支配人のアルマンは、「このホテルは以前の管理人であるチャールズ・グレイディが、孤独に心を蝕まれたあげく家族を斧で惨殺し、自分も自殺したといういわく付きの物件だ」と語るが、全く気にしないジャックは、妻のウェンディ、一人息子のダニーと共に住み込むことを決める。ダニーは不思議な能力「輝き(Shining)」を持つ少年であり、この場所で様々な超常現象を目撃する。ホテル閉鎖の日、料理主任であるハロランはダニーとウェンディを伴って、ホテルの中を案内する。自身も「輝き」を持つハロランは、ダニーが自分と同じ力を持つことに気付き、「何かがこのホテルに存在する」と彼に語る。そして、猛吹雪により外界と隔離されたオーバールック・ホテルで、3人だけの生活が始まる。演出:福永莞爾、翻訳:木村純子、調整:山田太平、効果:リレーション、担当:菅原有美子、鍛治谷功、プロデューサー:中村公彦、平山大吾、配給:アップルテレビジョン、製作:テレビ東京、ムービーテレビジョンスタジオジャケットにも採用された、この映画の象徴ともいえるジャック・ニコルソンの狂気に満ち満ちた顔を撮るためにキューブリックはわずか2秒程度のシーンを2週間かけ、190以上のテイクを費やした。本作の舞台となるオーバールック・ホテルの外観として使用されたのは、アメリカ・オレゴン州にあるフッド山の南側に建つティンバーライン・ロッジである。キューブリック作品は1957年『突撃』など早くから移動撮影で知られていたが、本作では開発されたばかりの「ステディカム」を導入。用法は効果的で、この撮影装置の知名度を飛躍的に高めた。また撮影時にフィルムの映像をビデオチェックできる技術が使われた最初の映画である。それまでは現像されるまでチェックできなかった。本公開に先立つプレミア上映では146分の映画として公開されたが、現在は見ることが出来ない。これには逃げ延びたウェンディとダニーが病院でホテルの支配人アルマンと再会するエピソードがあった。支配人はダニーに黄色のボールを投げ、そのボールはダニーがホテルの廊下で遊んでいる時に、どこからともなく転がってきたボールと同じだったというエピソードである(黄色のボールはこの2つのシーンでしか使われていない)。このラストはすぐに削除され、143分となった。さらに再編集した119分のコンチネンタル版と3バージョン存在する。シェリー・デュヴァルは、削除されたエンディングに関して「それにより、映画を難解にしてしまった(要約)」と批判的に述べている。また、このシーンでのボールの受け渡しには132テイクが費やされた。キューブリックの元には同時に『エクソシスト2』の制作の依頼も来ていたが、最終的にこちらの制作を選んだ。ただし『エクソシスト』第一作で悪魔に憑かれる少女リーガンが統合失調症を疑われ夥しい検査を受けるのと同様、霊魂、超能力「シャイニング」など科学で説明の付かない事象を説明の付く事象と曖昧に描かれており、関与しなかったにせよ影響は少なくなかったと思われる。本作のポスターは、ソール・バスに依頼された。300案の試行錯誤からキューブリックが選んだのは、THEの文字に少年の顔が点描で描かれた黒文字のロゴだった。しかし、これもワーナー・ブラザースに却下され、公開時にはドアから顔を出すニコルソンと恐怖に慄くデュヴァルの写真を使ったものが使用された。スタンリー・キューブリックによる映画化で世界的に著名となった同作だが、キューブリックはスティーヴン・キングの原作を大幅に変更しており(原作改変)、殆ど別作品に近い趣になっている。これは原作の著者であるキングがキューブリックへの批判を繰り返し、後に「映画版へのバッシングを自重する」事を引き換えにドラマ版で再映像化を試みた程であった。猛吹雪に閉ざされたホテルで狂気にとらわれた男が家族を惨殺しようとする、という大まかな流れはほぼ原作通りである。一方、原作では邪悪な意志をもつ巨大な存在であるホテル自体が、過去のできごとなども含めて圧倒的な存在感をもって描かれているのに対して、映画ではそれが薄い。更に、原作ではホテルの邪悪な意志がジャックを狂気へと導くのに対して、映画ではホテルがグレイディを遣ってジャックを邪悪に導く描写は存在するものの、孤独に耐え切れず自ら発狂したともとれる曖昧な描写がなされている。これらは作品の非常に重要な部分であるため、原作と映画の印象を決定的に異なるものにしている。原作ではウェンディもダニーもジャックの発狂はホテルのせいだということを理解しているが、映画版では不明である。原作では大きな役割を果たす、ダニーの「シャイニング」という能力や、同じ能力を持つ料理人ハロランも影が薄い。原作版のジャック・トランスは「善良・小市民的な人物である」という部分が強調され、アルコール中毒にも自ら罪悪感を抱いて苦しむ人物として登場する。ホテルの不思議な現象に終始圧倒されて数々の暴行を働くものの、最終的には善良な意思がホテルに打ち勝つ形で家族(ウェンディ、ダニー)を逃がそうとする。また作中では誰も殺さず、加えてラストでは成長した息子を見守るというハッピーエンドが意図されている。原作でトランスが狂気に走った理由の多くは霊的な存在による操作というややファンタジーな要素が強く、また家庭内暴力がアルコール中毒と同等の問題として描かれる。故にそのラストにはダニーやハロランらが持つ「超能力」が鍵となる。原作のジャック・トランスの造形にキング自身のアルコール中毒とその克服体験が反映されている事は本人も認めており、彼が気分を害した理由の一因かも知れない。映画版のジャック・トランスは作劇の都合も含めて、かなり早い段階で家族(正確には妻)との軋轢が生じる。彼は開始当初から自らのままならぬ人生や家族に疎ましさを感じており、ウェンディとの間にも微妙な雰囲気が流れている。狂気に身を委ねて暴行を始めた後は躊躇わずに行動を続け、家族を殺すには至らずも料理人のハロランを殺している。そして自らも最後にホテルの力に取り込まれた事を暗喩するバッドエンドで物語は終結する。映画でトランスが狂気に走る理由において、霊的な存在は重要ではあるがあくまで切っ掛けであり、創作への焦燥感とアルコール中毒による精神の疲弊が物語の中心に置かれている。従って「超能力」はさほど重要な存在として描かれる必然性を持たず、家庭内暴力も強いて言えば誤ってダニーに怪我をさせた過去が存在するのみである。キューブリックはジャック・トランスをむしろ『2001年宇宙の旅』のHAL 9000に近い専制的な悪役として描いたとしばしば指摘される。 スタンリー・キューブリックがジャック・トランス(ひいてはシャイニング自体)に原作と違う構想を抱いていた事、それにスティーヴン・キングが文句をつけていた事はキャスティングの段階から表面化していた。キューブリックは『カッコーの巣の上で』でアカデミー賞を受賞していたジャック・ニコルソンを主役に抜擢すると、キングは平凡な人間が狂気に取り込まれるという流れの変更を予感して反対した。キングは代案としてジョン・ヴォイトを推薦したが、キューブリックに却下された。原作と映画が最も共有する点はバーテンダーから酒を貰うシーン以降、ジャックがアルコールに浸り始める部分である。しかし此処でもアルコール中毒の前歴を匂わせるに留める映画に対し、原作は冒頭から重要なテーマとして強調している。原作版のウェンディ・トランスは両親から愛情を受けずに育った過去がまず紹介され、その上で経験からか夫のジャックに比べて自立心の強い人物として描かれる。彼女はジャックが子供や自分に家庭内暴力を振るった過去を殊更に指摘して、彼の精神を追い詰めていく。物語の混乱の中でも平静さを保ちながら、ホテルの悪意と立ち向かおうとする。映画版のウェンディ・トランスは消極的かつ受動的な、夫への依存心が強い気弱な女性として描かれている。彼女の献身的ながらも夫に寄りかかる様な姿勢はジャックを苛立たせ、家族への疎ましさを生む原因となっている。また物語の混乱の中で本性としてのヒステリックさを表し、発狂したジャックとは異なる方向で物語終盤の起伏を生んでいる。これは映画でウェンディを演じたシェリー・デュヴァルの迫真の演技が寄与した部分(しばしばニコルソンの演技以上に恐ろしいとも評される。これはキューブリックらが撮影中、デュヴァルに対し『意図的に』激しく当たったため、精神的に追い詰められ、それがそのまま演技に生かされたものといわれている)も大きいが、故に議論の対象となるキャスティングの一つでもある。原作でのダニー・トランスは霊的な存在が前面に押し出されている以上、ある意味で物語の主役であり、自らが持つ超能力を駆使して悪霊に取り付かれた父親と立ち向かおうとする勇敢な少年として描かれる。これはそもそも原作ではアルコール中毒とそれによって起きたジャックの家庭内暴力が明確に描かれている事も関係する。超能力について特に隠す様子も無く公然とそれを他者に話し、周囲もある程度それを認知している。超能力以外にも極めて優れた天才児として描かれ、更には謎の青年「トニー」(後に彼の未来の姿である事が判明する)が様々な面で大立ち回りを演じていく。映画版でのダニー・トランスは一介の愛らしい少年で、徐々に狂っていく父親に不穏な空気を感じつつも心配する素直な子供として描かれる。超能力も同じ力を持つハロランを知ってからもそれを隠し、普通の子供として振舞っている。ジャックが狂い始めた際には母親と共にそれに振り回され、最終的な結末も超能力ではなく咄嗟の機転で切り抜ける形で迎えている。ダニーと同じくシャイニングの力を持ち、ある種の理解者となる。彼とダニーはシャイニングの能力によって、テレパシーのように意思伝達が可能である。中盤までは原作も映画版も、その活躍はほぼ同じだが、原作では繰り返し行われたシャイニングによる交信が、映画版では、会話が明確に描かれたのは出会った当初のみで、後は、互いの状況を断片的に察知したことが数回あったのみである。終盤でダニーのSOSに答えて単身ホテルへ戻るが、原作では狂ったジャックからダニーとウェンディを守るためにホテル内を奔走する。途中、斧を手にした際に、ジャックを支配していた邪悪な意思に飲み込まれかけるなどの場面もある。最後には、彼の機転によってダニー達は無事にホテルを脱出することに成功し、2人と共に生還する。が、映画版では、ホテルに入ってまもなく狂を発したジャックに惨殺されており、脱出に使う雪上車を結果として持ち込んだ以外に、殆ど活躍していない。前述のジャックへの描写の違いを受けて、スチュアート・アルマンの描写にも大きな違いが生じている。原作のアルマンは尊大で嫌味な実業家として描かれ、ジャックを見下して雇う事を一度拒絶する。結局雇う事になった後もジャックに権威的に接していき、彼との軋轢が原作のジャックを追い詰める理由の一つになる。一方、映画版のスチュアート・アルマンは原作に比べて遥かに人間的で温和な人物であり、むしろ人生に行き詰っているジャックを助けようとする存在として描かれる。以前の管理人一家が壮絶な末路を迎えた事に付いても原作では半ば脅すかの様な態度で事実を伝えているが、映画版ではジャックを心配する態度でホテルの過去について話している。評論家グレッグ・ジェンキンズは『キューブリックと作品改変』の中で「アルマンは映画の為に一から完全に作り直された」と評している。原作のラストでは、ジャックとともにオーバールックホテルそのものがボイラーの爆発で木っ端微塵に吹き飛んでしまうが、映画のラストではホテルは破壊されず、ジャックは迷路で凍死する。原作ではウェンディがジャックに木槌で殴りつけられて重傷を負い、ハロランの助けにより何とかホテルを脱出するが、映画ではハロランは何もしないうちに物陰から突然と現れたジャックに斧で胸をえぐられて殺され、ダニーとウェンディはハロランが乗ってきた雪上車で脱出する。ホテルは残り、ジャックは過去の写真の1人におさまり、邪悪な意思に取り込まれたことを暗示している。上記の通り、キューブリックと原作者との対立が見られた同作品だったが、商業的には大きな成功(制作費の数倍の収益)を収めて更にキューブリックの知名度を高める結果となった。娯楽作品であるが為に賞レースにこそ絡まなかったが、映画版『シャイニング』は役者の優れた演技や、キューブリックならではの恐怖演出と映像美で高い賞賛を受け、数多くの作品でオマージュを受けた(英語版ウィキペディアでは「全てのオマージュを網羅すると記事が長大になりすぎる」と記述されている)。今日ではもはやホラー映画の偉大な古典という域にまで達している。キングの批判自体も、こうした映画版の影に小説版が隠れるという構図が固まるに連れて硬化していき、1997年のドラマ版で最高潮に達するに至った。ロンドン王立大学の研究チームによると、数学的計算による世界最高のホラー映画であるという。また、1シーンにテイク132回をかけたのはギネス記録である。しかし、そのシーンはカットされた。当初『時計じかけのオレンジ』のウェンディ・カルロスに作曲依頼をしていたが、完成版では既成曲を多数採用しカルロスの曲は冒頭の「ロッキー・マウンテンズ(グレゴリオ聖歌「怒りの日」の編曲)」のみとなっている。※曲名にある「ヤコブ」の英語名はjacob = Jack※「真夜中~」の作曲はH.M.ウッズ、R.コネリーとJ.キャンベル。『博士の異常な愛情』冒頭の「もう少し優しく(Try a little tenderness)」も編曲こそされているが、同じ3名による曲である。
出典:wikipedia
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