大村 智(おおむら さとし、1935年7月12日 - )は、日本の化学者(天然物化学)。北里大学特別栄誉教授。2015年ノーベル生理学・医学賞受賞。微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を45年以上行い、これまでに類のない480種を超える新規化合物を発見し、それらにより感染症などの予防・撲滅、創薬、生命現象の解明に貢献している。また、化合物の発見や創製、構造解析について新しい方法を提唱、実現し、基礎から応用までの幅広く新しい研究領域を世界に先駆けて開拓している。研究以外では、北里研究所の経営再建、女子美術大学への支援や私費による韮崎大村美術館の建設、学校法人開智学園名誉学園長を務めるなど貢献業績がある。勲等は瑞宝重光章、紫綬褒章、文化勲章などを受勲。山梨県北巨摩郡神山村出身。天然物化学分野の研究に従事した。アベルメクチンを発見し、それを基にイベルメクチンの開発に取り組んだ。イベルメクチンは抗寄生虫薬として活用されるようになり、寄生虫感染症の治療法確立に貢献した。また、アベルメクチン以外にも、生涯にわたり170を超える新たな化学物質を発見している。これらの功績から、2001年には日本学士院の会員に選定され、2012年には文化功労者となっている。2015年には、日本人で3人目となるノーベル生理学・医学賞を受賞した。また、社団法人時代の北里研究所においては副所長や所長を歴任し、研究所の財政再建に尽力するとともに、メディカルセンター(現・北里大学メディカルセンター)の設置を推進した。同法人の立て直しに道筋を付けるとともに、学校法人北里学園との統合を果たし、新たな「学校法人北里研究所」の発足に漕ぎ着けた。そのほか、教育分野では学校法人女子美術大学の理事長を2度にわたり務め、学校法人開智学園の名誉学園長を務めた。そのほか、自身のコレクションを基に韮崎大村美術館を設立し、その館長を兼任している。山梨県北巨摩郡神山村(のちの韮崎市)の農家に、5人兄弟の2番目の長男として生まれた。耕作や家畜の世話などの家業に従事していたため、高校卒業まで、勉強はほとんどしていなかったというが、後年農作業が勉強になったと述懐している。また、高校では、スキー部と卓球部で主将を務めるなどスポーツに熱中し、国民体育大会の選手にも選出されるほどだった。高校ではスキー部だけでなく、韮崎スキークラブにも入部し、そこで山梨県スキー連盟役員・山寺巌氏と出会っている。山寺巌の指導を受けてクロスカントリーに励み、県主催の第7回山梨県スキー選手権大会長距離高校生の部で3位入賞している。1954年、山梨県立韮崎高等学校を卒業後、山梨大学学芸学部(現・教育学部)自然科学科へ進学した。大学では丸田銓二朗に師事し、クロマトグラフィーを習得したものの、成績は不振だった。1958年、山梨大学学芸学部自然科学科を卒業した。大学卒業後、理科の教諭を志したが、地元山梨での採用がなかったため、埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)に移住、東京都立墨田工業高等学校定時制に5年間勤務し、物理や化学の授業で教鞭を執った。学業に熱心に励む高校生に心打たれ、もう一度勉強し直したいと考え、1960年、東京教育大学の研究生となり、中西香爾に師事した。中西香爾の紹介で1961年、東京理科大学大学院理学研究科都築洋次郎の研究室に所属し、高校教諭として働きながら1963年、東京理科大学大学院理学研究科修士課程を修了した。1963年、文部教官として採用され、山梨大学の工学部発酵生産学科の助手となり、加賀美元男研究室でブランデーの製法の研究に従事した。1965年、山梨大学を退官し、社団法人である北里研究所にて技術補として採用された。小倉治夫の下で抗生物質を研究し、ロイコマイシンの構造を解明した。1968年、北里研究所での「Leucomycinに関する研究」により東京大学から薬学博士の学位を授与され、北里大学薬学部助教授に就任した。また1970年には「ロイコマイシン、スピラマイシン及びセルレニンの絶対構造」により東京理科大学から理学博士の学位を授与されている。1971年には、ウェズリアン大学の客員教授も兼任することになった。これはカナダの国際会議で知り合ったアメリカ化学会会長のマックス・ティシュラーに対して留学を打診し、採用に至ったものである。メルク・アンド・カンパニーからの研究費も獲得することに成功した。アメリカで研究を続けようと考えていたが、退職する秦藤樹の研究室を引き継ぐために帰国することになった。日本に帰国し、1973年に北里研究所にて抗生物質研究室の室長に就任した。また、メルク・アンド・カンパニーとの共同研究を開始した。1975年、北里大学薬学部教授に就任した。その間大村研究室は多くの研究者を育て、31名の大学教授と120名の博士を輩出した。財政が悪化していた北里研究所(当時は社団法人)を再建するため、1984年に北里大学の教授を辞職し、北里研究所の理事として副所長に就任した。経営学と不動産学を学び、北里研究所の再建に尽力した。1989年には、大村の提案により「北里研究所メディカルセンター」(現・北里大学メディカルセンター)を設立した。設立に際しては、大蔵省からの土地取得と、反発する地元医師会との折衝役を務めた。1990年には、北里研究所の所長に就任した。また、1985年からは、北里学園の理事も務めていた。北里研究所の再建に道筋を付けた上で、学校法人北里学園との統合を果たし、法人の名称を「学校法人北里研究所」に変更した。統合を果たした2008年、北里研究所の所長を退任した。なお、学校法人となった北里研究所においては、2008年から2012年6月にかけて名誉理事長を務め、2012年からは顧問を務めている。なお、北里大学では再び教鞭を執っており、2001年には大学院の研究部門である「北里生命科学研究所」にて教授に就任し、初代所長も2003年まで兼務した。また、北里大学の大学院教育部門である「感染制御科学府」においても、2002年から2007年まで教授を務めた。これまでの功績により、2007年には北里大学より名誉教授の称号が授与された。その後も、北里生命科学研究所の特任教授として、特別研究部門である天然物創薬推進プロジェクトのスペシャルコーディネーターを務めた。2013年には、北里大学の特別栄誉教授となった。北里グループ以外の教育研究機関においては、ウェズリアン大学にてマックス・ティシュラーの名を冠した「マックス・ティシュラー教授」を2005年より兼任している。また、学校法人女子美術大学の理事長を1997年から2003年までと2007年から2015年5月までの2度にわたって務めた。その功績により、2015年に同法人より名誉理事長の称号を贈られた。そのほか、1995年には山梨科学アカデミーを設立し、翌年には社団法人化を果たした。また、2005年には武田乃郷白山温泉を開設し、2007年には韮崎大村美術館を開設している。45年余にわたり独創的な探索系を構築し、微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を続け、これまでに類のない480種を超える新規化合物を発見した。一方、それらに関する基礎から応用にわたる幅広い分野の研究を推進した。遺伝子操作による初めての新規化合物の創製、マクロライドを中心とした一連の生物有機化学的研究と有用化合物の創製、工業的にも重要な抗寄生虫抗生物質イベルメクチン生産菌の遺伝子解析など、いずれも世界に先駆けた研究であり、新しい研究領域を切り開いてきた。発見した化合物のうち25種が医薬、動物薬、農薬、生命現象を解明するための研究用試薬として世界中で使われており、人類の健康と福祉の向上に寄与している。加えて100を超える化合物が有機合成化学のターゲットとなり、医学、生物学、化学をはじめ生命科学の広い分野の発展に多大な貢献をしている。その中の抗寄生虫薬イベルメクチンは、熱帯地方の風土病(河川盲目症)およびリンパ系フィラリア症に極めて優れた効果を示し、中南米・アフリカにおいて毎年約2億人余りの人々に投与され、これら感染症の撲滅に貢献している。さらにイベルメクチンは、世界中で年間3億人以上の人々が感染しながらそれまで治療薬のなかった疥癬症や沖縄地方や東南アジアの風土病であるの治療薬としても威力を発揮している。その他、生命現象の解明に多大な寄与をしているプロテインキナーゼの特異的阻害剤スタウロスポリン、プロテアソーム阻害剤ラクタシスチン、脂肪酸生合成阻害剤セルレニンなどを発見した。また、大村が発見した特異な構造と生物活性を有する化合物は、創薬研究のリード化合物としても注目されており、新規抗がん剤などが創製されている。北里大学北里研究所建物前のオンコセルカ症の大人を導く子供の像は、大村のイベルメクチン発見を讃えてブルキナファソの彫刻家が制作したもので、オンコセルカ症撲滅キャンペーンのシンボルであり、同様の等身大の銅像が世界保健機関本部、カーター・センター、メルク・アンド・カンパニー、世界銀行本部、ブルキナファソの世界保健機関アフリカオンコセルカ症制圧プログラムに建てられている。「線虫の寄生によって引き起こされる感染症に対する新たな治療法に関する発見」により、ウィリアム・キャンベルと共に2015年ノーベル生理学・医学賞を受賞した。大村研究室により発見された化合物のうち、実用化された医薬品や試薬は25種類にも及ぶ。美術に造詣が深く、14年間にわたり女子美術大学理事長を務めた(2015年7月から同大学名誉理事長)。同大学に妻・文子の名を冠した「大村文子基金」を私費で設立。女子美生の留学資金(女子美パリ賞・ミラノ賞)と美術活動費(美術奨励賞)を支援している。また、美術作品の著名な収集家であり、特に女性作家の作品収集に積極的で2007年に私費5億円を投じて故郷の山梨県韮崎市に韮崎大村美術館を建設し、1800点を超える蒐集作品と共に韮崎市に寄贈し初代館長を務めている。また、山梨県の科学技術の振興を目指して(社)山梨科学アカデミーを創設し、現在名誉会長を務めている。また1983年開学の開智学園(埼玉県)では自らが学校名を命名して当初から名誉学園長を務めており、開智学園では理系最優秀生徒に対して「大村賞」を授与し表彰を行っている。開智学園の系列の開智国際大学では実弟の元三菱マテリアル取締役大村泰三が客員教授を務める。毎日新聞東京本社デジタル報道センター記者の大村健一は親戚に当たる。なお、親族には該当しないが、毎日放送アナウンサーの山中真は、大村泰三の甥になる。
出典:wikipedia
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