中村 勝広(なかむら かつひろ、1949年6月6日 - 2015年9月23日)は、千葉県山武郡九十九里町出身のプロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者、野球評論家。愛称は「カツ」「カッちゃん」。2012年9月5日より、プロ野球阪神タイガースの取締役ゼネラルマネージャー(GM)を務めていた。成東高校では、夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東関東大会準決勝に進出するが、竜ヶ崎一高に敗退。1年下のチームメートに藤田康夫投手がいた。早稲田大学教育学部体育専修へ進学。東京六大学リーグでは、谷沢、荒川らのいた秋季リーグで優勝を経験したが、自身の活躍の機会はなかった。その後は優勝から遠ざかるが、4年生の秋季リーグでベストナイン(二塁手)に選出されている。早大では主将を務め、プロ入り当時から将来の阪神の指導者として嘱望されていた。リーグ通算52試合出場、172打数51安打、4本塁打、33打点、打率.297。1971年のドラフト2位で阪神タイガースに入団。1年目から頭角を現し、同年のドラフト1位の山本和行、3位の望月充の活躍と合わせて「久々のルーキー豊作年」といわれた。3年目のには引退した安藤統男に代わり正二塁手となる。以降までレギュラーの座を確保、堅実な守備で1970年代のチームを支えた。また、1978年に残したシーズン守備率.995は当時の二塁手の日本記録である。に定位置を榊原良行に譲り、一塁手としても起用されるが、出場機会は大きく減少する。には岡田彰布やヒルトンが入団したこともあり、コーチ兼任となった。限りで現役引退、コーチ退任。からまで阪神の二軍監督を務め、にはウエスタン・リーグで優勝している。は一軍作戦守備・走塁コーチ(途中からヘッド格)に就任するも、村山実監督と衝突して1年で辞任。に毎日放送解説者、スポーツニッポン評論家に就任。1989年に村山が阪神監督を辞任した後、後任の候補に挙げられていた一枝修平が監督指名を辞退する。この時に中村のファーム監督時代のリーダーシップが高く評価され、後任の阪神監督に抜擢された。、のチーム成績は最下位、同一監督指揮下での2年連続の最下位は球団史上初だった。1990年の日米野球第2戦では監督を務めた(結果は勝利)。にAクラスの2位に浮上させるが、以降Bクラスが続きチームが再び低迷。7月23日限りで途中休養、藤田平二軍監督が代理監督となった。シーズン終了後、辞任した。その後、からまで毎日放送解説者・スポーツニッポン評論家を務める。そのかたわら、からプロ野球マスターズリーグの大阪ロマンズに参加。2003年秋、オリックス・ブルーウェーブの取締役常務兼GMに就任。球団再編を経て、シーズン終了後、仰木彬監督の勇退により、後任として宮内義彦オーナーの一声によってオリックス・バファローズの監督に就任。11年ぶりの現場復帰となった。同時に常務職を降りる。、シーズン5位という成績に終わり、不振の責任を取る形で1年で辞任。その後も球団に残り、シニア・アドバイザー(SA)を経て球団本部長に就任し、からは取締役も兼任しまで務めた。オリックス球団本部長退任後のから毎日放送解説者・スポーツニッポン評論家に復帰。8月、阪神が下位に低迷するチームを立て直すため、中村にGMへの就任を要請、9月5日に、GMへの就任が球団から発表された。阪神でGMを務めた人物は、中村が初めて。2013年のシーズン終了後には、中村の選手・コーチ時代の主力選手だった掛布雅之を、「GM付育成&打撃コーディネーター」という肩書で(現役引退以来)25年振りに球団へ復帰させた。6月にGMとしての契約を更新したが、チームの東京遠征に同行していた同年9月23日の正午頃、宿泊していたホテルの部屋のベッドで心肺停止に陥っている姿を、同行していた南信男球団社長(当時)やホテルのスタッフが発見。ホテル側からの連絡を受けた救急隊が部屋に到着したところ、死亡が確認された。満66歳没(享年67)。チームがセ・リーグ優勝争いの渦中にあったことから、救急隊の到着前にホテルを出発していた首脳陣やナインには、当日のデーゲーム(東京ドームでの対巨人戦)終了後に訃報が伝えられた。阪神球団では翌24日の対中日戦(ナゴヤドーム)および、逝去後初めてのホームゲームであった28日の対巨人戦(甲子園)において、試合前に中村へ向けて黙祷。また、対戦球団を含めたナインがユニフォームに喪章を付けた。24日に試合のなかった古巣のオリックスでは、25日の対日本ハム戦(京セラドーム大阪)で黙祷と両チームによる喪章の着用があった。なお、阪神球団では当初、中村の死因を急性心不全と発表していた。しかし、その後の検死の結果、同月23日の午前3時頃に脳出血で死亡したことが判明している。2015年9月30日に千葉市内で執り行われた葬儀・告別式には、吉田義男元監督、中西太元監督、掛布雅之二軍監督(後述)、岡田彰布元監督、成東高校での後輩に当たる元中日ドラゴンズの鈴木孝政、南信男阪神球団社長、木戸克彦・嶌村聡阪神GM補佐など阪神・オリックスの関係者を含む約250名が参列した。阪神球団でも同年11月19日に、一般人も参列できる「お別れの会」を甲子園球場で開催。グラウンドにてユニフォーム姿の首脳陣・選手、球団OB・他球団の代表など球界関係者約600名、一塁側スタンドにてファン約1000名が参列するとともに、吉田が弔辞を読み上げた。阪神球団では、2015年10月1日に人事異動を発令。当面の間GM職を廃止する方針を打ち出すとともに、掛布の役職を「球団本部付育成&打撃コーディネーター」へ変更した。しかし、異動の発令後に一軍監督へ就任した金本知憲からの要望などを受けて、同月26日に掛布との間で二軍監督の契約を締結。このため、育成&打撃コーディネーター職も事実上廃止された。その一方で、同年まで一軍監督を務めていた和田豊が、12月1日付で球団史上初のオーナー付シニアアドバイザー(SA)へ就任。編成業務には直接関与しないものの、GM時代の中村の役割を事実上引き継ぐ。現役時代の中村は主に一番打者を務め、榊原良行と合わせた一・二番打者コンビとして売り出されたこともあった。には、一番打者として全試合出場を果たした。長打力はそれほど高くは無かったが、打席では粘りを見せた。1975年にはシーズン初回先頭打者本塁打6の球団記録を樹立、1972年に阪急ブレーブスの福本豊が記録した当時の最多記録8に次ぐ数値だった。また、堅実な守備にも定評があった。1975年6月4日の対ヤクルト戦では、1試合11補殺の当時の日本記録(2013年9月18日に本多雄一が12補殺記録)を残し、後に木下富雄、岡田彰布、小坂誠、田中浩康が並ぶも現在もセントラルリーグの同記録保持者である。から阪神監督に就任。長期政権となることを前提とした起用であり、堅実性を見込まれてのチームの立て直しを期待されていた。同年は2年ぶりの最下位に終わり、オフに実行したトレードで獲得した選手たち(ダイエーから西川佳明、藤本修二ら、ロッテから高橋慶彦)は翌に期待に応える成績を残せず、2年連続の最下位に終わる。なお、ダイエーに移籍した大野久は盗塁王に輝き、池田親興も中継ぎで活躍した。1992年には外野守備走塁コーチ三塁担当兼作戦コーチとして島野育夫が就任。同年から甲子園のラッキーゾーンが撤去されたため、従来の打撃重視の戦術から、投手を中心とする守備重視の戦術に転換する。中村は新庄剛志の素質を早くから見抜き、この年の初スタメンで初本塁打を放って以降ほぼレギュラーとして起用した。この年は仲田幸司、湯舟敏郎、中込伸、野田浩司ら投手陣の活躍と、新庄、亀山努の台頭で優勝争いの輪に入り、9月上旬にそれまで首位を走っていたヤクルトの9連敗、阪神の7連勝で一気に首位に躍り出た。しかし前半戦で活躍したストッパーの田村勤が酷使により故障で離脱した上、これまで快進撃を支えた若手が重圧で不振に陥ったため、九分九厘手にしていた優勝をヤクルトに明け渡す。また、10月7日にヤクルトとの直接対決(対ヤクルト25回戦)で立ち上がりの悪い湯舟を2点リードの9回1死一・二塁という場面で登板させて、逆転サヨナラ負けを喫した采配に非難が集まった。この年のオフに放出した藤本と金森栄治は、それぞれ西武、ヤクルトで復活を果たした。また、若手を積極的に起用する采配に対しても、ベテランの岡田彰布は自身の代打に亀山を起用したことに不満を抱いた。自身の大学の後輩であり、球団幹部候補生であった岡田に代打を送ることは当時は禁じ手とされていた。また、2位という順位にもかかわらず、後年に「チーム作りの方向性が見えていなかった」という指摘が出されている。V逸に関しては「リーグ防御率1位の投手力と、リーグ得点最下位の打撃力」という極端なチーム構成、残り15試合を4勝11敗、うちビジター13試合で3勝10敗(うち5試合が神宮球場でのヤクルト戦)という日程の影響が大きく、1990年代の阪神は得点力不足と投手力とのバランスに苦慮することとなった。は貯金と借金が逆転し、63勝67敗の4位に終わる。得点力不足を解消するため、野田とのトレードでオリックスから松永浩美を獲得。トレード当初の評価は「前年の4番手の投手で、走攻守に定評があるものの、言動からチーム内で評価が低下していた名三塁手を獲得できた」といったものだったが、野田は新天地で覚醒、最多勝(17勝5敗、防御率リーグ3位)を獲得、以後数年オリックスのエースとして活躍。対して松永は80試合の出場に終わり、さらに阪神ファンのバッシングもあり1年限りでFA宣言しダイエーに移籍した。トレードの成果や打撃力重視の選手起用もあり得点力は相対的に4位に上昇したものの、前年の投手陣が揃って不調、チーム防御率は1点以上悪化(リーグ5位)した。は前半独走していた巨人が失速したこともあり、8月終了時点で全チームに優勝の可能性があった。阪神は9月14日終了時点で60勝58敗で3位につけていたが、翌日から残り12試合を7連敗を含んで2勝10敗と転げ落ち、最終的にヤクルトと同率の4位に甘んじる。藪恵壹の台頭や、オリックスから移籍した古溝克之のストッパー定着などもありチーム防御率はリーグ2位に盛り返したが、打線はトーマス・オマリーとFA移籍した石嶺和彦以外に得点源がなく、オフにはオマリーが打点の少なさを理由に解雇される。1995年もFAで山沖之彦を獲得したが、一軍で登板することなく同年限りで引退した。一方、放出したオマリーはヤクルトで大活躍してリーグ優勝、さらには日本一にも大きく貢献し、同年のセ・リーグ、日本シリーズのMVPに輝いた。阪神は開幕から5連敗を喫するなどして、中日と最下位を競った。7月の球宴前のヤクルト・巨人・広島を迎えての甲子園9連戦が0勝8敗1中止、うち完封負けが6度という惨状の中、中村は7月23日にシーズン途中での休養を宣言した。休養に先立って、自力優勝の可能性が消えた同年7月17日に、球団社長・三好一彦と緊急会談したオーナー・久万俊二郎が、記者団に対して「彼の采配はスカタンですな」と発言し、これが中村の辞意につながったとされる。監督時代の中村に対するファンの反応は決してよいものとはいえず、負けが込むと試合中に「暗黒の使者 不要」というプラカードを掲げるファンが現れたりするなどした。それでも、2015年シーズンまでの阪神において、中途の休養や他の役職への変更を含まずに6シーズン連続で一軍を指揮した監督は中村しかいない。中村は村松有人、菊地原毅らチームの中心となる選手の補強に成功し、成果を上げた。また、「夢や憧れだけでプロに入団させるわけにはいかない。本人のためにも、チームのためにもならない」として、2000年から続いていたいわゆる「契約金ゼロ枠」を廃止した(オリックス・バファローズ#契約金ゼロの新人選手参照)。ドラフト会議では、金子千尋、平野佳寿、岸田護、岡田貴弘等、指名した選手が数年後にチームの軸となった。2006年のオリックス監督就任にあたっては、春季キャンプでセカンドの平野恵一をセンターに、サードを任されていた後藤光尊を二遊間にコンバートし、清原和博と中村紀洋の加入に備えた。「かつての巨人のようなチームが2つできた」とコメントするも、中村はキャンプ中に故障。シーズンに入っても清原、中村は故障でたびたび戦線離脱した。また、クリフ・ブランボーとカリーム・ガルシアが不調、新外国人のジェイソン・グラボースキーも結果を出せず、ミックスモダン打線と名づけられた強力打線の構想が瓦解した。交流戦前後までは3位をキープしていたが、上記の選手や谷佳知など主力選手の不振・離脱、先発投手陣の不振、終盤の北川博敏の故障離脱など、チームが不調に陥った。また、「不調のベテランを起用し、好成績を残している若手を主軸で起用しない」などと阪神時代とは逆の批判を受けた。8月下旬、故障者の多さを理由に、宮内オーナーは一度は続投を匂わせたが、その後の対楽天3連戦で、パ・リーグチーム初の対楽天戦カード3連敗を受けて「予想以上に弱い」と発言、進退は白紙化される。9月下旬時点で、最下位楽天とのゲーム差が徐々に縮まり、最下位転落の可能性もある危機的状況に陥り、5位の座を死守したが、9月27日のシーズン最終戦後に成績不振の責任を取って監督辞任を発表した。2007年に監督就任したテリー・コリンズは常々「足を使った機動力野球をやりたい」と語っていたが、コリンズ在任中にフロントが獲得したのはアレックス・カブレラ、古木克明、濱中治など、機動力野球とはほど遠い長距離打者ばかりであった。しかしタフィ・ローズ、カブレラは3番、4番で結果を残し、2008年に9年ぶりのAクラス入り(2位)に貢献した。2007年オフに福岡ソフトバンクホークスと二重契約が報じられたジェレミー・パウエルの問題について、中村はパシフィック・リーグ会長の小池唯夫と会談し、「事実上の出場停止処分を3か月から1年間に延長すれば、ソフトバンクとの契約を優先する」という勧告を受け入れる妥協案を受け入れる事を表明した。球団本部長在任中は、背番号を決める権限を持っており、清原が着けていた「5」とイチローが着けていた「51」を功績を讃えて欠番にする等のこだわりを持っていた。2009年はローズ、カブレラ、後藤、グレッグ・ラロッカといった主力選手の怪我の多発や、投手陣では前年に新人王を獲得した小松聖や加藤大輔などの不振が原因で再びチームが低迷し、最終的に最下位に沈んだため、その責任を負う形でシーズンの終了を待たずに、同年9月30日をもって球団本部長を退任した(事実上の解任)。なお、この時期は、濱中、吉野誠、金澤健人、ライアン・ボーグルソンなど阪神の選手を獲得することが多かった。また、阪神監督時代同様に放出選手の移籍先での活躍が目立った。2006年オフにトレードで巨人に放出した谷はセ・リーグ3位の高打率を残し、5年ぶりの巨人優勝に大きく貢献した(2014年に復帰)ほか、ロッテに放出した早川大輔は自身初の規定打席に到達し、不動の2番打者として大活躍した。2007年オフには濱中獲得のためにトレードで平野を阪神へ放出したが、平野は翌年カムバック賞を受賞、2010年にはリーグ2位の高打率.350を記録し、ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞するなど大活躍した(のちに復帰)。この期間にオリックスはドラフト会議で四国・九州アイランドリーグから梶本達哉(2007年育成1位)と西川雅人(2008年5位)を指名し、いずれも入団している。中村が就任する際のインターネット調査において、チームが「まったく強くならない」と答えたユーザーの数は73.3%にのぼった。作家の山田隆道はファンの反応について、「異常なまでの拒否反応を示している」「多くの阪神ファンにとって中村GMは暗黒時代の象徴的人物に見える」と評している。GMへの就任直後には、一軍投手コーチとして強力な救援陣を確立した後に、2009年から二軍投手コーチに転じていた中西清起を一軍担当へ復帰するよう要請。「(高校から直接入団した)秋山拓巳・岩本輝・歳内宏明を二軍で一人前の投手に育てたい」という理由で要請を固辞する中西に対して、「お前を一軍に戻すことが、(ゼネラルマネジャーとしての)俺の初仕事だ。断るならタイガースを辞めろ」と言い放った。結局、中西はこの要請を受けて、2013年から2015年まで一軍投手コーチを再び務めている。その一方で、2012年のシーズン終了後には、NPB他球団の出身でメジャーリーグのプレーも経験した西岡剛・福留孝介を獲得。翌2013年には、西岡は1番打者として活躍を見せたものの、福留は故障続きで年間通して試合に出場できなかった。また、前年不振だったクレイグ・ブラゼルを解雇し、その後釜としてブルックス・コンラッドを獲得したが、本塁打・打点共に0のまま1年で退団した。一方、ブラゼルはシーズン途中にロッテが獲得し、62試合で11本塁打を放つ活躍を見せた。阪神は優勝した巨人に12.5ゲーム差を付けられたが、福留は翌2014年に故障や不振から脱出。2015年には、レギュラー右翼手や4番打者として、攻守にわたってチームを支えた。2013年のシーズン終了後には、クローザ―候補として韓国プロ野球・三星ライオンズから呉昇桓、4番候補としてマウロ・ゴメスを獲得。その影響で、先発陣の一角を担っていたジェイソン・スタンリッジに自由契約を通告した。翌2014年には、呉がセーブ王、ゴメスが打点王のタイトルを獲得。GM就任前の2010年から在籍していたマット・マートンが首位打者、ランディ・メッセンジャーが最多勝利と最多奪三振のタイトルを獲得するなど、在籍する外国人全4選手がタイトルホルダーになった。なお、スタンリッジは福岡ソフトバンクホークスへの復帰後も、先発投手として活躍。2015年には、呉がNPB外国人投手のシーズン最多セーブ記録(41セーブ)を達成するとともに、2年連続のセーブ王に輝いた。阪神監督時代に1989年のドラフトで8球団競合の野茂英雄、1990年のドラフトで8球団競合の小池秀郎、1992年のドラフトで4球団重複1位の松井秀喜の抽選を外している。なお、1991年のドラフトでは4位指名で三井浩二(この時はダイエーの指名を拒否し、2000年のドラフトで西武に逆指名入団)の抽選を外しているが、その時のいわば「はずれ4位」で獲得したのが桧山進次郎である。オリックスGM時代の2005年のドラフトにおいて、辻内崇伸の抽選の際、はずれクジを当たりクジと勘違いして話題になった。この年のクジは、はずれにも認印が押してあるデザインだったため、陽仲壽の指名においてソフトバンクの王貞治監督も同様の勘違いをし、翌年以降デザインが刷新された。なお、阪神のGMに就任した直後の2012年ドラフト会議には、当時監督だった和田豊などと共に同席。阪神・オリックス・千葉ロッテ・東京ヤクルトの間で藤浪晋太郎への指名が重複したドラフト1巡目の抽選では、和田が当たりクジを引いたことで阪神の独占交渉権が確定した。この会議後に阪神へ入団した藤浪は、抽選へ参加しなかった中村について、中村の急逝直後に「(和田が当たりクジを引いた瞬間、抽選箱の)後ろのテーブルでガッツポーズを見せて下さったことが印象に残っているほど、自分の入団を喜んで下さった」と述懐している。誠実な性格で、冷静な判断力を持つ人物だと言われている。選手時代の寮生活でも、真面目な優等生として評価が高かったという。阪神では監督・GMとして2位、オリックスでもGMとして2位を達成している一方で、チームが成績不振の時期には「負広」と揶揄されることもあった。富裕層出身、早大出身のバイプレーヤー、二軍監督からのたたき上げなどといったイメージが手伝ってか、「実話」「真相」などと題し人間関係を憶測するような雑誌では「典型的なイエスマン」扱いされることが多かったようである。一例をあげると、宝島社『別冊宝島 プロ野球<ウラ読み>読本』(1998年)のp.207には、「久万が彼(中村)には調整能力があると評価した。これは球団とマスコミとの間に軋轢を起こさなかったことを指すという」などといった記述がある。作家の山田隆道は「多くの阪神ファンにとって、中村GMは暗黒時代の象徴的人物に見える」「ドラフトや補強で当たり外れが多い」ものの、「他の監督が最下位、たまに5位だったことを考えれば、はるかにマシな監督である」「阪神時代・オリックス時代ともに課題の世代交替も促進している」と評し、異常なまでの拒否反応の原因としては「6年という長期政権だった」「かえって諦めの境地に至れなかった」「他の監督が大選手なので、ファンもマスコミも批判しづらい」ことなどをあげている。「一番怖いのは批判の矛先がGMと監督に集中すること」としながらも、自らも「阪神ファンとしての自分の正直な本音を言えば、縁起の悪い人がトップにいることに不安を感じる」と語っている。契約金ゼロ枠の否定など、シビアな野球観を持っている。関西独立リーグの神戸9クルーズに所属していた吉田えりについて、2009年のリーグ開幕戦で登板した際に「万が一のことを考えると怖いし、バッターもやりにくい。話題をつくる狙いは分からないではないが、いかがなものか」と述べた。阪神GMへの就任直前までMBSラジオの野球解説者を務めていた縁で、GMへの就任後も、『亀山つとむのかめ友 Sports Man Day』(監督時代の教え子・解説者時代の同僚であった亀山つとむがパーソナリティを務める同局のスポーツ情報番組)での独占取材を通じてGMの立場から定期的にコメントを発表していた。実家は裕福な網元で当時の河西俊雄スカウトが指名挨拶に向かおうとした際に駅で外車で出迎えをされたという。好物はシュークリームで、インタビューでも認めていた。酒や仁丹も好んでいて、阪神の監督時代には、仁丹の広告に起用されていた。また、石原裕次郎の楽曲も好む一方で、航空機での移動を苦手にしていた。オリックス在籍中、チーム愛称を「バファローズ」と発音せず、ずっと「バッファローズ」と言っていた。タレントの小倉優子は遠戚にあたる(祖父同士が従兄弟)。対面したのは2009年6月が初めてであり、普段はまったく交流がなかったようである。また、元プロサッカー選手の関隆倫も遠縁の親戚(小倉のいとこ)。自身の葬儀や「お別れの会」で喪主を務めた長男は、医師としてアメリカに住んでいる。阪神のGMに就任してからは、飲酒でストレスを発散しつつも、寝つきが悪くなったことから睡眠薬を常用。降圧剤も服用しながら、球団で初めてのGM職の重責を担っていた。「新巨人の星」にて右投手として再起した星飛雄馬の最初の対戦相手として描かれている。
出典:wikipedia
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