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幸若舞

幸若舞(こうわかまい)は、室町時代に流行した語りを伴う曲舞の一種。福岡県みやま市瀬高町大江に伝わる重要無形民俗文化財(1976年指定)の民俗芸能として現存している。、700年の伝統を持ち、毎年1月20日に大江天満神社で奉納される。幸若舞は、中世から近世にかけて、能と並んで武家達に愛好された芸能であり、武士の華やかにしてかつ哀しい物語を主題にしたものが多く、これが共鳴を得たことから隆盛を誇った。一ノ谷の戦いの平敦盛と熊谷直実に取材した『敦盛』は特に好まれた。『幸若系図』によれば幸若舞曲を創始したのは、源義家から10代後の桃井播磨守直常の孫桃井直詮といわれ、幼名を幸若丸といったことから「幸若舞」の名が出たといわれている。幸若丸は越前国丹生郡西田中村に住んでいたが、父の没後、比叡山の稚児となり、生まれつき歌舞音楽に優れた才があり、草子に節をつけて謡ったのが評判になって「幸若舞」と呼ばれるようになったとのことである。これが越前幸若舞のはじまりである。越前幸若舞は幸若氏(桃井八郎九郎・弥次郎・小八郎)のみに伝承されたが、江戸幕府崩壊と共に廃業した。初代幸若の子弥次郎の弟子に山本四郎左衛門という人がおり、幸若舞の一流である大頭流をたてた。その弟子の百足屋善兵衛の、そのまた弟子(つまり山本四郎左衛門の孫弟子)の大沢次助幸次という人が、天正10年(1582年)、筑後の山下城主蒲池鎮運に招かれて九州に渡り、柳川城主の蒲池鎮漣などが家臣達にこの舞を教えたと伝えられている。それが大江幸若舞である。明治維新後、禄を離れた各地の幸若舞はその舞を捨ててしまい、この大頭流の大江幸若舞のみが現在に伝わっている。大江の地に受け継がれてから、2009年現在で222年の伝統がある。「幸若三十六番」、「大頭四十二番」と称せられるが、詞章の存するものは、『松枝』、『老人』などの小曲をのぞけば、四十四番である。これを古伝説物、源氏物、平家物、判官物、曽我物その他に分類して示せば以下のとおりである。 日本記・入鹿・大織冠・百合若大臣・信田 満仲・鎌田・木曾願書・伊吹・夢合・馬揃・浜出・九穴貝・文覚・那須与一 硫黄島・築島・敦盛・景清 伏見常盤・常盤問答・笛之巻・未来記・鞍馬出・烏帽子折・腰越・堀河夜討・四国落・静・富樫・笈さがし・八島・泉が城・清重・高館 切兼曽我・元服曽我・和田酒盛・小袖曽我・剣讃嘆・夜討曽我・十番斬 新曲・張良福岡県みやま市瀬高町大江の幸若舞保存会によって8曲の節回しが口承復元されており、2008年1月20日、同会の成人部によって『敦盛』『高舘』『夜討曽我』が、青年部によって『敦盛』が、小学生部によって『濱出』『日本記』が、それぞれ披露された。特に初めて復元演舞された『敦盛』は織田信長が桶狭間の戦い出陣前に舞ったといわれ、「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如く也」の一節で有名なものである。この『敦盛』は2009年2月に幸若舞保存会によって京都でも上演された。

出典:wikipedia

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