UFO(ユー・エフ・オー)は1969年に結成されたイギリスのロックバンド。レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、ブラック・サバスなどとほぼ同時期に活躍し、1980年代のハードロック・ヘヴィメタル、例えばデフ・レパードやアイアン・メイデンのスティーヴ・ハリス、メタリカのカーク・ハメットやメガデスのデイヴ・ムステインなどへ多大な影響を与えた。1969年8月、フィル・モグ(vo.)、ミック・ボルトン(g.)、ピート・ウェイ(b.)が在籍するHocus Pocusというバンドにアンディ・パーカー(ds.)が加わった際、バンド名をUFOに改名して結成された。バンドはロンドンのクラブ・シーンで活動し、1970年3月、イギリスのマイナー・レーベルであったビーコン・レコードと契約し本格的なプロ・デビューを果たした。1970年に発表したデビュー・アルバム『UFO1』と翌年発売の『UFO2/Flying』は英米ではいまひとつの売れ行きだったが、デビューアルバムからシングルカットされた「カモン・エヴリバディ(C'mon Everybody)」(エディ・コクランのカバー)がドイツと日本でヒットし、活動のメインをドイツに置きつつ1971年9月には初来日公演を行っている。この来日公演は当初、アメリカのヴォーカル・グループ、スリー・ドッグ・ナイトとのジョイントによる東京・日本武道館公演、甲子園公演が予定されていたが、スリー・ドッグ・ナイト側のキャンセルにより急遽、東京・日比谷野外音楽堂、大阪府立体育館における単独公演に変更して行われた。日比谷野音の模様は録音され、1972年にライブアルバム『UFO LANDED JAPAN』として日本でのみ発売された(後にドイツでも『Live』のタイトルでリリース)。メンバーはこのリリースに関与していない様で、後に「海賊盤がリリースされた」と発言している。初期のUFOは、ディープ・パープル、レッド・ツェッペリン、フリー、ジェフ・ベック・グループなどからの影響を土台にしつつ、アメリカン・サイケ、ガレージ・ロックの影響なども盛り込み独自のサウンドを模索していたが、二枚目のアルバムでは"One Hour Space Rock"というキャッチをつけたように、よりアンダーグラウンドでサイケな音楽に接近していた。しかし、そこにこだわりすぎるのはかえって自分たちのスタイルを限定してしまうのでは、とも感じていたようだ。日本公演後に行われたドイツ公演では、ミック・ボルトンが突然失踪したため、サポート・バンドだったスコーピオンズのギタリストマイケル・シェンカーが急遽代役を務めた。1972年1月、ミック・ボルトンが脱退(脱退理由は諸説あり)。これを機にUFOはよりスタンダードなロック・スタイルにシフトし、それに相応するギタリストを探し始めた。ミックの後任ギタリストにはラリー・ウォリス(1972年2月〜10月)やバーニー・マースデン(1972年10月〜1973年6月)の参加を経て、以前から加入要請のアプローチを続けていたマイケル・シェンカーの加入が決定。1973年6月にバンドに迎え入れた。このラインアップで新たにクリサリス・レコードと契約。手始めにシングル「Give Her The Gun/Sweet Little Thing」をドイツでリリースし、12月にはレオ・ライオンズ(元テン・イヤーズ・アフター。クリサリス所属でもあった)のプロデュースでアルバムのレコーディングを開始した。1974年4月に発売されたアルバム『現象』("Phenomenon")は、ハードなギター・リフが印象的な「"Rock Bottom"」や後にライブ音源でシングルヒットとなった「"Doctor Doctor"」に顕著なように、マイケルの持つ憂いに満ちたメロディ・センスと、鋭角なギターサウンドがうまく取り込まれた傑作で、バンドを一気に世界レベルへと押し上げた。アルバム『現象』発売後の1974年5月には、さらなるバンド体制の強化をねらい、新たにセカンド・ギタリストとしてポール・チャップマンを加入させ、5人編成でイギリスとヨーロッパをツアーするが、マイケルとポールの間に軋轢が生じたために同年9月にポールはバンドを脱退。ポールは自らのバンドローン・スターを結成した。バンドは4人のまま10月には初のアメリカ公演を行った。1975年春には、レオ・ライオンズのテン・イヤーズ・アフター時代の同僚チック・チャーチル(Key.)をゲストに迎え、アルバム『フォース・イット』("Force It")の製作を開始、同年7月に発売した。バンドは専任キーボード・プレイヤーの必要性を感じ、8月に元ヘヴィ・メタル・キッズのダニー・ペイロネル(Key.)を加入させ本格的なアメリカ・ツアーを開始した。1976年4月に発売されたアルバム『ノー・ヘヴィ・ペッティング』("No Heavy Petting")ではキーボード・サウンドの導入により、アレンジの幅を広げることに成功したが、マイケルがよりバランスのとれたサウンドを求めたため、9月にはダニーを解雇。1976年12月には、キーボードだけでなくギターも弾ける元チキン・シャック、サヴォイ・ブラウンのポール・レイモンド(g. & key.)が加入した。(レイモンドはその後もシェンカーと行動を共にし、MSGに加わる)ロン・ネヴィソンをプロデューサーに迎え製作され、1977年5月に発売されたアルバム『新たなる殺意』("Lights Out")は「"Too Hot To Handle"」「"Lights Out"」「"Alone Again Or"」やストリングスを導入した7分の大作「"Love To Love"」といった曲を収録し、UFOスタジオ録音アルバムの頂点としてのみならず、1970年代ロックの古典のひとつとも言える傑作に仕上がった。これによりバンドは確固たる地位と名声を確立し、マイケルも新世代のギター・ヒーローとして認知され始めた。1978年6月にはアルバム『宇宙征服』("Obsession")を発売。前作の勢いを引き継ぎ「"Cherry"」「"Only You Can Rock Me"」といった代表曲を収録している。1978年12月にはライブ・アルバム『UFOライブ』("Strangers In The Night")を発売。脂の乗り切ったバンド演奏とノリの良い聴衆の反応を収め、これもシン・リジィの『"Live and Dangerous"』やキッスの『"Alive!"』、ピーター・フランプトンの『"Frampton Comes Alive"』などと肩を並べる1970年代を代表するライブ・アルバムのひとつと評されている。成功をほぼ手中にしたUFOは、誰の目にも安泰にみえた。しかしその裏では、堅物かつ酒豪で知られたリーダーのフィル・モグと、英会話に難を抱え、完璧主義者である若きマイケル・シェンカーとの間に大きな軋轢が生まれており、既に精神のバランスを失っていたマイケルがしばしば失踪を繰り返していた。そしてついに、『UFOライブ』発売直前の1978年11月、マイケルが正式に脱退する。(その後スコーピオンズに一時的に復帰したがすぐに脱退、ドラッグとアルコール中毒の過酷なリハビリの後、自らのバンドであるマイケル・シェンカー・グループを結成しシーンに復帰する。)マイケル脱退後、UFOは即座に後釜として、再びポール・チャップマンを迎えてツアーを再開。1979年6月には二度目の来日公演を行った。翌1980年1月にはビートルズのプロデュースで知られるジョージ・マーティンを起用し、アルバム『ヘヴィ・メタル・エクスペリエンス』("No Place to Run")を製作、発表。NWOBHMムーブメントの追い風もありバンドは精力的にツアーをこなし、8月にはレディング・フェスティバルでトリも務めた。しかし直後にポール・レイモンドが脱退し、後任にニール・カーター(g. & key.)が加入。バンドは以前と変わらないように見えたが、徐々に勢いを失いはじめていた。1981年1月に発表されたアルバム『ワイルド/ウィリング/イノセント』("The Wild, The Willing And The Innocent")は、バンドによる初のセルフ・プロデュース作品で、シングル「"Lonely Heart"」がスマッシュヒットした。1982年2月に発売されたアルバム『メカニックス』("Mechanix")はゲイリー・ライオンズをプロデューサーに迎えたことでバランス感覚の優れた1枚となり、イギリスでは久々にチャートのTOP10に入るヒット作となった。ポップなシングル「"let it rain"」もポール・チャップマン時代では最大のヒットとなる。しかしアルバム発表後のアメリカ・ツアー中、バンドの音楽性に異を唱えたピート・ウェイが自己のグループを立ち上げるために脱退。バンドは代役にピーター・ファーンドンを起用しツアーを遂行した。バンドは専任ベーシスト不在のままアルバム『メイキング・コンタクト』("Making Contact")を製作、1983年初頭に発売した。シンフォニックなキーボードとメタリックなギターを前面に打ち出し、新たなスタイルを提示するがセールスは伸び悩んだ。バンドはピートの後任にビリー・シーン(b.)を加えヨーロッパ・ツアーを開始、その後のイギリス・ツアーでは元ダムドのポール・グレイ(b.)に交代した。しかしバンドは不安定な人事とセールス不振に疲弊し、1983年4月、遂に解散することになった。このため翌5月に予定されていた三度目の来日公演は幻となってしまった。バンド解散後の1983年10月、彼等の歴史を総括したようなベスト・アルバム『ヘッドストーン』("Headstone")が発売された。1984年12月、フィル・モグ主導により新しいメンバーでUFOが再始動する。注目のギタリスト候補には、当時売り出し中だったイングヴェイ・マルムスティーンの名前もあったが、結局日系人ギタリストアトミック・トミー・Mが迎えられた。ベースはピート・ウェイではなく、前作のツアーから引き続いてポール・グレイが担当、キーボードにはポール・レイモンドが復帰した。イギリス・ツアーを経て1985年11月、アルバム『ミスディミーナー』("Misdemeanor")が発売。キラキラしたキーボードサウンドにトミーの超絶ギターを埋め込んだアルバムは、随所にアダルトな雰囲気も漂わせ、前作『メイキング・コンタクト』で打ち出したスタイルをより飛躍させた意欲作であった。その後アメリカ・ツアーも行われたが、新鮮な息吹を注いでバンドを再興しようとしたフィルの熱意も商業的には成功せず、1987年に再び解散を余儀なくされてしまう。再解散後の1988年には次回作用に録音された音源が、ミニ・アルバム『殺気!』("Ain't Misbehavin")として発売された。1992年、フィル・モグとピート・ウェイは三たびUFOを立ち上げるべく活動を開始。ギタリストにはフィル・ライノットのグランド・スラムでの活動でも知られるローレンス・アーチャーを起用し、弱小レーベルからではあるがアルバム『"暴発寸前!"』("High Stakes & Dangerous Men")を発表、来日も果たした。(この日の模様はのちに『lights out in tokyo』として発売される。)これが切っ掛けとなり、完全復活への道が開けたUFOは、翌年フィル、ピート、マイケル・シェンカー、ポール・レイモンド、アンディ・パーカーの最盛期のメンバーでバンドを再編成。1994年にはマイケルを擁するラインナップでようやく初の来日を果たした。1995年にはアルバム『ウォーク・オン・ウォーター』("Walk on Water")を発売。このメンバーにドラムとしてAC/DCのサイモン・ライトがサポートとして参加、ワールド・ツアーへ出発するに至っては、UFOは往年の輝きを取り戻すのではと期待された。しかし、例によってマイケルが他のメンバーと衝突し途中で脱退。公演こそサポートメンバーを加えて乗り切るが、またしてもバンドは空中分解した。その後、マイケルがUFOのバンド名の使用権利を主張。マイケルなしでUFOを名乗れなくなったフィル・モグとピート・ウェイは、Mogg/Wayの名での音楽活動を余儀なくされていたが、(2枚のアルバムをリリース。)2000年マイケル・シェンカーが三度目の復帰を決めたため、UFO名義での活動を再開させた。同年、フィル、ピート、マイケルの3人に元ジャーニーのエインズレー・ダンバー(ds.)を加えたラインナップで、アルバム『聖約』("Covenant")をリリース。初回盤は95年に行われたライブのCDが付属した2枚組だった。マイケルの動向に関してはいろいろな噂が囁かれたものの、2002年には同布陣による『シャークス』("Sharks")が発売された。しかし、またしてもマイケルが離脱。だがマイケルがUFOのバンド名の権利を放棄したため、バンドは代わりにヴィニー・ムーアを加入させ、2004年にはジェイソン・ボーナムをドラマーに迎えて『"You Are Here"』をリリースした。UFOのロックに対する情熱はまだ枯れてはおらず、現在もバンドはレコーディングやツアーを積極的にこなしている。2005年11月にはアンディ・パーカーが復帰、スペインのグラナダで開催されたPiorno Rock Festivalで演奏を披露。2006年9月25日には通算19枚目となる『"モンキー・パズル"』(The Monkey Puzzle)をヨーロッパでリリースした。翌日にはアメリカ合衆国でも発売されている。また、2008年のROCKLAHOMAにも参加した。翌2009年には『"ザ・ヴィジター"』をリリース。その後ピート・ウェイが体調不良のためバンドを離れたが、2011年には『"セブン・デッドリー"』を発表し、ツアーも含めて安定した活動をみせている。
出典:wikipedia
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