THE YELLOW MONKEY(ザ・イエロー・モンキー)は、日本のロックバンド。愛称・略称はイエモン。2012年現在、CD総売上枚数は1008万枚。1988年に結成、2001年1月より活動を停止し、2004年7月7日をもって解散した。かつての公式ファンクラブは「Petticoat Lane」。2016年1月、再結成と16年ぶりの全国ツアーを発表。バンド名の「イエローモンキー」とは、主に西洋圏で使用される、東洋人に対する蔑称である。命名のきっかけは、吉井が辞書で自身のイニシャルである「Y」から始まる英語を探していたことから。このバンド名は、ダサくてシニカルな名前にしたいと考えていた吉井によって、結成前から命名された。バンド名に込められた思いとして、吉井は洋楽へのコンプレックスがあったと語っており、「日本のロックにこだわりをもっているが、『日本のロック』という言葉には既に洋楽へのコンプレックスがあり、それは永遠に消えない」としている。吉井曰く、ルックスが良くて長身なのが「イエローモンキー」のコンセプトであり、事実、183cmの吉井以下全員が180cm前後の身長である。バンド名が東洋人に対する蔑称ということもあり、ローリング・ストーンズは「イエローモンキー」というバンド名を初めて聞いた際に、「すげえ名前だな。絶対忘れねえ」と語っていたというエピソードがある。略称は「イエモン」。メンバー自身がこの略称を用いることはないため、コアなファンからは長らく敬遠されていた。しかし、2013年に発売されたベストアルバム『イエモン-FAN'S BEST SELECTION-』は、長く応援し続けてくれたファンにも「イエモン」という略称を受け入れてもらうため、最もわかりやすい愛称としてタイトルに相応しいのではという意見がメンバーやスタッフから上がり、満場一致で「イエモン」がタイトルとして採用されることとなった。1988年に結成。当初は吉井がベースを担当していたが、以前から親交のあった廣瀬洋一をメンバーに誘い、吉井はギターに転向。さらに「KILLER MAY」のドラムとして1986年にメジャーデビューしていた菊地英二が同バンドの解散後に加入。後に、イエローモンキーの前ボーカルが吉井と音楽的な意見の食い違いによって脱退。吉井はボーカルに転向し、「KILLER MAY」のギターとして活動していた菊地英昭(菊地英二の実兄)が加入し、1989年12月28日に現メンバーで初ライブを行う。当時は「渋谷ラ・ママ」を拠点にし、精力的なライブ活動を行う。バンド初期はデヴィッド・ボウイ、ミック・ロンソン、T.Rexなどを彷彿とさせるグラムロック色が強く、メンバーが化粧をしたりするなど、後のヴィジュアル系のようなルックスだった。また、吉井がライブで女装をし、オカマキャラを演じることにより当初苦手だったMCが「面白い」と評判になり、結果的に観客動員が増えた。当時の観客層は9割女性だったという。1992年5月21日、日本コロムビアより1stシングル『Romantist Taste』でメジャーデビュー。1か月後には1stアルバム『THE NIGHT SNAILS AND PLASTIC BOOGIE』をリリースした。枚数は思うように売れず、オリコンチャート圏外となる。後に吉井は「社長もどう売っていいのか分からなかったと思う」と語っている。しかし、ライブの動員数はイベント出演なども手伝って伸び続け、チケットは毎回完売状態だった。1993年4月には日本青年館で初のホールライブを実施。同ライブでは、両手を縛られ頭に袋を被せた裸の女性2人をステージに出す衝撃的なオープニング演出を行った。当時のディレクターの宗清裕之はセールスが伸び悩むことを危惧し、「もっとコマーシャルな方向に行こう」と提案したが、吉井は「この先もバンドを続けていく上で、1回はコンセプトアルバムを作りたい」と語り、1994年3月にコンセプトアルバムとして3rdアルバム『jaguar hard pain 1944〜1994』がリリースされた。吉井は、本作の主人公である「ジャガー」になりきるため、髪を丸坊主の軍人カットにした。春、夏、冬と3本のツアーを通して1年がかりで「恋人マリーと出会う」というストーリーの結末に向け、通常のMCを廃した独自のステージを展開した。観客動員は軒並み上がっていったが売り上げ枚数は伸び悩み、吉井は「なんでライブはみんな虜になってくれるのに、音源に関してはそうならない?」と悩んだという。観客動員が良かったこともあり、ツアーの終盤に翌年日本武道館公演が実施されることが決定する。また、この年に「ROCKIN'ON JAPAN」3月号の表紙を飾り、抜擢した副編集長の井上貴子は後に「当時もまさかの表紙で、業界の波紋を呼んだ。だからこそやってよかった、といまだに思える一冊」と述懐している。デビューから3年間は思うように売れず、メンバーはスタッフとミーティングを重ねた。ディレクターである宗清との「10万枚で終わるか、オリコン1位を目指すのか」という話し合いに、メンバーは「オリコン1位を目指す」という答えを出し、これを機にしてチャート向けな楽曲作りに路線変更する。1995年1月にリリースされた5thシングル『Love Communication』はヒット曲を意識して作られ、目論見通り自身初のオリコンシングルチャートTOP30入りを果たし、スマッシュヒットを記録。同年2月にリリースされた4thアルバム『smile』はオリコンアルバムチャート初登場4位を記録し、大幅に売上はアップした。このアルバムを引っさげ、同年4月に初の日本武道館公演を実施し、即日完売するなど順調に人気を上げていく。同年7月にリリースされた7thシングル『追憶のマーメイド』がシングル初のTOP20入り、同年9月にリリースされた8thシングル『太陽が燃えている』がシングル初のTOP10入り、イギリスでレコーディングされた5thアルバム『FOUR SEASONS』が念願のオリコン初登場1位を記録するなど、バンドの人気を確実なものとする。帰国後まもなく始まった、約2か月半で全国40箇所(43公演)を回るツアー「TOUR`95 FOR SEASON」では、トータル9万人を動員。1996年2月にリリースされた9thシングル『JAM/Tactics』が累計80万枚、同年7月にリリースされた10thシングル『SPARK』が累計55万枚を越えるヒットを記録。直後の同年7月に所属レコード会社である日本コロムビアを離れ、ファンハウス(現・アリオラジャパン)に移籍した。1996年12月に日本コロムビアからリリースされた非公認ベスト・アルバム『TRIAD YEARS actI〜THE VERY BEST OF THE YELLOW MONKEY』は、バンド唯一のミリオンセラーを記録した。ファンハウス移籍後は独自のロックを追求。吉井は6thアルバム『SICKS』の制作にあたり、「1日3曲録音をノルマ」とする。作成した300曲を80曲に絞り、さらに厳選したものを収録曲とした。吉井は当時の状況を振り返り、「自分の中で、音楽がものすごく噴出してるのがわかった」と語っている。『SICKS』は吉井自らが最高傑作と自負する作品となり、オリコン初登場1位、オリジナルアルバムでは自身最高の売上を記録した。11thシングル『楽園』、12thシングル『LOVE LOVE SHOW』、13thシングル『BURN』(累計90万枚)など、シングルにおいても、いずれも45万枚以上の高いセールスをキープ。14thシングル『球根』は、シングルでは自身唯一のオリコン初登場1位を記録するなど、この時期に最も安定した人気を保つことになる。1997年は精力的なライブ活動を行い、2月には、20公演を回る初のアリーナ・ツアー「FIX THE SICKS」を実施し、トータル15万人を動員。同年7月に「フジロック・フェスティバル'97」に参加(後述)。同年8月、全国5会場のスタジアムツアー「紫の炎」を実施し、4万人近いキャパシティを軒並みソールドアウトにした。1998年にリリースされた7thアルバム『PUNCH DRUNKARD』では、3作連続となるオリコン初登場1位を記録。ハードロック寄りとなり、ライブを強く意識したアルバムとなった。このアルバムを引っさげ、同年4月、ホール72本、アリーナ41本、計113本を1年かけて回る「PUNCH DRUNKARD TOUR」を実施。同年1月7日の読売新聞には、14thシングル『球根』と、アルバム『PUNCH DRUNKARD』のリリース情報とともに、全113本のツアー日程が全面広告で掲載された。3日に1回のペースでライブを行ったツアー以外の面でもメンバーは多忙を極め、ツアー中に計4枚のシングルをリリースし、それに伴うレコーディング・PV撮影・TV出演、同年7月にはイギリスでのライブを実施、翌年に公開された映画「Trancemission」の撮影、同年12月28日には「メカラ ウロコ・9」を行うなど、精力的に活動を行った。数々のアクシデントにも見舞われ、同年9月9日の香川県県民ホールのライブ終了後、過労によって倒れた吉井が病院へ運ばれる事態に。年始一発目の1999年1月9日には音響スタッフが奈落に落下して死亡するなど、メンバーにとっては精神的、体力的にもハードなツアーとなった。選曲の面でも吉井は苦悩し、前半のホールツアーは「洋楽志向のチャレンジ」として『PUNCH DRUNKARD』のアルバム曲が中心であったが、ツアーラストである1998年10月6日の岡山市市民会館で、吉井が「このツアーは失敗でした」と発言。後半のアリーナツアーからは「エンターテインメントに戻す」とし、アルバム曲を控えて過去のヒット曲を中心に演奏するようになった。吉井は後に、1999年3月10日に横浜アリーナで行われたファイナルを、「覚えてない。お客さんが見えていない」と語り、このツアーを「ひたすら打たれ続けてた感じ」と語っている。「PUNCH DRUNKARD TOUR」は延べ55万人を動員し、1年間の経済効果は、グッズ・チケット・CDなどの売上を合わせ、100億円以上になるという。このツアーのドキュメントとして、2013年9月28日に劇場版『パンドラ ザ・イエロー・モンキー PUNCH DRUNKARD TOUR THE MOVIE』が公開されている。「PUNCH DRUNKARD TOUR」終了後、吉井は休養期間にシングル候補曲を10曲制作した。さらにバンドサウンドを見直すためのミーティングが行われ、シングル作品に朝本浩文、森俊之、笹路正徳などの外部プロデューサーを導入する「コラボレーションシリーズ」を行う。吉井は「とにかくバンドを続けていくため、2000年はシングルを多くリリースする」という方針に決定。その理由として、「長期間休んだ後に良いものを作れる自信がなかった。バンドの色々なことを一つずつ直していきたかったから」と語っている。後に吉井は「そういう悪い状況で、自分の楽曲を他人に委ねる時点で終わっている」といった否定的な発言を多く残しているが、反面「このまま手癖で続けるわけにもいかず、30代、40代とバンドを続けていくために必要なことだったのも事実」とも語っている。またバンドの狙いとは裏腹に国内プロデューサー陣は「このままがいい」として、あまりバンドサウンドに変化をもたらす指示はしてもらえなかったという。8thアルバム『8』の楽曲のレコーディングのためにロンドンへ向かった際、当時メンバーが多忙だったこともあり、スタジオに吉井一人しかいないという状況が続く。メンバーとの温度差を感じ始めた吉井が帰国後、事務所に社長含む関係者を集め「俺をクビにしてくれ」と頼み込み、バンドへの不満を投げかけた。バンドは存続したが、「微妙な距離感が生まれた」と吉井は語っている。ただし、後にベースの廣瀬は、「俺をクビにしてくれ」という発言の直後に「そりゃねえだろ!」の突っ込みを自分が入れるなど雰囲気は決して暗いばかりではなかったと語っている。2000年7月にリリースされた22ndシングル『パール』、同年7月にリリースされた8thアルバム『8』は吉井セルフプロデュース作品となった。『8』のアルバムツアーは行われず、バンドは初となる国内ロックフェスに参加。しかし、そこでの吉井はノーメイクでジャージ姿という格好で出演。「はたから見ても異常、イエローモンキーを引き受けていない」状態であった。同年12月30日、「CDTV年越しプレミアライブ」に緊急生出演。吉井が「ツアーが終わったら、俺たちプー太郎になっちゃうけど・・・」とコメントした後、23rdシングル『BRILLIANT WORLD』を披露し番組のトリを飾る。これが実質THE YELLOW MONKEYとしての最後のTV出演となった。2001年1月8日に初の東京ドーム公演となる「メカラ ウロコ・8」を行う(詳細は後述)。初の大舞台にも関わらず、メンバーはステージ裏で円陣を組んだり会話をしたりすることもなく、淡々としていたという。吉井は「ドームの裏とは思えない。今振り返ると、それだけモンスターバンドだったんだなと思う」と語っている。結果的にこれが最後のライブとなった。2001年1月、「メカラ ウロコ・8」終了後にバンドを活動休止させ、メンバーはそれぞれソロ活動期間となる。ファンは活動再開を待ち望んだが、2004年7月7日に解散。吉井は「解散を伝えたその日に会って、近況を聞いてみたら、皆それぞれやりたいことがあって、バンドに戻れる状態じゃないと思った。各々好きな事をやりながら、年に一回アルバムを作ってライブをするという意見もあったけど、僕にとってこのバンドっていうのは、それじゃ駄目だった」「疲れもあるけど、メンバーがどうこうなんて言えない。バンドを解散させるのは辛いし、メンバーは最高だから、別れるのは寂しいし、心細いんだけど、とにかく解散は僕の我儘で、僕の責任」と語った。逆に、他のメンバーからは「吉井を追い込ませて、感情を吐き出させてやれなかった」「もっと力になってやりたかった」など、互いを擁護する発言が目立った。同年12月26日、東京ドームで開催された「THE EXHIBTION AND VIDEO FESTIVAL OF THE YELLOW MONKEY メカラウロコ・15」の最終日にメンバーが再集結し、9thシングル『JAM』を演奏した。会場中が合唱の中、吉井は「ずっと歌ってて下さい」と言い残し、メンバーは去った。実は去り際にマイクオフの状態で吉井が「ありがとう」と言っているが、会場にはほとんど聞こえていなかったため、物議を醸した。後に吉井は「マイク通して言うのは辛かった。“ありがとう”より“ごめんね”って言いたかった」「オフマイクで“ありがとう”って言って、終わらしたくない気持ちがまだ残ってるわけですよ。言ったらほんとに最後というか。だからもしかしたら僕の中でイエローモンキーは成仏してないのかもしれない」と語っている。『JAM』を演奏した後に「THE YELLOW MONKEYは終わりません」というMCを吉井自身も期待していたが、「バンドは完全に終わっているんだということを演奏しながら感じてしまった」という。活動終了後、各メンバーはソロミュージシャンとしての活動を開始。特にフロントマンの吉井は大規模なツアーを行うなど精力的に活動していた。イエローモンキーとしても、解散したバンドであるにも関わらず、新規に公式インターネットホームページが開設されたほか、ファン投票ベストアルバムの発売や自他共に最高傑作と評される6thアルバム『SICKS』のリマスター完全盤の発売、ライブDVDのリリースなどが行われた。また2013年に吉井は「来年から、普通じゃない野良犬に戻ります」を宣言しソロオールタイムベストの発売があったほか、2015年には古巣のTRIADレーベルに再移籍し、レアコレクションの発売があった。2016年1月4日、奇しくも申年となったこの年にTHE YELLOW MONKEYの新公式サイトに“Repus”と称した謎のカウントダウンティザー広告が表示され、1月8日がカウントダウンの期日となっていた。また、同じページには英字の暗号文章が記載されており、インターネット上では様々な憶測を呼んだ。そしてカウントダウン当日の1月8日午前0時、公式サイトにて再集結とともに全国ツアー、新ファンクラブ発足を発表。同年元旦より東京・JR渋谷駅前の東急百貨店壁面に「金色のさなぎ」の写真入りポスターが、1枚毎めくられる形で貼られており、8日の午前0時に再集結を知らせる告知が現れた。各種スポーツ新聞では号外が配られたほか、「イエモン、サル年に復活」が多くの誌面を飾った。ツアー初日の5月11日は、解散前最後の楽曲にして唯一シングル曲においてコンサート未披露状態にあった『プライマル。』の初演を1曲目としてスタートし(この曲は多数のテレビ、ラジオ、インターネットライブ放送局が生中継した)、さらに『楽園』『BURN』などのファンハウス時代のヒット作を中心に、2月にWeb公開した15年ぶりの最新曲『ALRIGHT』も含めた集大成公演であった。ツアー後半ではコアファン向けに『SICKS』の曲目を中心に一部セットリストを入れ替えている。吉井は「15年の間様々な事がありました。具体的にはおそ松くんがおそ松さんに変わりました」などと笑いを取る一方で「今日だけは素直に言わせて下さい。ただいま!」と復活の喜びをMCに込め、さらに「今後も継続して活動したいと思いますよ」「このTHE YELLOW MONKEYは生涯解散することはありません」とバンド活動の永続を宣言し、この発言の真意を8月に出演したNHK「SONGS」においても語っている。バンドの誕生日とも言える12月28日には、『メカラ ウロコ』と言う「昔のTHE YELLOW MONKEYに戻る」と言う趣旨の元、初期の楽曲をメインにしたライブを1996年 - 2001年(1997年、2000年を除く)にわたり4度行った。吉井曰く「忘年会も兼ねて」のイベントである。2部構成で行われ、第2部からは「メカラ ウロコ楽団」と呼ばれるオーケストラ団体と共に曲を演奏する。また、ライブの途中ではメンバーが「東京ブギウギ」の替え歌「おそそ・ブギウギ」を歌うのが恒例となっていた。これらとは別に2004年の解散イベントも『メカラ ウロコ・15』と銘打たれている。また、2009年12月22日に結成20周年記念としてフジテレビで放送された特番も『メカラ ウロコ・20』と釘打たれた。バンド解散後も吉井は2006年以降、毎年12月28日に日本武道館でライブを行うのが恒例となっている。ただし通常のライブツアーの一環として開催される場合が多く、『メカラ ウロコ』のタイトルは使われていない。バンドが再結成した2016年には16年ぶり(日本武道館では17年ぶり)のライブとなる『メカラ ウロコ・27』が開催。1997年7月24日、第1回目の「フジロック・フェスティバル'97」1日目に参加。当日は台風直撃により豪雨に見舞われた。海外のバンドであるレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンとレッド・ホット・チリ・ペッパーズに挟まれ、トリ前での登場というタイムテーブルであった。しかし、ヒット曲を控えたセットリスト(10曲中7曲がアルバム収録曲)と、前述の豪雨の影響もあり観客の反応は芳しくなく、吉井は自らの自伝で「自分たちとしてはフジ・ロックにふさわしい洋楽的な楽曲を並べて演奏したにもかかわらず、それが伝わらない厳しいライブだった」と回想している。また、「変な話、あのフジ・ロックの挫折感で、解散しちゃったようなもんだから。解散の理由の何%かは」と綴るなど、本人にとって厳しい経験となった。また、ロッキング・オンの渋谷陽一は、当時イエローモンキーが『ROCKIN'ON JAPAN』の邦楽アーティストの人気投票で1位だったことを踏まえ、「洋楽のユーザーにとって一番人気のあるバンドであり、それがウケなかったのはプレゼンテーションを間違えたということ」としている。また、その要因として「吉井くんの気負いと自意識だったのではないか」と分析している。一方、ギターの菊地は「そこまで失敗感はない」とし、「レッド・ホット・チリ・ペッパーズやフー・ファイターズがノリノリで聴いてくれたこともあり、非常に嬉しかった」と対照的な意見を述べている。当日のセットリストは以下の通り「JAM」のプロモーションビデオは吉井自らの監督で撮影された。次のシングル「SPARK」以降は「パール」と「プライマル。」を除く13曲のシングルで高橋栄樹が監督を務めた。高橋は、時間的な余裕と自由な表現を許容され、プロモーションビデオだけでなく映像作品「BLUE FILM」、ライブビデオ「RED TAPE」などを製作し、吉井から「イエローモンキーの第5のメンバー」と言わしめた。高橋は「LOVE LOVE SHOW」「BURN」を監督した1997年に「SPACE SHOWER Music Video Awards」ベストディレクター賞を受賞している。1988年1989年1990年1991年1992年1993年1994年1995年1996年1997年1998年1999年2000年2001年2004年2005年2009年2010年2012年2013年2015年2016年初日となる5月11日に国立代々木第一体育館で行われた公演では、「1曲目のみを複数メディアが生配信」という異例の形がとられた。その一曲目は解散前最後のシングルであり、シングル曲で唯一コンサート未演奏状態であった「プライマル。」であり、ファンを大いに沸かせた。2017年
出典:wikipedia
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