ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄である。『日本書紀』・『古事記』・『先代旧事本紀』とも、本の名は「ヲウス(オウス)」、亦の名は「ヤマトヲグナ(ヤマトオグナ)」で、のちに「ヤマトタケル」を称したとする。それぞれ表記は次の通り。「ヲウス(小碓)」の名称について『日本書紀』では、双子(大碓命・小碓尊)として生まれた際に、天皇が怪しんで臼(うす)に向かって叫んだことによるとする。「ヲグナ(童男/男具那)」は未婚の男子の意味。「ヤマトタケル」の名称は、川上梟帥(または熊曾建)の征討時に捧げられた(後述)。「尊」の用字は皇位継承者と目される人物に使用されるもので、『日本書紀』での表記は同書上でヤマトタケルがそのように位置づけられたことによる。その他の文献で見える表記は次の通り。なお、「武」・「建」の訓については「タケル」ではなく「タケ」とする説がある。その中で、「タケル」は野蛮を表現する語であり、尊号に用いられる言葉ではないと指摘される。父は第12代景行天皇。母は皇后の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ、針間之伊那毘能大郎女/稲日稚郎姫)。『古事記』では、針間之伊那毘能大郎女を若建吉備津日子(吉備臣らの祖)の娘とする。『日本書紀』・『先代旧事本紀』では第二皇子とし、同母兄は大碓皇子のみで双子の兄とする。『古事記』では第三皇子とし、同母兄を櫛角別王・大碓命(双子の記載はない)、同母弟を倭根子命・神櫛王とする。妻子は次の通り(「紀」は日本書紀、「記」は古事記を指す。「旧事本紀」は先代旧事本紀に見える事柄にのみ記載)。『古事記』では、倭建命の曾孫(ひひこ)の迦具漏比売命が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)を儲けるとするなど矛盾があり、このことから景行天皇とヤマトタケルの親子関係に否定的な説がある。また、各地へ征討に出る雄略天皇などと似た事績があることから、4世紀から7世紀ごろの数人のヤマトの英雄を統合した架空の人物という説もある。『古事記』と『日本書紀』の説話は、大筋は同じだが、主人公の性格や説話の捉え方や全体の雰囲気に大きな差がある。ここでは浪漫的要素が強く、主人公や父天皇の人間関係から来る悲劇性が濃い『古事記』の説話を中心に述べる。概ね、『日本書紀』の方が天皇賛美の傾向が強く、天皇に従属的である(『日本書紀』の説話は、『古事記』との相違点のみ逐一示す)。ヤマトタケルの墓は、宮内庁により次の3ヶ所に治定されている(能褒野墓に白鳥2陵を付属)。ヤマトタケルの埋葬について、『日本書紀』・『古事記』・『延喜式』に見える記述は次の通り。通常「陵」の字は天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓、「墓」の字はその他皇族の墓に使用されるが、『日本書紀』や『古事記』で「陵」と見えるのはヤマトタケルが天皇に準ずると位置づけられたことによる(現在は能褒野のみ「墓」の表記)。ヤマトタケルの実在性が低いこともあり、ヤマトタケルの墓はヤマトタケル伝説の創出に伴って創出されたとされる。確かな史料の上では、持統天皇5年(691年)において有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・彦五瀬命墓(紀伊)・五十瓊敷入彦命墓(和泉)・菟道稚郎子墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある。その後、大宝2年(702年)には「震倭建命墓。遣使祭之」と見え、鳴動(落雷、別説に地震)のあったヤマトタケルの墓(能褒野墓か)に使いが遣わされている。さらに『大宝令』官員令の別記(付属法令)には、伊勢国に借墓守3戸の設置が記されており、8世紀初頭には「能裒野墓」が諸陵司の管轄下にあったと見られている。その後、前述の『延喜式』では白鳥三陵のうち「能裒野墓」のみが記載され、10世紀前半頃までの管理・祭祀の継続が認められる。上記の記述の一方、後世には墓の所伝は失われ所在不明となった。能褒野墓・大和白鳥陵・河内白鳥陵それぞれに関して、治定されるに至った経緯は次の通り。『日本書紀』の日本武尊系譜によれば、ヤマトタケルは犬上君・武部君(稲依別王後裔)、讚岐綾君(武卵王後裔)、伊予別君(十城別王後裔)ら諸氏族の祖とされる。『古事記』の倭建命系譜によれば、ヤマトタケルは犬上君・建部君(稲依別王後裔)、讚岐綾君・伊勢之別・登袁之別・麻佐首・宮首之別(建貝児王後裔)、鎌倉之別・小津石代之別・漁田之別(足鏡別王後裔)ら諸氏族の祖とされる。『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。なお、『日本書紀』景行天皇40年条では日本武尊のため「武部(たけるべ)」を定めると見え、これを基に建部(武部)をヤマトタケルの名代部とする説もあったが、事実としては名代部ではなく軍事的職業部であったとされる。ヤマトタケルの物語は、吉井巌が指摘したように、主人公の名前が各場面で変わるのが特徴である。また、説話ごとに相手役の女性も異なる。加えて系図も非常に長大で、その人物や説話の形成には様々な氏族や時代の要請が関連したとわかる。ヤマトタケルは、建部大社(滋賀県大津市)や、白鳥と化したヤマトタケルが最後に降り立った地に建てられたとされる大鳥大社(大阪府堺市西区)の主祭神として祀られる。どちらもその国の一宮とされる。なお、大鳥神社(鷲神社)は各地にあり、大鳥大社はその本社とされる。注釈原典出典
出典:wikipedia
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