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長尾景広

長尾景広(ながお かげひろ)長尾 景広(ながお かげひろ、生没年不詳)は南北朝時代の人物。長尾氏の一族で、長尾氏春(景雄)の子。上総国佐貫を領する佐貫長尾家(千秋長尾家)の当主と記録されているが、上杉禅秀の乱以降の動向は不明。長尾 景広(ながお かげひろ)は白井長尾氏当主で八崎城主。後北条氏家臣。初めは北条氏政より偏諱を受けて政景と名乗った。天正10年(1582年)、兄輝景の命によって相模北条氏の人質として小田原城に入る。3年後に帰国するも重臣である牧氏の居城田留城を所望する。輝景と牧氏はこれを拒むが、政景は親北条派の重臣達の支持を受けて独断で牧氏一族を滅ぼして田留城を奪取、天正17年(1589年)には兄を隠居させて家督を奪ったとされる(ただし、近年ではこれを単なる伝承として、天正17年以後も引き続き輝景が白井長尾氏当主であったとして、景広の継承を越後上杉氏家臣時代とする説もある)。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の後に白井長尾家は没落。一時期は加賀前田氏の元に預けられるが、その後すぐに、兄と共に同族・上田長尾家出身の上杉景勝に仕えた。兄の死後に継承分を併せて1,000石を領する。但し『三百藩家臣人名事典 1』では田中三九郎の陣代として田中権四郎を称し、60石の馬廻組として仕えていたが、後に景勝の命で長尾氏に復姓、侍組となり1,000石を領するとしている。大坂冬の陣にも参戦し、前備を勤めた。元和元年(1615年)には侍頭となり、1,000石加増される。出羽山形藩最上氏改易の際には山形城の接取と警護を担当した。寛永3年(1626年)に辞職し、同7年死去。

出典:wikipedia

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