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からくり

からくりとは、日本における古い時代の機械的仕組みのこと。漢字では絡繰、唐繰、機巧、機関などさまざまに表記される。からくりが文化的に開花したのは江戸時代で、その独自性によって国際的にも注目されている。欧米のオートマタ(歴史的な自動装置・自動人形)研究においても、日本語のまま「karakuri」とローマ字表記されるようになった。語源については、「糸を引っ張って動かす」という意味の「からくる」という動詞の連用形の名詞化といわれ、16世紀後半頃から用例が確認されている。日本のからくりについての記録は、『日本書紀』の斉明天皇4年(658年)に見られる指南車が最古のもので、この指南車についてはこれより古く『三国志』にも記述がある。これは台車の上に立つ人形が車輪の差動を利用し、車がどの方向に進んでも常に南の方向を指し示すというものである。平安末期の『今昔物語集』巻第二十四には、桓武天皇の皇子高陽親王(賀陽親王)がからくり人形を作ったという説話が記載されている。また巻二十四第五には「飛騨工」(ひだのたくみ)が絵師百済河成を驚かせるため、四方に扉がある堂を作り、いずれの扉の前に立っても目の前の扉は閉じ違う場所の扉が開く仕掛けを作った説話も記載されている。日本のからくりが文化的に開花したのは戦国時代に入ってきた西洋技術、とくに機械時計によるところが大きい。17世紀頃から機械時計に使われていた歯車やカムなどの技術を、人形を動かす装置として応用したからくり人形が作られ始めた。当初は公家や大名、豪商などの高級玩具であったが、祭礼や縁日などの見世物として一般の目に触れると人気を呼ぶようになり日本各地に普及し、専門の職人も現れ非常に精巧なものが作られるようになった。元和6年(1620年)には、名古屋東照宮祭の山車に初めて牛若弁慶のからくり人形が載せられ、中京圏を中心としてからくり人形を載せた祭礼の山車が広範に普及することになる。ちなみにからくり人形の大衆化に関しては、寛文2年(1662年)に大坂の道頓堀でからくり芝居を興行し大当たりを取った初代竹田近江の功績が大きい。この竹田近江によるからくりの興行は「竹田からくり」と称され、その後約百年にわたって代々からくり興行を続け、からくりの一大ブランドとなった。また18世紀初めの享保年間には、彦根藩藩士の平石久平次時光によって新製陸舟車という三輪自転車に相当する乗り物が発明された。寛政9年(1796年)には、細川半蔵の著書『機巧図彙』(からくりずい)が出版されている。19世紀には、筑波の「からくり伊賀」こと飯塚伊賀七が人力飛行機や道を歩いて酒を買いに行くからくり人形を作ったとされる。幕末には加賀の平賀源内と称された大野弁吉が空気銃や蒸気船の模型、写真機を作った。石川県には、もとは茶運び人形として作る設計を流用したと見られる弁吉作という三番叟の人形が確認されている。現在では、峰崎十五が田中久重の「弓曳童子」や大野弁吉の「エレキテル」および「無尽灯」などの修理と復元、九代目玉屋庄兵衛が「弓曳童子」や京都祇園祭の山である「蟷螂山」の復元、東野進が「文字書き人形」を、後藤大秀が大垣祭の「相生山」や大津祭の「竜門滝山」を復元する等、数名が各地で活躍している。座敷からくりの代表作。お茶を入れた茶碗を人形が持った茶托に乗せるとお客のいる所までお茶を運び、客が茶碗を取ると停止する。お茶を運ぶ距離は予めセットする。客が茶を飲み、空になった茶碗を茶托に戻すと、踵を返して茶碗を元の場所まで運ぶ。ぜんまいと歯車、カム、棒てんぷでその動きを制御する。現在良く知られる茶運び人形は細川半蔵著の『機巧図彙』から復元されたものである。ただし現在各地に残る茶運び人形は機構上、『機巧図彙』で解説されるものとは異なるところがあり、『機巧図彙』に沿って制作された江戸時代のものは確認されていない。昭和57年(1982年)には日本模型からプラスチック製の茶運び人形が発売された。平成14年(2002年)11月には「学研の大人の科学シリーズVol.8」で発売され、平成19年(2007年)6月29日に発売された大人の科学Vol.16ではミニ茶運び人形が付録についた。現存するオリジナルは2体で、いずれも田中久重の製作。人形が矢立てから矢を取り、弓にセットして的に当てる座敷からくり。人形の動作はぜんまいとカム、レバー、糸によって制御され、自動的に4本の矢を射ることができる。「田中久重によって、そのうち1本は的を外すように細工してある」との説明が一般に広まっているが、これは誤り。実際には、人形を修復した際に付属している矢をすべて新しく作りなおしており、「新しく作った矢のうち1本が、たまたまうまく飛ばない」というのが事実。ちなみに、人形が座っている台座部分に取り付けられている小さな唐子(中国風の衣装を着た人形)と、唐子が回すハンドルの機構も、修復前のオリジナルには存在しなかった。この部分は修復の依頼者の意向により、新たに取り付けられたもの。弓曳童子は、文字書き人形と並んで江戸からくりの最高傑作のひとつと言われている。東野進が、平成2年(1990年)に徳川家から1体を発見し、平成3年(1991年)に伏見の前川家からもう1体を発見し、峰崎十五によって修復・復元された。現在、徳川家旧蔵の弓曳童子は産業技術記念館に、前川家旧蔵の弓曳童子は久留米市教育委員会(田中久重の故郷)に所蔵されている。同じ動きをする組立て模型キットが学研より発売されている。平成25年(2013年)機械遺産61号に認定された。発見されているオリジナルは2体。1体はアメリカで発見された。平成3年(1991年)、アメリカの研究家から日本の研究家に、アメリカのコレクターが所有しているとの情報がもたらされたが、そのコレクターは、江戸時代の文字書き人形に関する知識は持っていなかった。そこで日本の研究家からアメリカの研究家に、江戸時代のからくり人形に関する資料が逐次提供され、そのコレクターの理解と信頼を長年かけて獲得。平成14年(2002年)、人形売却の同意が取り付けられた。広く買い手が募られた結果、平成16年(2004年)に日本人が購入した。この人形の製作に関する具体的な資料は見つかっていないが、台座を覆う衝立の模様が田中久重作の弓曳童子の台座の衝立と一致しており、久重作と推定されている。日本に持ち帰られた人形は、新しい所有者によって動かなかった機構が修理されると同時に、人形の顔や手が完全に塗り直され、衣装が新調され、さらに、台座の機構にはそれまでなかった装置が組み込まれ、翌年の愛・地球博で展示された。現在東野進が所有する。もう1体は右手と口に咥えた筆で「松」「竹」の二文字を同時に書ける文字書き人形で、平成21年(2009年)に安城市内の古民家から発見された。現在は安城市指定有形民俗文化財に指定され、安城市歴史博物館に所蔵されている。また九代目玉屋庄兵衛により複製品が製作され、同博物館に所蔵されている。京都・錦市場東端の錦天満宮にある。人が近づくと神楽が鳴り出して機械仕掛けの獅子舞がはじまり、硬貨を投入して御籤(みくじ)の種類(英文、和英対訳、子供用など6種類)を選ぶと、神楽に合わせて獅子が舞いながら御籤を届ける仕掛けが人気。

出典:wikipedia

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