塩谷氏(しおやし)は、日本の氏族。宇多源氏の塩冶氏(えんやし)とは別である。塩谷荘を支配したと伝わる清和源氏の一族。塩谷氏の系譜や伝承・軍記物にみられ、かつては伝説の存在とされたが、現在では存在していた可能性が高いと推定される。ただし存在を裏付ける確実な同時代史料は存在していない。『矢板市史』によれば、源義親の子である堀江頼純が、父のために流罪となり、大治5年(1130年)頃に下野国塩谷郡に下り塩谷荘司として塩谷姓を名乗ったのが始まりと伝わる。なお系図の所伝では、「喜連川塩谷系図」は義親の討伐後に頼純が下野へ流罪となり孫の惟頼が塩谷少将を名乗ったという所伝を記載し、一方「秋田塩谷系譜」は、堀江頼純が大治5年に塩谷荘司として塩谷姓を名乗ったとする。塩谷荘33郷3万8千町を支配した。居城は『堀江山城』と『御前原城』の両説がある。しかし、御前原城の築城年代には二説あり、一説は、築城者とされる塩谷頼純が存命しない治承寿永年間(1177年~1183年。間に養和の年号あり)の築城とする説であり矛盾があるため、この点において、もう一説の正安4年(1315年)説が有力とされており、この場合、堀江氏の時代には、御前原城は存在していないことになる。しかも、仮に治承寿永年間の御前原築城の年代が正しかったとしても、塩谷氏は、その半世紀も前から塩谷郡を支配しており、当然、御前原築城以前の居城があったはずで、少なくとも御前原城は、塩谷氏の最初の居城とはなりえず、この点からも塩谷氏の居城は、堀江山城とするのが有力とされている。一方、堀江山城説では、のちに御前原城となる旧塩谷郡衙に塩谷頼純が滞在した後、堀江山城を築いて移り、5代の間、堀江山にあったとする。堀江山の名前も、堀江氏の堀江山城居城説の有力な根拠のひとつとなっている。菩提寺は、奉り墓として寺山観音寺、埋め墓として六房寺の両墓制であったと言われているが定かではない。5代目朝義に子が無かったため、宇都宮業綱の次男竹千代(朝業)を養子に迎え家督を相続させ、源姓塩谷氏の時代は終焉する。しかし、本家では源姓塩谷氏は断絶したが、その血統は、塩谷惟純の次男惟広の子孫によって維持された。同じ塩谷郡の喜連川の大蔵ヶ崎城を中心に三千町の領地を支配し、源姓塩谷氏の血統を守り、惟広は治承・寿永の乱(源平合戦)に参戦して戦功を挙げ、鎌倉幕府に源姓塩谷氏の地位を確立していくが、その子惟守が和田合戦において、和田義盛に同調して討死すると、喜連川塩谷氏は鎌倉において地位を失い、その勢力が大きく衰退する。そして、惟守の甥である4代惟縄の時、惟縄に嗣子がなかった事から、藤姓塩谷氏から塩谷忠朝を婿養子に迎えて家督を継がせる事になり、ここに惟広の子孫により辛うじて守られてきた源姓塩谷氏の血統も断絶し、源姓塩谷氏は完全に途絶えた。源姓塩谷氏の最後の当主・朝義の養子となった竹千代が元服して朝業と名乗り、家督を継いだことで藤姓塩谷氏の歴史が始まる(「秋田塩谷系譜」)。朝業は婿として養子になったとも伝わる(「喜連川塩谷系譜」)。藤姓とは、朝業の実家である宇都宮氏が藤原氏の出自であったためである。朝業は、堀江山城の山続きの北側500mほどの山頂に新たに川崎城を築き居城とする。菩提寺は長興寺。藤姓塩谷氏は、約260年~300年間に渡り続くが、応永30年(1423年)8月9日、教綱の時、関東公方足利持氏と結び、宇都宮氏に謀反。時の宇都宮当主、宇都宮持綱を自領の幸岡原に狩りに招いて殺害。この35年後の長禄2年(1458年)5月8日、今度は教綱が、和睦を口実に宇都宮城に招かれたところを殺害され、藤姓塩谷氏は衰退する(5月13日に宇都宮城からの帰りの氏家で討たれたと記す文献もあり)。教綱殺害により、藤姓塩谷氏時代が終焉するが、その経緯には2説がある。教綱の死で藤姓塩谷氏が断絶し、宇都宮正綱の四男弥五郎が名跡を継いで宇都宮氏の影響下に入ったとする説(『下野国誌』所収「塩谷系図」)と、教綱の子に隆綱があって文明10年(1478年)正月18日に塩谷弥五郎を養子に迎え家督を継がせたという説(「秋田塩谷系譜」)である。後者の説では、この養子関係に拠って宇都宮氏と塩谷氏は和睦したという。孝綱は藤姓塩谷氏と同族の宇都宮氏嫡流の出身なので、藤姓であることには変わりないが(ただし孝綱の父の正綱は芳賀氏(清原姓)からの養子)、それ以前と区別して重興塩谷氏(再興塩谷氏)などと呼ばれる。「秋田塩谷系譜」では、義孝と義綱の間に時綱、冬綱、通綱という3人の当主がいたとする。但し、後世において、功績のあった塩谷氏の一族の者に当主の地位を追贈した可能性もあるので、完全に架空の存在であるとも言い切れない。また、義通については、義綱が家督を継いだのは天正2年(1574年)11月のことであり、義孝の死去から10年のブランクがあるため、正室の子である義綱が元服するまでの間、繋ぎ的に塩谷氏の当主であった可能性も指摘されている。一説では、時綱が義孝の弟で、結城晴朝と戦って討死した乙畑孫四郎こと塩谷義尾(没年が同じ永禄二年(1559年))、冬綱が孝信、通綱が義通とも言われている。塩谷氏は、重興塩谷氏の時代に入り、永禄7年(1564年)10月7日に、義孝が弟の孝信に殺害され川崎城を奪われて以降内紛が続き、天正18年(1590年)には、家臣の岡本正親に独立されるなど衰退していく。そして、文禄4年(1595年)2月8日、塩谷義綱には豊臣秀吉により改易が言い渡される。系譜に理由の記載は無いが、この2年後に本家である宇都宮氏も改易された事実とあわせて考えると、豊臣政権内の政争に巻き込まれたものと考えられているが定かではない。また、塩谷氏については、小田原征伐の際、直接参陣しなかったために改易されたとする見解もあるが、義綱は、天正17年(1589年)6月29日に上洛して秀吉に恭順の意を表しており、小田原征伐では、名代として家臣の岡本正親を派遣していることから、この時に改易になったとは考え難い。文禄4年(1595年)に改易されたが、捨扶持として1000石が義綱に安堵された。しかし義綱はこれを捨て出奔し、義綱庶兄の義通が岡本正親の甥であり娘婿である関係からこの1000石を継いだという。そして義通の跡は次男・塩谷惣十郎が家督を継いだ。しかし、その保真は、正保元年(1644年)3月10日、甥の岡本義政の謀略により殺害(泉騒動)され、この騒動の結果、岡本義政とともに野州塩谷氏は改易となる。その後、保真の三男保正が桜田御殿(徳川綱重)に仕え、のちに30俵扶持の幕臣となり、義通流の塩谷氏の命脈を細々ながら保った。また、子孫には、日田の名代官塩谷大四郎(正義)を輩出している。義綱は、改易となった後、慶長2年(1597年)正月2日より常陸国の佐竹義宣に仕え、慶長7年(1602年)に佐竹氏が出羽国に転封となると、これに従い、出羽国平鹿郡横手に移り十二所城代を務め、子孫は、佐竹氏の家老職などを務める。しかし、その最後の当主である温綱に子が無かったため、直系は明治時代に断絶する。武蔵七党の一角を占める児玉党の本宗家3代目児玉武蔵権守家行(有道姓)の次男、児玉二郎家遠(後の塩谷平太夫家遠)が、武蔵国児玉郡塩谷郷若泉庄の塩谷(現在の埼玉県本庄市児玉町塩谷)の地を父から与えられ、子孫が土着して塩谷(しおや)を名乗った事から始まる(児玉党を構成する氏族)。従って、藤原姓とあるが本来の初姓は有道姓であり、12世紀中には塩谷を名乗っていたものと見られる。児玉党系塩谷氏の活躍については、『源平盛衰記』などの資料に見られる。児玉町には、源義経の居所を児玉党系塩谷氏が真下基行と共に襲撃したとの旧家の伝書もある。『武蔵七党系図』では、嫡流を、家遠→経遠→経光(児玉二郎)としている(複数系図が存在している為、断定はできない)。また、家遠の子、塩谷五郎維弘は、一ノ谷の戦いに参戦し、奥州合戦にて戦死し、維弘の子、三郎維盛とその子である六郎維光は、共に建暦3年(1213年)5月2日の和田合戦時に討死にしたと伝えられている(『武蔵国児玉郡誌』)。『塩谷系図』によると、家遠の子、家経(民部大夫)は、承久の乱の時、宇治川で死去したとあり、年齢は71だったとある。その子息である家朝(通称太郎、右衛門尉)は、寛喜年間に死去したと記述されている。なお、児玉党系塩谷氏は伊勢国と安芸国の所領を得たが、本貫地である児玉郡塩谷郷は室町時代には安保氏(丹党の一氏族)の所領となっている。児玉党系塩谷氏は、児玉氏と同様に安芸国へ地頭として移住した者がいたと見られており、当国の能美島の地頭として、文書に記述されている。児玉氏と同様に瀬戸内に出没する海賊や悪党を取り締まっていたものと考えられる。家遠の兄である家弘(児玉党本宗家4代目)は児玉郡の栗崎の地へ行き、庄氏を名乗り、弟の親家は富田の地へ土着して富田氏を名乗った。遵って、児玉党系塩谷氏は、庄氏・富田氏と同族である。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。