イルクーツク(ロシア語:、英語:Irkutsk)は、ロシアのシベリア地方(北緯52°17′、東経104°16′)に位置する都市で、イルクーツク州の州都。人口は約59万人。首都モスクワからはシベリア鉄道で繋がっており、ロシア極東地域とウラル・中央アジアを繋ぐシベリア東部の工商および交通の要衝である。ロシア正教会の大主教座が置かれ、劇場、オペラ座などの文化施設も充実する。これらの公共建築にはシベリアに抑留された日本人によって建てられたものも多い。しかし、現在では在留日本人は僅少。また、「シベリアのパリ」と呼ばれることもある。街はバイカル湖西岸内陸にあたり、イルクート川とバイカル湖から流れ出るアンガラ川(どちらもエニセイ川の支流)の合流地点の右岸に位置する。1652年にコサックの一隊が毛皮をとるためにアンガラ川の河畔に設けた宿営地を起原とし、1686年に市としての勅許を得た。古くから毛皮の集積地、中国の清やタシュケントとの国境交易の基地として使われてきた。18世紀末に、イルクーツクに一時滞在した日本人・大黒屋光太夫は、中国、朝鮮・満州などの人が交易におとずれ繁華な土地であると述べている。また、ロシア中央から囚人や政治犯の送られる流刑地でもあり、1825年にはデカブリストの乱を起こした貴族たちはイルクーツクに流された。1863年にはポーランド立憲王国で反ロシア蜂起(「一月蜂起」)が起き、蜂起の参加者たちがイルクーツクに流された。市内にあるゴシック様式のレンガ造りの教会は流刑にあったポーランド人たちが建設したカトリック教会である。シベリアへのキリスト教宣教の拠点でもあり、イルクーツクのインノケンティは、正教会では「イルクーツクの奇跡者聖インノケンティ」として聖人とされる。1898年にはシベリア鉄道がイルクーツクまで開通し、1904年にウラジオストクまで延伸された。日本との関係も深く、最初にロシアを訪れた日本人である伝兵衛が1701年にイルクーツクに滞在したのを皮切りに、多くの漂流者がこの地に永住し、前述のとおり、大黒屋光太夫もこの街に往路・復路ともに滞在している。1705年伝兵衛を教師としてサンクトペテルブルクに創設されたロシア最古の日本語学校が1753年イルクーツクに移設され、日本から漂流し、ロシアに帰化した者たちが教鞭をとっていた。第二次世界大戦後は、日本人の抑留地のひとつとなり、抑留者による労働で建設された建物が残る。また、イルクーツク市は1967年3月20日以来、石川県金沢市と姉妹都市協定を結んでいる。そのため、市内には「金沢通り」という名前(ロシア語と日本語表記とが看板で併記)の通りがある。大陸性気候、ケッペンの気候区分では亜寒帯冬季少雨気候に属し、1月の月平均気温が-17.8℃と寒いが極東のハバロフスク(-19.8度)等よりは高く、また近隣のバイカル湖東岸のウラン・ウデ(−23.3度)に比べるとはるかに温暖である。7月の月平均気温は18.3℃で30度を超える日も珍しくない。近年温暖化が顕著であり、1971年~2000年平年値より1月は2.2℃(-20.0℃)も上昇した。過去最高気温は1915年7月の37.2度、過去最低気温は1915年1月の-49.7度である。市の中心部分(旧市街)はアンガラ川の右岸(東側)にあり、そこからアンガラ川を跨ぐ橋を通り対岸にシベリア鉄道のイルクーツク駅がある。市内はバス、路面電車(イルクーツク市電)、タクシーなどが利用できる。主要道路にはシベリア横断道路がアンガラ川左岸にあり、東へはチタまでがM55幹線道路、西へはノヴォシビルスクまでがM53幹線道路と呼ばれている。また、アンガラ川の舟運も利用でき、下流へはブラーツクまで、上流はリストヴィアンカを経てバイカル湖上の各地へ通じている。空港はイルクーツク国際空港がある。市街地と空港の間にはトロリーバス4号線が運行されている。次のような大学がある。
出典:wikipedia
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