李 公蘊(り こううん、リ・コン・ウアン、;974年3月8日―1028年3月31日)字は兆衍,ベトナム李朝の初代皇帝。1009年から1028年にかけ在位。元号は順天、廟号は李太祖(リ・タイ・ト、)、諡は神武皇帝()。死後、寿陵に葬られた。『大越史記全書』などのベトナムの史書によれば、李公蘊は北江古法州亭榜村(現在のバクニン省トゥーソン県)の出身で、現在の亭榜村には李氏の墳墓と家祠が残されている。ただし、ベトナムの史書に李公蘊の出生時の詳しい状況を明確に記したものはない。ベトナムの民間伝承によれば、李公蘊には父親がなく、母の范氏が蕉山に遊んだ折、夢の中で神と交わった。そののちに李公蘊を生んだという。李公蘊が3歳の時、范氏は彼を古法寺の法師・李慶文の養子とした。ベトナムの正史『大越史記全書』には李公蘊が即位した折、父に顕慶王の追号をしたとの記録がわずかにあるが、実父に関するそれ以上の記載はない。現在の中国の学者の考察によれば、李公蘊は中国泉州の閩南民系であるという。北宋の学者沈括が記した『』の記載によれば、李公蘊は福建人とされている。泉州晋江安海鎮で発見された『李荘暦内李氏房譜』による李氏の家系に関する記載によれば、李公蘊は李淳安の次子で、幼時に李淳安に従って泉州を離れ、安南(ベトナム)に移住した。ただ長兄李公澡のみは安海に残り、その地の李氏の始祖となった。華人研究所の李天錫教授は、『宋史』と『元史』の記載を考証した上で、李公蘊とのちの陳朝初代皇帝陳煚は泉州安海の閩南民系であるとする。このほか、ある学者は李公蘊は唐の太宗の子・曹王李明の後裔との説を立てている。李公蘊は聡明にして学問を好み、その器は気宇壮大であった。幼いころから六祖寺に学んだが、僧のは李公蘊の非凡ぶりを見抜き、いずれ名君として立つものと予感する。李公蘊は長ずるに及んで経済や歴史を学び、やがて当時ベトナムを治めていた前黎朝に出仕し、殿前軍として使える。李公蘊は前黎朝の初代皇帝黎桓の娘を娶り、黎の姓を賜る。黎桓の死後、中宗が即位するものの、ほどなくして弟の黎龍鋌に殺害され、皇位は簒奪される。群臣がみな恐れて四散逃亡するなか、ただ李公蘊のみは帝の遺体を抱いて慟哭していた。黎龍鋌はその忠義ぶりに感心し、李公蘊を四廂軍副指揮使、さらに左親衛殿前指揮使に任命する。黎龍鋌は痔を患い臥したままで政務を執ったため、「臥朝帝」と綽名されたが、暴虐で過酷な統治に人心は離反した。そんな折、古法州延蘊郷にある木棉の木が裂け、中から一行の詩が現れる。僧の万行は、「十八子」とはすなわち「李」であり、黎氏が滅んで李氏による国は興るとの寓意が込められたものと解した。万行はその「李氏」こそ李公蘊であり、彼が英邁なる君主として即位すると推察した。李公蘊は臥朝帝に害されることを恐れ、万行の手引きで蕉山に隠れた。一方、臥朝帝は詩の寓意を知って李姓の大臣を誅殺するものの、帝の信頼篤い李公蘊のみは免れることができた。この事件ののち、李公蘊は皇位簒奪の野心を抱くようになる。1009年、臥朝皇帝こと黎龍鋌は崩御する。皇太子の黎龍乍は10歳と幼く、臥朝帝の2人の弟・黎明昶と黎明提(黎龍鍉)は皇位をめぐって争う。時に左親衛殿前指揮使に任じられていた李公蘊と右殿前指揮使の阮低はそれぞれ500の兵を率い、護衛の名目で宮中に侵入する。その折、家臣の祗候と陶甘沐は李公蘊に対して即位を勧める。これを受けた李公蘊は「陰謀」とみなして2人を逮捕するものの、最終的にその意を受ける。陶甘沐と万行の策略の元で、李公蘊は兵を率いて黎明昶と黎明提を討って皇位を簒奪した。そして姓を黎から李に復し、李朝を興した。翌年には元号を順天とし、奉天至理応運自在聖明龍見睿文英武崇仁広孝天下太平欽明光宅章明万邦顕応符感威震藩蛮睿謀神功聖治則天道政皇帝()の尊号を称した。また、父に顕慶王と追号し、生母を明徳太后とした。李公蘊は即位後まもなく、都を山間部の華閭(ホアルー)から紅河デルタの大羅城に遷した。史書『大越史記全書』によれば、李公蘊が船で大羅城に至った折、忽然として船の傍らに黄龍が現れた。群臣はこれを大いなる吉兆とみなし、李公蘊は大羅城を昇龍(タンロン)と改名した。この昇龍こそ、現在に続くベトナムの首都ハノイである。李公蘊は大規模な宮殿を築き、故郷の古法州を天徳府、北江を天徳江、古都・華閭は長安府と改名した。また天徳府に宗廟を築いた。これが李八帝廟である。前黎朝は暴虐な軍事統治で刑法は残酷であり、民衆には不満が鬱積していた。李公蘊は即位後に、前黎朝で用いられた残酷な処刑具や拷問具を焼却処分し、民心をつかんだ。1013年には田地、山野、塩田、象牙や香料など各産物に関する税制を定めた。李公蘊は即位後に前黎朝の侵略政策を改め、外交には和平をもって当たった。臥朝帝によって俘虜にされたムオン族は解き放って故郷に帰した。1010年、李公蘊は北宋に冊封の使者を送った。時の北宋皇帝真宗は李公蘊を交趾郡王領に封じた。この後、李公蘊は幾度も北宋に使者を送った。1016年、李公蘊は北宋より南平王に封じられた。前黎朝の時代にベトナム全土は10道に分けられ、各道は兵を擁した武将に管理されていた。李公蘊は即位後に全土を24路に編成しなおし、路の下に州、府、郷、社などの行政機構を設置した。これは中華世界の制度の模倣である。それぞれの「路」の長は、中央から派遣された文官である。また、ムオン族の居住地である、(現在のゲアン省)には「寨」を設置し、「内地」とは異なる軍事統治を布いた。これはムオン族が朝廷に反抗的だったためである。李公蘊はムオン族の反抗には容赦がなかった。1011年、李公蘊は兵を率いて莒隆におけるムオン族の乱を平定し、首領の首を挙げ、村を焼き払った。このとき、李公蘊は各地に冊封した王子たちに長期間従軍させた。。李公蘊は仏僧に教育を受けた関係で、仏教を篤く信仰していた。そして在位期間に仏教を奨励したことで、僧侶の社会的地位は高まった。李公蘊の即位に功のあった万行は国師として国政を掌握した。しかし仏教奨励の影響で、国政に参与しない僧までもが広大な封地を手にするようになった。李公蘊が築いた都・昇龍の場外には多くの寺院が立ち並んだ。官人は寺院に多額の布施を贈り、大鐘を鋳造させた。仏教の隆盛に伴い、自ら剃髪するものが増えたため、1019年に李公蘊は全国の民衆に詔して、正式な得度を定めた。北宋に遣わされた使節は、その都度大量の三蔵教をもって帰国した。1028年、李公蘊は昇龍の龍安殿にて崩御した。群臣たちはこぞって皇太子李仏瑪の元を訪れて即位への準備を勧めた。このとき、仏瑪の3人の弟、東征王、翊聖王、武徳王はそれぞれ兵を率いて慶福門に潜み、仏瑪を刺殺するべく機会を伺っていた。しかし仏瑪は祥符門から宮中に向かったため、幸運にも逃れることができた。のちに3王子の企みを知った仏瑪は黎奉曉に命じて彼らを討ち、あるいは捕えさせた。こうして仏瑪は即位を果たした(李太宗)。6人6男13女
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。