森福 允彦(もりふく まさひこ、1986年7月29日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(投手)。愛知県豊橋市出身。愛知県豊橋市に生まれ、豊橋市立栄小学校1年生時に花田フレンズで軟式野球を始めた。小学校6年生時に豊橋選抜の投手として全国制覇。中学校では豊橋スカイラークスで硬式野球を始めた。豊川高等学校進学後は高校2年、3年ともに夏の愛知大会で2年連続準優勝。高校2年時には56イニング自責点ゼロの記録を樹立。これは工藤公康の愛知大会記録を更新するもので、当時は「三河のドクターK」として話題になった。準決勝では山内壮馬、長谷部康平を擁する杜若高校にも完封勝利した。しかし決勝では堂上剛裕、丸山貴史を擁する愛工大名電高校に0-3で敗れた。2005年にシダックスに入社し、3月に行なわれた東京スポニチ大会で好投して新人賞を受賞、武田勝と並んでシダックスの主力投手の1人となり、第76回都市対抗野球大会・第32回社会人野球日本選手権大会出場の原動力となる。2006年は、都市対抗野球東京2次予選では明治安田生命を相手に打ち込まれて予選敗退を喫し、JR東日本の補強選手として第77回都市対抗野球大会に出場。堀井哲也監督の指導の下でクローザーを務め、JR東日本のベスト4進出に貢献した。その後シダックスの廃部が決まり、日本選手権関東2次予選では東芝を相手に先発したものの集中打を浴びて敗戦。シダックスはこの試合の敗戦をもって活動を停止したため、シダックス最後の試合で先発した投手となった。シダックスの廃部に伴う特例で高卒二年目ながらドラフト対象選手となり、ドラフト指名されなければJR東日本への移籍が決まっていたが、2006年大学生・社会人ドラフトで福岡ソフトバンクホークスに4巡目指名を受けて入団。3月31日に一軍昇格し、同日の対千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)の9回6点リードの場面からプロ初登板。塀内久雄、橋本将を連続三振で抑え、青野毅に二塁打、早川大輔に四球を与えたものの西岡剛を三振に打ち取り無失点でのデビューだった。4月10日の対ロッテ戦、本拠地福岡 Yahoo! JAPANドームデビューの試合も9回12点リードから1回を無失点、4月11日北九州市民球場で行われた対ロッテ戦では9回4点ビハインド二死満塁からマット・ワトソンをファーストゴロに打ち取る。以降4月12日の対ロッテ戦から3点差以内のビハインドで3試合連続で好投、この6試合を無失点とした。4月21日対北海道日本ハムファイターズ戦で6回1点リードから初めてのホールド機会で登板、稲葉篤紀に死球を与えると、バントした小田智之をキャッチャーフライに打ち取る。ここで捕手が田上秀則から山崎勝己に変更され、右打者の小谷野栄一にヒットを打たれ一死一二塁で降板、しかし代わった佐藤誠が鶴岡慎也に同点タイムリーを打たれ、ホールドとはならなかった。その後登板機会が無く、5月3日に二軍での再調整を言い渡された。7月11日に再昇格したが、出番無く7月28日に降格となった。一軍では7試合登板で佐藤によって付けられた自責1のみ、防御率1.50でシーズンを終えた。開幕を一軍で迎え、3月29日から3点差以上の場面で6試合登板したものの与四球、被安打ともにかさみ、5月2日に再調整で二軍降格となった。ウエスタン・リーグでは5月14日の対中日ドラゴンズ戦を境に約2ヶ月間の公式戦欠場が続き、7月15日の対中日戦で実戦復帰。一軍には昇格することなくシーズンを終え、二軍でもわずか12試合の登板、防御率5.40だった。秋季キャンプから本格的にサイドスローに転身するため投球フォーム改造に取り組んだ。4月21日に一軍へ昇格し、同日東京ドームで行われた対日本ハム戦で6回2点リードから登板し、3者連続三振でプロ入り初ホールドを記録した。2試合連続で走者ありからの勝ち継投で登板したものの四球絡みの途中降板を続けて5月1日に二軍へ降格。7月18日に一軍へ戻り、7月30日の対オリックス・バファローズ戦で福岡 Yahoo! JAPANドーム初のホールドを記録。8月3日の対ロッテ戦では3回3点ビハインド一死から7回一死まで自己最長の4イニングを投げ、無失点に抑えた。しかし、その後3試合連続で失点し再び二軍へ落ちた。9月25日に再昇格を果たすと主に大差でのワンポイントリリーフとして4試合投げてレギュラーシーズンを終えた。クライマックスシリーズ第1ステージでは大差ビハインドで2試合登板し1回1/3を投げ無失点だった。開幕を一軍で迎えたが、3月28日から3試合連続で失点し二軍へ降格、5月26日に昇格するも登板無く降格、6月18日に2度目の昇格を果たすと大差ビハインドながら6試合無失点と好投し、以降負け試合の中継ぎに定着。8月26日の対オリックス戦で11回同点から登板し、5者連続三振の2回3者凡退無失点に抑えて引き分けに持ち込んだ。この試合を境に重要な場面での登板が増加する。翌日8月27日対ロッテ戦では先発山田大樹の後を受け、5回一死満塁の場面で登板、3番井口資仁を空振り三振、4番金泰均を初球セカンドゴロに打ち取り、6回も無失点に抑え、プロ入り初勝利を挙げた。8月15日から30日までに登板した6試合、11回2/3を投げた際のWHIPは0.343という数字を残している。9月2日の対日本ハム戦で4回同点から登板、大野奨太に出会い頭のソロ本塁打を打たれ、2回を1失点に抑えたが味方の援護がなくプロ入り初黒星となった。9月7日から3試合連続のホールドを記録、9月19日から2連勝など、甲藤啓介と共に攝津正、ブライアン・ファルケンボーグ、馬原孝浩からなるSBMに次ぐ存在となり、リーグ優勝に貢献した。3勝は全て先発の早期降板後に1回1/3以上を投げて無失点に抑えて得たものである。クライマックスシリーズファイナルステージでは10月16日第3戦で6回1点リード二死一二塁から1イニング無失点でポストシーズン初ホールドを記録。10月18日第5戦は8回4点ビハインドから登板し、9回二死二塁から清田育宏にツーランホームランを浴びてしまいチームは敗れた。4試合で4回を投げ防御率4.50だった。開幕戦から勝ちパターンで登板、4月17日にアレックス・カブレラの捕球エラーにより味方の走者を1人返したものの、6月1日まで17試合連続無失点。その間の5月1日の対ロッテ戦(QVCマリンフィールド)で9回5点リード二死満塁から伊志嶺翔大をショートゴロに打ち取りプロ入り初セーブを記録した。同時にパシフィック・リーグ26人目となる1球セーブも達成した。6月8日の対読売ジャイアンツ戦で6回2点リード一死一塁から2者を抑えた7回に小笠原道大へ同年初の自責となるソロ本塁打を打たれるが、後続を打ち取り4試合連続ホールドを記録。7月29日から再び4試合連続ホールド、8月16日から5試合連続ホールドを記録。7月19日から9月13日は前任の走者を1人返したものの20試合連続無失点を記録した。先発に転向した攝津、不調の馬原、故障の甲藤や藤岡好明などリリーフ陣が続々と離脱する中、彼らの穴を埋めるべくセットアッパーに定着し、チーム最多の60試合に登板してチームのパシフィック・リーグ連覇に貢献した。4つの救援勝利は全て同点から無失点に抑え、味方の援護により得たものである。クライマックスシリーズファイナルステージでは11月4日第2戦で8回1点リードで登板し1回を無失点に抑えてホールドを記録、11月5日第3戦では10回1点日ビハインド二死満塁から星孝典をサードフライに打ち取り、援護により同点となった11回は3者凡退に抑えて後続へ繋ぎ、CS突破を決定付ける長谷川勇也のサヨナラ打を呼んだ。日本シリーズでは11月15日の第3戦で2点リード二死から1人抑えてホールド、11月16日第4戦では6回1点リード無死満塁から登板、小池正晃を空振り三振、平田良介をレフトフライ、谷繁元信をショートゴロに抑え、7回までの6者連続の凡退とし、連日のホールドで勝利に導いた。これは後に森福の11球と言われた。11月20日第7戦は9回3点リード無死一塁から森野将彦、トニ・ブランコの2者を打ち取り、攝津へ繋いでチームの日本一に貢献した。5試合に登板し打者16人に投げ無失点に抑え、出塁を許したのは第5戦で三塁ベースに打球が直撃して内野安打となった荒木雅博のみだった。アジアシリーズでは11月25日の対統一セブンイレブン・ライオンズ戦で9回4点リード二死一二塁から登板し、陳ユン基にタイムリーを浴び、細川亨の守備側の無関心により二三塁とすると、潘武雄の三塁打により1点差に詰め寄られて降板となった。11月26日の対サムスン・ライオンズ戦では8回9点リードから登板し、クリーンナップの朴錫珉、崔炯宇、康奉珪を3者凡退に抑えた。また、この年はオールスターゲームの中継ぎ投手部門でファン投票1位で選出され、7月22日にナゴヤドームで行われた第1戦で7回4点ビハインドから4番手でプロ初の出場、ウラディミール・バレンティン、坂本勇人から三振を奪うなど1回を無失点に抑えた。7月24日にクリネックススタジアム宮城で行われた第3戦では7回5点リードから3者凡退に抑えた。開幕から8回を担当し、16試合連続無失点のスタートを切った。クローザーを務めていたファルケンボーグには故障歴があり、3連投を避けるため連投翌日のセーブ機会には森福が代理で登板していたが、5月18日にファルケンボーグが右肩の張りを訴えて登録抹消されたことでクローザーを任される事になった。6月10日からは5試合連続のセーブを記録した。8月8日の対日本ハム戦では9回同点から登板し、四球を2つ与えて二死一二塁とした所で代打の杉谷拳士に二塁打を打たれシーズン3度目のサヨナラ負けを喫した。8月12日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で9回2点リードから登板し、松井稼頭央に三塁打、牧田明久に二塁打と連打で1失点、二死一三塁とした所で聖澤諒に同点タイムリーヒットを打たれ初のセーブ失敗、9回裏には味方の援護が無く規定により引き分けとなった。これを機に4月から1失点自責0と好調を維持していた岡島秀樹がクローザーとなった。9月7日からリーグ戦終了までの14試合は点を与える試合もありながらも自責0で終えた。前年を上回るキャリアハイの65試合(チーム最多)に登板し、2勝5敗17セーブ24ホールド、防御率1.39を記録した。また、前年に引き続きオールスターゲームに出場、7月20日に京セラドーム大阪で行われた第1戦に5番手で登板し1回を無失点に抑えた。クライマックスシリーズファーストステージは10月13日第1戦で9回2点リード無死満塁から登板、クリス・カーターのショートゴロ間に1人生還させたものの続く2者を抑えて、自身初のポストシーズンでのセーブを挙げた。10月15日第3戦では8回2点リードから1回を無失点に抑えてホールドを挙げファーストステージ突破に貢献した。ファイナルステージでは10月17日第1戦に7回同点一死一塁から二岡に決勝打となる勝ち越しタイムリーを打たれ、10月18日第2戦でも7回1点ビハインド一死二塁から糸井嘉男にダメ押しツーランホームランを浴びるなど要所で打たれチームのCS敗退の要因を作ってしまった。オフのオフの11月6日に、「侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」」の日本代表が発表され代表入りした。第2戦に出場、6回同点から登板し、アレクセイ・ベルに安打を許したが、クリーンナップのユリエスキ・グリエル、アルフレド・デスパイネ、フレデリク・セペダを凡退に打ち取り1回を投げ無失点だった。12月27日の契約更改交渉では5000万円アップとなる年俸1億2000万円でサインした。また、12月4日に、第3回WBC日本代表候補選手34人が発表され候補入りした。2月20日に、第3回WBC日本代表選手28人が発表され代表入りした。この大会では、WBC第1ラウンドでは3月6日の対キューバ戦で7回3点ビハインドから登板して死球を1つ与えたものの1回を無失点に抑えた。WBC第2ラウンドでは3月12日の対オランダ戦では7回7点リードから登板し、無死二三塁とするとザンダー・ボガーツのタイムリー内野安打で1失点、ランドルフ・オドゥバーにも犠牲フライを打たれ1回2失点だった。3月15日に左肩痛を発症し、同日の強化試合を回避した。レギュラーシーズン開幕には左肩が完治し、3月30日の対楽天戦で9回2点ビハインドから登板し3者凡退に抑えた。4月10日を境に不安定な投球が続き、5月3日の対埼玉西武ライオンズ戦で8回4点リードから登板、2者を打ち取った後に連打と四球で満塁とすると浅村栄斗にスライダーを左翼席に運ばれ、同点満塁本塁打(プロ入り初)を浴びた。大隣憲司の急な腰の張りにより、5月6日の千葉ロッテ戦で自身通算200試合目の節目で7年目にしてプロ初の先発を経験したが、2回に捕まり二死満塁から根元俊一のタイムリー内野安打で先制され、56球を投げ2回1失点で降板、敗戦投手となった。その後は点差に関係ないワンポイントリリーフとなるが、6月2日、6月8日と連続で先頭打者に安打を許すなど役目を全うできず6月10日に二軍へ降格。7月3日に一軍へ戻ると7月10日から8月22日まで間、金子圭輔のタイムリーエラーで前任の走者を返した試合があったものの16試合連続無失点、8月31日からの10試合も無失点と後半戦は立て直した。ホールドは15(チーム2位)と減ったものの、この年は前任者が残した走者を36人背負い(得点圏からの登板は16試合)ながら、生還させたのはわずか3人と要所で相手の勢いを止める役としてチームに貢献した。開幕から一度も抹消されること無く一軍で過ごし、5年連続となるWHIP1未満を達成。前年後半と同様「火消し」を中心とした便利屋的起用法で、前任者が残した走者を43人背負い(得点圏からの登板は24試合)、生還させたのは7人だった。5月5日対日本ハム戦では5回同点二死満塁から登板し、西川遥輝からストレートで見逃し三振を奪い、6回も無失点に抑え、長谷川勇也の勝ち越し二塁打を呼んでシーズン1勝目を手にした。8月は8月31日の対楽天戦でサヨナラ負けするなど同点からの登板で3度の救援失敗とやや調子を崩した。9月2日本拠地福岡 ヤフオク!ドームでオリックスを迎えた首位攻防戦では延長11回同点から登板し2イニングを6者連続の凡退に抑え、引き分けに持ち込んだ。9月9日の対日本ハム戦で8回3点ビハインド無死一二塁から敬遠などで満塁とし、大引啓次に走者一掃二塁打、西川遥輝の二塁打で大量5失点でイニング途中に降板という失態はあったものの、9月11日から9月28日までチームが1勝9敗と苦しんだ期間は5試合に登板し全てビハインドからの登板だったが走者を1人も生還させなかった。クライマックスシリーズファイナルステージは10月15日第1戦に9回1点ビハインド一死から登板し、5番大谷翔平から空振り三振を奪った。10月18日第3戦では6回2点リード二死一二塁から西川遥輝に四球を与えたが、中島卓也は空振り三振に切ってホールドを挙げた。4試合を投げ2ホールド、防御率6.75だった。日本シリーズは阪神甲子園球場で行われた10月25日第1戦で5回5点ビハインド二死二塁から登板したが福留孝介に二塁打を浴び走者を返してしまい、その1試合の登板に終わった。12月26日の契約更改交渉では4年連続の50試合以上の登板が評価され、年俸1億6000万円でサインした。高校時代はスライダーのキレとカーブの変化で三振の山を築くスタイルで、プロ入り前はストレートの最速が143km/hで遠投は100メートルだった。プロ入り当初はスリークォーターで、オーバースローとサイドスローの二刀流になり、2008年の秋季キャンプからフォームを改造し、サイドスロー一本となった。2008年10月時点では緩いスライダー、スラーブを投げていた。2010年に、投球開始までの静止時間が長いフォーム、及びサインの交換が終わってから投球モーションに入る際に左手を高く上げる独特の動作を特徴とするサイドスローへ転身。平均球速約134km/h、最速140km/h序盤の速球と真横に滑るスライダー・シュートを投げ分け、凡打の山を築く投球スタイルとなってから才能が開花した。リリーフで登板する際、ファウルラインの手前で帽子を取りグラウンドに向かって一礼してからマウンドに上がる。愛称は「ちょめ」。ホークスの背番号19は、シダックスの監督であった野村克也が現役時代に付けていた番号である。野村は当時第一印象として身体も小さい上、球速も速くはないため「しんどい」と思ったそうで、プロから声がかかったときは大変驚いたという。そこで、困ったときに外角高めでストライクを取れるコントロールを磨け、球種はストレートとスライダーしかなかったためシュートを身につけろと教えたという。プロ入り前に目標としていた投手は、身長170センチ台前半で当時5年連続2桁勝利を継続していた石川雅規と、シダックスの先輩であり、チームを日本一に導くために「チームのために身を削った」武田勝の2人である。ファンサービスを大切にしており、2012年2月のバレンタインデーでチームトップの200個のチョコレートを貰うなど人気がある。2012年7月、オールスターゲーム出場の際に将来的なメジャー挑戦志向があることを明らかにした。プロレスラーの吉野正人と親交がある。
出典:wikipedia
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