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松井秀喜5打席連続敬遠

松井秀喜5打席連続敬遠(まついひでき5だせきれんぞくけいえん)は、1992年8月16日に阪神甲子園球場で行われた第74回全国高等学校野球選手権大会2回戦の明徳義塾高校(高知)対星稜高校(石川)戦において、明徳義塾が、星稜の4番打者・松井秀喜を5打席連続して敬遠する作戦を敢行し、この試合で松井が一度もバットを振ることないまま星稜が敗退した出来事である。試合途中から場内は騒然とし、明徳義塾が勝利した後も騒ぎは収まらずに大手マスコミなどでも取りあげられる事件となった。この連続敬遠をきっかけに明徳義塾高校に「ヒール」のイメージがつきまとっただけでなく、高校野球における敬遠ないし「勝利至上主義」についての議論が湧き起こった。この大会において松井は注目選手として群を抜いており、甲子園球場のラッキーゾーンが撤去されて最初の大会となった第64回選抜高等学校野球大会でも、初戦の対宮古戦で2打席連続本塁打、2回戦の対堀越戦でも2試合連続となる本塁打を記録した。また松井の高校通算60号本塁打という記録達成も目の前に迫っていたことから各スポーツ紙でも一面で扱われることが多くなり、すでに秋のドラフト会議の有力候補の一人であった。「ゴジラ」という異名が登場したのもこの頃である。星稜高校監督の山下智茂にとっても松井の存在は特別だった。打撃の松井、投球の山口が揃ったときから全国制覇を「狙いに」いくことを決めていた山下が率いる星稜は、石川県はおろか北信越地方でも突出した実力を持つまでになっていて、全国でも5本の指に入る強豪チームであり、夏の甲子園でも優勝候補の一角に挙げられていた。星稜は1回戦の対長岡向陵戦を11-0で勝利。明徳義塾は初戦が7日目第3試合で49番目の登場だった。前回大会から、49番目の高校と対戦するチームを17試合の1回戦勝者のうちからあらかじめ決めるようになっており、抽選会で7日目第3試合を引いたのが星稜の主将・松井秀喜だった。大会前の明徳義塾には松井についてあまり情報が入っていなかったが、星稜の第1試合を観戦し松井の高校生離れしたバッティングを目の当たりにした監督の馬淵史郎は、その後星稜高校の練習も偵察し、改めて松井のパワーに驚くことになる。ノンフィクションライターの中村計はこのとき馬淵が「腹をくくった」と書いている。明徳義塾の河野和洋は2年生の終わりから高知大会直前までピッチャーから離れていた。しかし投手力の不足を感じた監督の指示により高知大会を投げさせられ、決勝では完投も果たしていた。河野自身もコントロールには自信を持っており、周囲の仲間も「エースは事実上、河野だった」と語っている。星稜との試合を前に何度となく敬遠を匂わせた発言をしていた馬淵だったが、具体的にいつ選手たちに「敬遠」を指示したかはやや錯綜している。捕手の青木は8月8日の抽選会の日の午後に監督から「全部敬遠するぞ」と指示されたと回想している。しかしショートの筒井によればその日の夜のミーティングで敬遠という言葉を使わずに「松井抜きで考えるから」と伝えられた。一方で河野の証言によれば8月13日の夜にミーティングを終えた後で、先発を任せること、そしてやはり「松井を相手にしない」ことを伝えられた。また、試合前日の宿舎での全体ミーティングで馬淵は「四番打者(松井)でファーストベースが空いている時は歩かせ、五番六番で勝負する」と伝えている。さらに試合前、馬淵は意図的に四球を与えているとは思われないよう「演技」することを選手に求めていた。つまり、捕手は座ったままボールを受け、投手もストライクが入らないと言う風に首をかしげ、外野は松井の打席のたびにフェンス際まで下がるようにする、という指示である。星稜高校の試合前のミーティングでは、山下には試合巧者の馬淵への警戒心こそあったものの、松井に「ランナーおる時は敬遠あるからな」と告げただけだった。この試合で明徳義塾は、星稜の4番打者・松井秀喜に対して「全打席敬遠」作戦をとる。明徳義塾の先発投手・河野和洋は、松井に5打席全てストライクゾーンから大きく外れるボール球を投げ、四球を与えた。公式記録は、捕手が初めから立った状態で与えた四球ではなかったため、「故意四球」ではなく「四球」となっている。松井の最初の打席は1回表、二死から3番の山口が三塁打で出塁し、星稜の先制点のチャンスで迎えた。しかし松井は「当然のように」四球を与えられ、一塁へ歩かされた。3回表の一死二塁三塁でも松井には敬遠だった。山下監督もここまでは予想していたという。しかし3回表の打席から河野が1球投げるごとにスタンドがざわめき始める。5回表の一死一塁では、一塁走者がいるにもかかわらず、敬遠を実行。スタンドは完全にどよめきに変わった。3-2と明徳義塾1点リードの7回表、松井の第4打席では二死無走者から意図的な四球を与える。スタンドからは「勝負、勝負!」の連呼と、明徳義塾に対しての野次が飛ばされただけではなく、一塁側アルプススタンドの明徳義塾の応援席からも「土佐っ子なら逃げずに勝負しろ!」といった野次が飛び始めた。さらに9回表の最終打席(二死三塁)でも松井に四球が与えられた時には、堰を切ったように球場内は野次と怒号に包まれるという、高校野球では史上まれに見る異様な雰囲気となった。星稜の三塁側応援席や外野席からはメガホンなどの野球グッズやゴミなどの物が大量に投げ込まれ、さらに一般の観客はおろか、この敬遠行為で怒りが頂点に達した星稜の応援団からも、河野ら明徳義塾ナインに対する「帰れ」コールや「殺すぞ」などのブーイングが起こった。これにより審判はタイムを掛け、試合は一時中断となり、ボールボーイや星稜の控え選手たちが投げ込まれた物を片付けに走った。この時、一塁上にいた松井は、憮然とした表情でその光景を見つめていた。その後、一塁走者の松井が二盗して二死二・三塁となり一打逆転の好機ともなったが、次打者の月岩信成は三塁ゴロを打ってアウトとなった。明徳義塾は1点差で逃げ切って勝利を収め、結果的に松井への全打席四球策は成功した格好となった。試合終了の挨拶の後、両チームで握手を交わした選手は4、5人程度であり、松井を含め他の星稜の選手は、無言の抗議の意味で、明徳義塾の選手と握手を交わさずにベンチ前へ急いだ。明徳義塾の校歌演奏の際には、球場全体から観客のブーイングや「帰れ」コールの大合唱が大きく鳴り響き、明徳義塾の校歌が聞こえなくなるほどであった。校歌斉唱後、勝った明徳義塾の選手が引き上げるなかブーイングが鳴り止まなかったが、負けた星稜の選手に対しては沢山の拍手が送られていた。明徳義塾監督の馬淵史郎は試合後、「正々堂々と戦って潔く散るというのもひとつの選択だったかもしれないが、県代表として、ひとつでも多く甲子園で勝たせたいと思った」とコメントし、その後もそうした潔さに喜ぶのは客と相手側だけだ、と語っている。一方、星稜監督の山下智茂は「甲子園で男と男の勝負をしてほしかった」「残念です」とだけ述べた。この試合、明徳に全く勝負させてもらえなかった松井秀喜は、試合後インタビューで「正直いって野球らしくない。でも歩かすのも作戦。自分がどうこう言えない」というコメントに留めた。高野連会長の牧野直隆は「無走者の時には、正面から勝負して欲しかった。一年間、この日のためにお互いに苦しい練習をしてきたのだから、その力を思い切りぶつけ合うのが高校野球ではないか」「勝とうというのに走りすぎる。すべてに度合いというものがあり、今回は度がすぎている」といった談話を発表した。試合当日夜の報道番組では軒並みこの試合を取り上げ、翌日のスポーツ新聞各紙は松井敬遠を一面に出して高野連牧野会長の談話を掲載した。この談話そのものも異例だったが、松井への敬遠作戦に対しては有識者、元・現役プロ野球選手・高校野球関係者などを中心に多方面から賛否両論が寄せられて社会問題に発展し、その後も新聞、雑誌などでもさまざまな読者投稿欄を賑わせた。さらに話題となったのは主催の朝日新聞に掲載されたコラム「大事なもの忘れた明徳ベンチ」だった。朝日新聞社内でもこの記事は波紋を呼び、特に高知支局からは反発が強かったという。なお、公認野球規則1.02には「各チームは、相手チームより多くの得点を記録して、勝つことを目的とする。」と明記されている。大会の翌年、甲子園大会を前に雑誌『Number』が「敬遠の夏」と題し敬遠事件の特集を組んだ。特集の中では星稜、明徳両校の視点だけでなく観客からの視点もあり「(入場料を払ってまで)野球を見に来た観客の楽しみは勝敗以前に松井がこの試合で如何にして打つか、また相手投手が松井を如何にして抑えるかにあった。(中略)観客が(入場料を払ってまで)楽しみにしていた物を5打席敬遠という予期せぬ形で奪われたら(明徳へ)『帰れ!!』コールを行ってもその気持ちは十分理解できる」としている。星稜戦に勝った明徳義塾の宿舎には、試合終了直後から「選手に危害を加える」などの抗議や嫌がらせの電話と投書が相次いだ(この宿舎には明徳義塾が出場した際に、その後何年も同じ嫌がらせが続いたという)。また宿舎の周りには一部の野球ファンなどが殺到し、「馬淵出てこい!」「松井に土下座しろ!」と喚き立てるなど一時混乱が生じ、明徳義塾の馬淵監督や選手達の身を守るために、警察官やパトカーが出動するという厳戒態勢が敷かれた。マスコミ陣も大勢が殺到、その影響により明徳の関係者は、宿舎から自由に外出さえも出来ない状態となってしまい、馬淵監督自身も「タバコさえも買いに行けない」と言うほどであった。また、明徳の宿舎から練習グラウンドへ外出する際も、多くの警備員にガードされながらの移動となった。その後、3回戦の抽選会に訪れた明徳の筒井主将に対して、スタンドから野次や罵倒を飛ばす者もいた。1992年(平成4年)8月22日、明徳義塾は3回戦で広島工業(広島)と対戦した。甲子園のスタンドには、あちこちに多くの警備員や警察官が配備された。広島工業の応援席では父母の会により「明徳義塾高校はルール違反をしたわけではなく、選手に何の罪もありません。我が県工野球部の場合でも同じ作戦を採用したかもわかりません」と記されたビラが配られた。この年に明徳義塾は広島工業と練習試合で2試合戦い、2試合とも明徳義塾が圧勝していたが、この甲子園での明徳義塾は、前試合からの騒動による精神的ダメージは拭えず、本来のプレーをほとんど発揮できないまま、広島工業に0-8と大敗を喫した。その後宿舎で開かれたミーティングで馬淵監督は部員達を前に思わず号泣し、その監督の涙にもらい泣きする選手がほとんどであったという。河野投手によればこの時、馬淵の言葉をハッキリ聞き取れたのは「おまえらはようやった」の一言だけとの事だった。明徳義塾の監督の馬淵は、世間を大きく騒がせ迷惑を掛けたお詫びにと、明徳義塾の学校長に野球部監督の辞表を提出しようとした。しかし、学校長は「間違っていることをしたんじゃないんだから。あそこで監督を辞めさせたら、それこそ教育にならんでしょう」との考えから辞表を受け取らずに慰留、馬淵はそのまま野球部監督を続けた。星稜は秋のべにばな国体に、2回戦敗退ながらも異例の選出となった(明徳義塾は選出されず)。松井は、国体決勝戦の対尽誠学園戦の最後の打席で高校通算60号の本塁打を放つなどの活躍により、星稜高校は国体優勝し前年の明治神宮野球大会に続くシーズン二冠を達成した。松井は1994年(平成6年)発売の『ドカベン』秋田文庫第6巻の巻末解説インタビューで5打席連続敬遠に触れ、水島新司漫画業50年の祝福コメントを寄せた時も5打席連続敬遠に触れている。対戦投手の河野とは番組の企画などで対面している。また、テレビ番組『KYOKUGEN2013』の企画にて、「21年後の第6打席」として、両者は勝負に挑んだ (結果は、フルカウントからのフォアボール)。星稜の5番打者月岩は松井敬遠後に奮起して打席に立ったものの5打席0安打(スクイズの1点のみ)だったことで、石川に帰った後地元の人からは後ろ指をさされ、自宅には敬遠の試合の感想を求める記者が殺到し、嫌がらせの投書が相次いで送られるなど精神的に堪えてしまい、進学が決まっていた大学の(大阪経済大学)野球の練習に参加するが敬遠の試合のことで周囲にからかわれ、これが原因でその後すぐに退学した。退学後、しばらくは自分を取り巻くすべてを投げ出して野球から離れていたが、24歳から軟式野球という形で再開し、少しずつ前打者が5連続敬遠された試合について振り返ることができるようになった。軟式野球では逆に敬遠される立場になり、敬遠後に次の打者にアドバイスをするようになったという。月岩は2003年に松井がメジャー初年度の本拠地開幕戦において前打者のバーニー・ウィリアムスが敬遠された後の打席で松井がホームランを打ったのをテレビで見た時、「このあたりが違う」と思ったという。実際には、無条件で相手に走者1人を与える敬遠作戦は、後続の打者を封じることができなければ逆効果なのであり、馬淵が全力を挙げて対策を行ったのは5番打者を封じることであった。馬淵は雑誌インタビューで「私は今でも間違った作戦だったとは思っていない。あの年の星稜は、高校球児の中に1人だけプロがいるようなものだった。あれ以前も、あれ以降も、松井くんほどの大打者と僕は出会っていません。甲子園で勝つための練習をやってきて、その甲子園で負けるための作戦を立てる監督なんておらんでしょ? 勝つためには松井くんを打たせてはいかんかった」と述べているように、作戦そのものが間違っていたと認めたことはない。一方で「ただ、46歳の大人になった今振り返れば、大人の作戦のために17・18歳らの子供達に嫌な思いをさせてしまったこと、特に松井の次の打者に迷惑をかけてしまったことに気づかされます」とも語っている。

出典:wikipedia

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