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ハワイアンイメージ

ハワイアンイメージ(1977年5月22日 - 1990年10月14日)とは日本の競走馬である。1980年の皐月賞に優勝。ほかの重賞勝ち鞍にラジオたんぱ賞と福島記念がある。八大競走に連なる路線よりも、ローカル開催やダート競走を転戦した異色のクラシックホースである。最高570キログラム台の巨体の持ち主で、ダート・重馬場を得意としたことから「重戦車」の異名を取った。主戦騎手は増沢末夫。半姉にスプリンターズステークスを連覇したメイワキミコ(父ギャラントマン)、半妹にカブトヤマ記念優勝馬プロメイド(父マルゼンスキー)がいる。※馬齢は、2000年以前に使用された旧表記(数え年)で統一する。1977年、北海道新冠町の明和牧場に生まれる。幼駒のころから雄大かつバランスのよい好馬体を持ち、育成調教も順調にこなして、往年の名騎手であった場長・中村一雄からも「2億円は稼げる」と見込まれた期待馬であった。競走年齢の3歳に達した1979年、牧場オーナーである鬼島力也の所有馬として、茨城県美浦トレーニングセンターの鈴木勝太郎厩舎に入った。同年12月5日、中山開催の新馬戦で、増沢末夫を鞍上にデビュー。初戦は548キログラムと身体が絞れていなかったこともあり、後方のまま12着と大敗した。しかし翌々週に8キログラム減で臨んだ2戦目で初勝利を挙げると、以後年を跨いで3連勝を挙げた。この間に鬼島の友人である関山正(名義は株式会社大関)へ1500万円で譲渡され、馬主が交代している。その後はクラシック初戦・皐月賞を目標に重賞戦線へ臨む。2月に出走した東京4歳ステークスでは8着に終わったが、続いて重馬場で行われた弥生賞を3着、不良馬場で行われたスプリングステークスを2着と成績を上げ、4月13日に皐月賞へ臨んだ。当日の中山競馬場は豪雨に見舞われ、「芝コースの内側は、水田のような泥んこ状態」(増沢末夫)というほどに馬場状態は悪化していた。こうしたなかでハワイアンイメージは単勝4番人気、複勝では1番人気に支持された。スタートが切られるとハワイアンイメージは先行集団の中を進んだ。第3コーナー手前で1番人気のトウショウゴッドが故障を発生して競走を中止、このあとにハワイアンイメージは2番手に進出すると、最後の直線では大外に持ち出し、逃げ粘るハワイアンジュエルを捉えた。残り150メートル付近からは後方から進出したオペックホースと馬体を接して激しく競り合ったが、ゴールではクビ差抜け出して優勝を果たした。走破タイム2分10秒2は、日本中央競馬会が発足した1954年以降で2番目に遅い記録であった。増沢は勝因として「トウショウゴッドの競走中止、不良馬場、ゴール前の競り合い」という3点を挙げ、「こうした条件が揃わなかったら、とても皐月賞は取れなかったと思う」と回想している。なお、増沢はハイセイコー(1973年)に続く皐月賞2勝目、管理調教師の鈴木はクモノハナ(1950年)、ハイセイコーに続く同3勝目であった。続いてはクラシック二冠を目指して東京優駿(日本ダービー)に出走。良馬場となった当日は、皐月賞馬であるにもかかわらず6番人気の評価で、結果もオペックホースの14着と大敗を喫した。その後ハワイアンイメージは、二線級馬の巻き返しの場所として、俗に「残念ダービー」と呼ばれていた福島競馬場のラジオたんぱ賞に出走した。クラシックホースが福島に姿を見せたのはこれが初めての例であり、スポーツ紙には「クラシック馬が福島に来てくれるとは、とてもありがたい」という場長の談話も寄せられた。当日はダービー5着のハーバーシャレード、オークス4着の牝馬ジュウジアローに次ぐ3番人気と、皐月賞馬としては低い評価だった。しかし先行策から直線入り口で先頭に立ち、そのままゴールに流れ込んで優勝、重賞2勝目を挙げた。真夏の休養を経て秋に復帰。クラシック三冠最終戦の菊花賞には目もくれず、菊花賞と同日に福島で行われる福島民友カップから始動し、逃げ切り勝利。続いて不良馬場で行われた福島記念も連勝した。年末にはグランプリ競走の有馬記念に出走したが、ホウヨウボーイの7着となってシーズンを終えた。当年の収得賞金は1億2578万3500円で、年度の最多賞金収得馬となった。翌年以降も芝の表舞台よりローカル開催やダート競走に数多く出走、6歳時に骨折による長期休養がありながらも、8歳まで現役を続け、オープン特別競走など4勝を加えた。競走生活晩年はしばしば最下位に沈むなど精彩を欠き、1984年2月、新設されたダート重賞・フェブラリーハンデキャップで7着となったのを最後に引退。同年3月4日、中山競馬場で引退式が行われた。総獲得賞金は2億1500万円あまりと、中村一雄の見立てが当たった結果となった。引退後は故郷・明和牧場で種牡馬となった。2年目シーズン以降は毎年50頭前後との交配をこなすなど一定の人気を集め、初年度産駒からはオープン特別競走で2勝、重賞のエプソムカップでも3着となったハワイアンコーラルが出た。しかし1990年10月、放牧中に転倒して右後脚の大腿骨を骨折。予後不良と診断され、安楽死の措置が取られた。14歳(現表記13歳)没。

出典:wikipedia

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