山田 康雄(やまだ やすお、本名:同じ、1932年9月10日 - 1995年3月19日)は、日本の俳優、声優、司会者、ナレーターである。テアトル・エコーに所属していた。東京府東京市大森区(現・東京都大田区)南雪谷出身。身長167cm、体重56kg。血液型はA型。星座はおとめ座。早稲田大学文学部英文科中退。長男は演芸作家の山田浩康。代表作に『ルパン三世』(ルパン三世)、クリント・イーストウッドの吹き替えなどがある。役人の家系で、父は日本銀行勤務だったが、3歳の頃に死別。幼少時から映画を好み、高校在学時は授業をサボって毎日映画館に通いつめていた。コメディ映画である『虹を掴む男』を見て、主演であるダニー・ケイのコミカルな演技に惹かれ、「人を楽しませるようなコメディを演じられる喜劇役者になりたい」という憧れを抱いた。1945年に東京都立第一中学校(現:東京都立日比谷高等学校)に進学。在学中は野球部に所属していた。六大学野球の出場校のうち、野球部のレベルが低く、唯一レギュラーを取れそうな大学として(インタビューによる)、東大を受験するも失敗。ただし、卒業時の成績は71位だったということであり、あながち無謀な挑戦というわけでもなかった。早稲田大学文学部英文科入学後、学生劇団である自由舞台に入団し、役者としての一歩を踏み出した。1953年に難関とされる劇団民藝の試験に合格し、大学を中退して研究生として入団する。審査員には、宇野重吉らがいたという。しかし、自分のやりたいコメディができず、厳しい基礎練習ばかりの毎日に耐えられず1年で退団、フリーとなる。稽古に参加することなくサボってばかりいたために、サボリーマンという二つ名が付いたという。ただし、野球の試合だけはきっちり出ていたとも伝わる。1958年に、テアトル・エコーの俳優である熊倉一雄に誘われて劇団テアトル・エコーに入団。その年の8月に初舞台を踏んだ。劇団のアルバイトとして当時大きな収入でもあった海外ドラマの吹き替えの仕事の依頼が山田に来たが、その仕事を持ってきたのもまた熊倉であった。熊倉曰く、「(当時の山田は)容姿もいいし口も達者だったのでピッタリだった」と語っている。しかし、当時は吹き替えの仕事は役者の副業という認識が強く、やや軽く見られていた。山田もまた吹き替えの仕事を軽視しており「口の動きに合わせて日本語を喋ればいいだけだ」とたかを括っていたという。しかし、初めての収録の際、本番前のテスト中に突然降板させられた。その際に監督から「君の芝居は吹き替えに合わない」と言われた山田は、今までの自分の考えが非常に甘かったと反省。その日から、山田は「吹き替えもまた役者の演技」と心機一転し、芝居の原点に戻って稽古を続けた。その1年後である1959年に、海外テレビドラマ『ローハイド』の吹き替えにおいてクリント・イーストウッド演じるロディ役に抜擢され、「クリント・イーストウッドの吹き替えは山田康雄」と世間から認知されるほど有名になった。1965年に結婚、一男一女をもうける。テアトル・エコーでは看板俳優として活躍。特に、70年代前半に熊倉一雄演出で上演された一連の井上ひさし書き下ろし作品では『日本人のへそ』の会社員・ヤクザ・助教授の3役(映画版ではいずれも美輪明宏が演じた)、『表裏源内蛙合戦』の表の源内役など主役や準主役を多くつとめた。トレードマークとなった独自の頭髪は、井上の『11匹のネコ』初演のためのもので、以後そのままになったという。洋画ではクリント・イーストウッドの他にジャン=ポール・ベルモンドの日本語吹き替えを担当。また、アニメではルパン三世が代表的なキャラクターで、1971年に抜擢されて以後、逝去する1995年までの24年間、ルパン三世役を務め、彼のライフワークでもあった。『お笑いスター誕生!!』などでテレビの司会者としても活躍し、独特なヘアスタイルやひょうきんなトークで、声だけでなく顔もお茶の間のおなじみだった。1995年3月19日、脳出血のため大田区の東京都立荏原病院で亡くなった。満62歳(享年64)だった。山田の死去の翌日の3月20日に発生した地下鉄サリン事件により、その訃報が大きく報じられることはなく、数日遅れて山田の死を知って愕然としたファンもいたという。愛称は「ヤスベエ」。本人曰く「働くのは嫌い」で、役者を目指したのも「朝寝坊ができると思ったから」という。初恋は高校時代で、相手は東京女学館の生徒。同じ電車に乗りたいがために、ほぼ毎日学校を遅刻していたとのこと。仲間内では電話魔としても有名で、夜に度々電話をしてくるところから「ヤスベエの定期夜行便」などと呼ばれていたそうである。英語が堪能であり、英語圏に住む友人も多かった。基本的にはアニメ嫌いであり、歯に衣着せぬ物言いをするため、アニメに対する辛辣な辛口評論家としても有名だった。「この世にはくだらないものが多すぎる」という言葉が残っている。特に、少年期にアメリカ軍の空襲を経験した世代であることから、1970年代のアニメブーム時に隆盛を誇っていたSFアニメには強い嫌悪感を示していた。本人曰く「正義のためだとか言っているけど、やっていることは要するに戦争」。『宇宙の騎士テッカマン』のアンドロー梅田は、ルパン以外には数少ない山田のアニメレギュラーだが、山田は事前にこの作品の設定を聞いて「単なる勧善懲悪ではない」ことに納得して出演している。小食家であった。特に酒を飲んでいる時は、つまみをあまり口にせず、延々と飲んでいたという。愛車は白い日産・初代レパード。近所のディーラー、日産サニー新東京・馬込営業所(当時)で整備を行っていた。睡眠時間は、新ルパン放映初期当時の記録によると6〜7時間。仕事で多忙だったとしても最低このくらいはキープしており、5時間を切るとキツかったとのこと。普段は陽気で明るく、テレビでも素顔で活躍していたため様々な業界の人々と交流があった山田だったが、仕事には信念とプライドを持っていたため、同業者にはかなり厳しかった。「スタジオってのはお互いの芸と芸をぶつけ合うところなんだよ」「ガキとは芝居したくない」「(芝居が)下手な奴は辞めれば!」と語っていたという。収録の際に筋が通っていないことがあると、激怒してスタジオから帰ってしまったことも何度かあったというが、外国映画の吹き替えで共演した後輩の古谷徹は「それは出演者皆の気持ちを代弁したもの」と語っている。教え子で同じ劇団の後輩である神谷明などからは、「怖い先輩」と言い伝えられてきたものの、山田は誰もが認める名優であり、神谷や古谷は彼を尊敬していた。また「声優」という呼び方を好まず、本人は「『声優』という職業は存在せず、99%『役者』の仕事の1つに『声優業』という仕事内容がある」と語っており、「『声優業』とは『役者』の仕事の1つである」というスタンスを徹底的に守っていた。インタビューなどにおいて、「“声優”の山田康雄さん」と紹介されると、「俺はスーパーじゃねえ(声優と西友を引っ掛けた皮肉)」と返していた。ただし、決して吹き替えやアニメのアテレコなどを軽視していたわけではない。山田自身も先述の通り、考えが甘かったことを一度思い知らされていたこともあって、「役者としての感性が重要視される仕事」として誇りを持っていた。かつて山田のもとには「声優になりたい」という人が多くやってきたが、彼らに対する山田の返答は「声優になりたいと思うのならやめなさい。でも、役者になりたいのなら、やってみてもいいかもね」というものであった。「声優業とは役者の一部分。一部分を目指すだけでは成功しない」という意味がこめられており、山田の役者としての誇りが窺えるエピソードである。また、新人に対する指導の際は「声優を目指すな、役者を目指せ。演技は全身でするものだ。それでこそ『声優業』も活きてくるんだ」という言葉が口癖だったという。また、声優のギャランティの向上などを求めてテレビ局にデモを起こしたことがある。昭和40年代、声優は吹き替えをすると再放送分のギャラは支払われなかったうえに、山田の仕事仲間のピンチヒッターを務めた俳優の宇津井健のギャラは45万円だった(当時は作品1本につき、最低3000円から最高で3万円であった)。このため、山田はこれらを声優全体の問題と考えこの問題を解決するべく奮闘したのだという。結果、山田らの善戦の甲斐あって、再放送のギャラが認められるようになった。『お笑いスター誕生!!』で軽快な司会振りを披露するなど、お笑い界との縁も深い。ザ・ドリフターズの演技指導をしたこともある。それが縁で、ドリフのリーダーであるいかりや長介と交流を持つようになり、『8時だョ!全員集合』に出演(前半コントにおける敵役等)した他、プライベートの場においていかりやと杯を交わすなどの交流を行っていた。またダウンタウンとウッチャンナンチャンが共演していた『夢で逢えたら』や『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』などのバラエティー番組にゲストとして登場したこともあった。『ローハイド』以降、クリント・イーストウッドの吹き替えは山田がほとんどの作品を担当していた。しかし、山田本人は「イーストウッドの吹き替えに自分はベストではない」とたびたび語っていた。山田本人の言葉を借りれば「『ローハイド』の頃のイーストウッドはナイーヴな青年といった感じだったけど、その後彼はどんどん男臭い俳優になったので、軽い僕には合わない」とのことである。なお、山田とイーストウッドは『ローハイド』のキャストが来日した1962年に一度だけ対面している。ルパン役の後任である栗田貫一によると、「山田さんの息子さん(浩康)と飲んだんですが、山田さんと声がそっくりなんですよ。『コツとかを教えるからルパンをやってよ』って本気で言ったら『やだよ』って断られちゃったんですけどね」と語っている。一般に「ルパン三世の山田康雄」として知られていたが、山田は風貌までルパンに似ており、常にキャラクターと一心同体のイメージでお茶の間に知られていた例の一つである。ちなみにルパンのキャラクターデザインは『リオの男』のジャン=ポール・ベルモンドをモデルにしており、その吹き替えを山田が担当していた。山田とルパンの出会いのきっかけは、前述の舞台『日本人のへそ』(井上ひさし原作)。この劇での役作りに悪戦苦闘していた山田に、知り合いのスタッフが「参考になるから」と手渡したのが『漫画アクション』から切り取った『ルパン三世』だった。最初「漫画でアドバイスはないだろう」と思っていた山田だったが、読み始めるとたちまち夢中になり、毎週『漫画アクション』を買い、作中のルパンの「エッセンス」を自らの役にも盛り込んでいったという。そして迎えた舞台本番、『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』の演出を担当していたおおすみ正秋が客席にいたが、パイロットフィルムでルパン役を担当した広川太一郎も野沢那智もスケジュールの都合で本編に出演できず、おおすみがTVシリーズのルパンの声優を探していた。舞台での山田の演技は、彼のイメージしていたルパン像に合っており、舞台終了後、すぐにルパン役を山田に打診、「ルパン、やる?」と聞いたところ山田も「やる!」と二つ返事で承諾したという。おおすみは後に当時を振り返って「ルパンがここにいると思った」と語っている。自分の名刺にルパンの顔を入れるなど、ルパンに対しては強い愛着を持っていた。また「ルパンは銭形がいて初めて成立するキャラ」とも語っていた。一緒に飲んでいた知り合いに「次元大介と話をさせてやる」などと言って次元役の小林清志の家へ深夜に電話をかけたことがある。小林は山田の追悼本で「当時はかなり迷惑だったが、(山田が亡くなった今では)良い思い出かもね」と語っている。青春ラジメニアにてゲスト出演した際にはルパンに対して聞かれ「ありがたさ50%、迷惑さ70%」と語っている。また自身の戦争体験から、「ルパンにはあまり人殺しをさせないように」とスタッフに頼んでいたという。ルパンと山田のイメージが不可分になってしまったため、舞台でもコソ泥の役ばかりが回ってくるようになったこともあった。アフレコの収録のためにスタジオに入る際、山田はいつも「かったりぃよ」「やってらんねぇよ」などとやる気のない言葉を言っていたという。しかし、「収録が始まると、全くミスがなかった」と共演者は語っている。『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』のアフレコで渡された台本の中に「不二子ちゃん」「ルパン三世」の台詞があり、山田はアドリブを効かせて「ふ〜じこちゃ〜ん」「ルパ〜ンさ〜んせ〜」と独特の抑揚で表現。以後これらはルパンの代名詞的な台詞となる。他にも、同シリーズからアドリブを多用するようになり、ルパンのキャラクターに山田の個性が強く反映されていった。なお、山田個人としては『TV第1シリーズ』が好みで、ややファミリー向けになった『TV第2シリーズ』には多少不満があったらしい。これらについて、『ルパン三世 風魔一族の陰謀』で、ルパンを演じた古川登志夫曰く「絵を見た途端に、モノマネをする他人にも無意識の内に真似をさせてしまうのは、役者として人間国宝級の凄さ」と語っている。『TV第2シリーズ』からルパンの音楽を担当した作曲家の大野雄二とは、公私共に親交が深かった。山田のアルバムはすべて大野がプロデュースと音楽を担当している。ルパン三世のアフレコ時、絵が完成していないからということでアフレコを中止したエピソードがある。「画が揃っていないんじゃ、あてるものがないのでやれないよ」と平気でスタジオを後にしたという。銭形警部の声優を担当していた納谷悟朗によると、ただ「やめよう」と言うだけではなく、「ダメだ、出来ないよこんなの。ねぇ悟朗さん、出来ないよね?」と必ず山田よりも3歳年上の納谷に話を振ってきたため、納谷は「うーん、まあなぁ。これなぁ」と同調せざるを得なかったという。ルパン三世声優陣によると実際に中止になったのは2回、その内の1回に居合わせた当時新人の松井菜桜子によると、その時動いていなかった絵はワンカットだけだったという。後輩である神谷明が後年、直に聞いたところによれば、「俺たちは別に絵がなくたってアテることはできるけど、ゲストで来てくれた役者に対してそれは失礼だろう」というのが真意だったそうである。「ルパンの魅力は義賊ではないところ」が山田のルパン像だったが、最も義賊意識が強いとされる劇場映画第二作『ルパン三世 カリオストロの城』はいたく気に入っていた。同作のアフレコの際、監督の宮崎駿は山田に対し、「おちゃらけたアドリブをせずに、クリント・イーストウッドのときのようなクールな抑えた声での演技をするように」と指示したが、「ルパンは自分で持っている」という自負心のあった山田は激怒し「今さらごちゃごちゃ言われたくねえよ!ルパンはオレにまかせろ!!」などと横柄な態度をとったという。宮崎は山田の傲慢に苦虫を噛み潰し、大塚康生は「山田は生意気だから降ろそう」と助言をしている。しかし、音が入る前の状態の試写を見終わった山田はそのクオリティの高さに感動して態度を一変させ、「先ほどは失礼なことを申しました。どんな無理な注文でもして下さい。やらせて下さい!」と宮崎に頭を下げたという(大塚康生・著『作画汗まみれ』より)。『TV第2シリーズ』に不満のあった山田は、『カリオストロの城』の作画やコミカルなだけではないルパン像に感動したらしく、「こういうのを映画の真髄というんだ」と後に語っている。TVスペシャル第五弾『ルパン三世 ルパン暗殺指令』のアフレコの際にも、監督のおおすみ正秋から宮崎と同様の指示をされ、「宮崎さんにも同じことを言われたよ」と嬉しそうに回想したという。『お笑いスター誕生!!』に挑戦者として出場していたカージナルスのギャグに、タカ(現ガダルカナル・タカ)がポポ(現つまみ枝豆)に向かって、「俺は大泥棒の知り合いがいる。それはルパン三世だ!」と言って山田に同意を求めるものがあった。山田は自分を指刺し「俺がギャグなのか!?」という顔をし、場内は爆笑に包まれた。TVスペシャル絡みで、金曜ロードショーに2度の出演をしている(1度目は後述にもあるが、『ルパン三世 ヘミングウェイ・ペーパーの謎』でスタジオに登場。2度目は『ルパン三世 ロシアより愛をこめて』で、本編の前の収録現場公開にて登場)。1度目のインタビューでは、水野晴郎にルパンをどのように演じているのかという質問に対し、「自分はいい加減に演じていて、そんなに力を入れて演じていない。」「(ルパンは)他人じゃないような気がする。」と答えている。2度目では、水野から今作品の見どころについて質問されると、「頭(オープニング)からエンディングテーマまで」と答えている。いずれも、アバウトなコメントとも捉えられそうだが、ルパンという役も作品もとても大事にしている。OVA第一弾『ルパン三世 風魔一族の陰謀』では、レギュラーの声優陣が山田康雄らから変更され、ルパン役は古川登志夫が担当した。ある日、モンキー・パンチのもとに「ルパンをこういう配役でやりたい」という連絡が来た。ところがパンチはこの配役に納得できず、会社の会議に足を運んだ。当時のプロデューサーによれば、理由はギャランティの問題であり、当時の東京ムービーの経営は非常に苦しかったとのこと。パンチはこれまでレギュラー陣にお世話になった経緯からこれを承諾しきれず、「5人の声優さんに前もって話をしてくれること」を条件に許可を出した。ところがそれから1年ほど経過した夜中の1時頃、パンチのもとに山田が電話をかけてきた。声優陣交代の話は山田には伝わっていなかったからなのか、同作でルパン役を担当した古川から初めて事実を聞かされて激怒。酒が入っていた山田はすぐにパンチに怒りの電話をかけて不満をぶつけた。勢いに押されたパンチはついとぼけてしまうが、山田は「これは作者が許可したんだろう」と大きく非難。翌日、パンチは真相を確かめるべく東京ムービーに電話をしてみたが、すでにこの映画のプロデューサーは辞めており、当時この件に関わっていた人物は全員いなくなっていた。パンチはこれをきっかけにアニメ業界が信用できなくなったという。この映画でルパンを演じた古川の話によると、このことは現場から固く口止めされており、オフレコで本当はやりたくないと悩んでいた。山田の物真似ではなく自分の尺での演技をしたのは、製作側からの指示によるものだった。キャスティングの変更はギャラの問題だけでなく、アニメーションの絵にうるさく、ディレクターでもないのに現場を仕切り、声優のギャラの値上げの闘争まで起こした山田の強烈な性格が現場では重い負担となっていたというのが、本当のところであった(しかし、『風魔一族の陰謀』のアニメーションの絵としてのレベルは高いものであった)。結局、同作の不振もあって声優陣は元に戻ったものの、山田とパンチの間にはギクシャクした雰囲気が残ってしまったという。1990年の『ルパン三世 ヘミングウェイ・ペーパーの謎』のゲスト出演の際には山田とパンチは水野晴郎とともに登場した。1993年頃から山田は体調を崩しがちになり、同年のTVスペシャル第五弾『ルパン三世 ルパン暗殺指令』のアフレコの際には、途中から立っているのが辛くなり、後半は椅子に座って収録した。声も前年までと比べて若干勢いがなかった。アフレコ終了の帰り際におおすみ正秋が「体を治して元気になり俺が書く芝居に出て欲しい」と呼びかけるも、普段であれば喜んで引き受けるはずが、その日に限り寂しそうな表情で首を縦に振らずに帰ったという。恐らく自身の寿命が長くなかったことを自覚していただろうと後年語られている。1993年はカリウム欠乏症で歩くことがままならぬ状態になり、入院していたほどであった。翌年のTVスペシャル第六弾『ルパン三世 燃えよ斬鉄剣』でも体調不良を押しての出演となり、山田の声は前年以上に勢いが衰えていた。この『燃えよ斬鉄剣』が事実上の遺作となった。ちなみに『燃えよ斬鉄剣』で次元の「逃げるぞ!」に対して「あいよ〜!」と応じる台詞が山田ルパンの最後の台詞であった。1993年頃、山田はルパンのCDであり自身のCDでもある「ルパン三世・Tokyo Transit〜featuring YASUO YAMADA」制作後、大野雄二に「次のアルバム早く作ろうよ。でないと俺死んじゃうよ」とたびたび電話をかけていたという。関係者の間では、この時期にはすでに自らの寿命を悟っていたのではと山田の死後に語られていたようで、大野自身は多忙で「また冗談言っているよ」とあまり気にしていなかったが、山田の死後に今でも悔やまれることとして述べている。また同時期に、山田は家族に向けての「ハヤイハナシガイショ(早い話が遺書)」という文章を綴っている(いずれも山田の追悼本より)。急逝直前に製作が決定していたルパン三世の劇場映画第五作『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』では、予告編の収録を山田が担当していた。声優陣の話では、すでに体調を崩していた山田は収録の際に車椅子に乗って現れたという。また現在日本テレビでルパン三世のプロデューサーを務める中谷敏夫は、この収録が最初で最後の山田との対面だったという。本編のアフレコに入る直前の2月17日に山田が脳出血で倒れ意識不明となったため、生前に山田と親交があり、自身のものまねのレパートリーにルパン三世を持っていた栗田貫一が急遽「代役」という形でルパンを担当することになる。その後山田が意識不明のまま逝去したため、正式に栗田が2代目ルパン役に決定した。なお、山田は「俺がもうできないってわかった場合は、『ルパン三世』の新作を作るのはやめて欲しい。共に老いさらばえて墓の中にもって行かしてもらいたい」という言葉を残している。山田の死を受け、ルパン三世でなじみのある日本テレビは、『金曜特別ロードショー 山田康雄さん追悼企画』と題してTVスペシャル第一弾『ルパン三世 バイバイ・リバティー・危機一発!』を再放送した(再放送自体は、山田が亡くなる前から予定されていた)。イーストウッドでなじみがあるテレビ朝日も『日曜洋画劇場 山田康雄追悼企画』として追悼番組を組み、朝のワイド番組においても日本テレビは番組の内容を急遽変更し、『追悼特別企画 ルパン三世の山田康雄さん逝く』を放送。フジテレビを含む各社でもワイド番組内にて追悼番組が組まれた。また、NHKも山田の死去の翌日に朝のニュース番組およびバラエティ番組の一部において「人気アニメ『ルパン三世』でお馴染みの俳優の山田康雄さん急逝」と放送した。しかし、山田が亡くなった日の翌朝に地下鉄サリン事件が発生したため、それ以降は報道特別番組の編成に変わっている。葬儀の席では、モンキー・パンチが山田の死後も前述の『風魔一族の陰謀』事件に対し、山田に十分な説明ができなかったことを後悔し、深く悲しんでいた。また弔辞を銭形警部役の納谷悟朗が担当し、納谷は山田の遺影に向かって、銭形がルパンに怒鳴るような口調で「おい、ルパン。これから俺は誰を追い続ければいいんだ!?」、「お前が死んだら俺は誰を追いかけりゃいいんだ」と涙ながらに呼びかけた。大野雄二は「山田さんがいなければルパンじゃない」と山田の死の翌年である1996年にルパン三世の音楽担当を一時降板している(1997年からは復帰)。『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』では、スタッフロールが流れたあとに、哀悼の意を込めて「永遠のルパン三世 山田康雄さん ありがとう」という追悼テロップが付け加えられている。墓所は東京都府中市にある多磨霊園に所在する。山田の没後、生前に担当していた持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。※太字は主役・メインキャラクター。1964年1965年1967年1968年1969年1970年1971年1972年1973年1974年1975年1976年1977年1980年1983年1984年1989年1990年1991年1992年1993年1994年1970年1972年1973年1978年1979年1982年1985年1990年1995年太字はルパン三世が登場するCMで同キャラクターの声を担当したもの1958年1960年1961年1962年1964年1965年1966年1967年1968年1969年1970年1971年1972年1973年1975年1976年1977年1978年1980年1984年
出典:wikipedia
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