漫才ブーム(まんざいブーム)は、演芸界において、1980年 - 1982年のごく短い期間に漫才がさまざまなメディアを席巻し、またメディアに消費された一大ムーブメントである。漫才ブームに火をつけたテレビ番組としては『花王名人劇場』(関西テレビ)・『THE MANZAI』(フジテレビ)などが挙げられる。このため、両番組のプロデューサーである澤田隆治・横澤彪の二人が「漫才ブームの仕掛け人」として名前が挙げられることが多い。現在ではこの評価で定着しているが、漫才ブームが起った1980年のマスメディアは「漫才ブームの仕掛け人は、西の澤田隆治、東の中島銀兵」と呼んだ。中島は『笑点』や『お笑いスター誕生!!』、『爆笑ヒット大進撃!!』を手がけた日本テレビのプロデューサーであるが、横澤のその後の功績が非常に大きいため、先の「仕掛け人は澤田と横澤」で定着していったものと考えられる。『THE MANZAI』自体も初回から視聴率15%超と一定の成功を収めていたが、爆発的な視聴率を獲ったのは、1980年7月1日放送の第3回(27.0%、関東地区、ビデオリサーチ調べ)からであるため、同年4月から放送が始まっていた『お笑いスター誕生!!』で、ブームの火はすでについていたという見方もある。澤田に関しては、よく知られているように「1980年1月20日に放送した『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』で高視聴率を奪って一気に漫才をブームに乗せた」、「漫才ブームを呼んだ男」など、当時の記事の中に既に書かれている。『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』は、関西で視聴率27.2%を獲得し、同時間帯先発各局を青ざめす波紋を呼んだといわれる。吉本興業の制作部東京セクションのチーフだった木村政雄は「このブームは大阪で生産し、東京でブームにしてもらい、大阪に逆輸入した」と話した。東京でブームにしたというのは、テレビのキー局であるフジテレビ、日本テレビが常設番組で火をつけたことを意味する。吉本興業が当時撤退していた東京事務所を再開設したのは1980年10月のこと。社員は木村と当時入社3年目若手社員・大崎洋の二人であった。それまでも個々に漫才コンビが売れることはあったが、漫才界全体にブームが巻き起こったのはこれが初めてだった。このブームをきっかけに、後に『オレたちひょうきん族』や『笑っていいとも!』などのバラエティ番組で活躍する芸人たちが台頭する。先の演芸ブームで世に出た芸人を「お笑い第一世代」、この漫才ブームのそれを「お笑い第二世代」と呼ぶこともある(これは「お笑い第三世代」なる用語がまずありきの便宜上の呼称(レトロニム)であり、当時はこのように呼ばれることは無かった)。この漫才ブームの中心的存在だったB&B・ツービート・紳助・竜介の三組に共通する、掛け合いを無視してボケが一方的に喋りまくるという漫才のスタイルを生み出したのは、紳助の解説によれば、松竹芸能の浮世亭ケンケン・てるてるだという。その漫才を見た、B&Bの島田洋七がこの漫才のスタイルを模倣。大須演芸場でB&Bと共演したビートたけしも、B&Bの影響を受け、ツービートは、たけし一人が喋りまくるスタイルへ変更した。またその頃、学生だった島田紳助もB&Bの漫才を見て「今からの漫才はこれだ!」と漫才師になったという。そしてツービートと紳助・竜介が最初に出会い、同じ舞台の立ったのは、1978年に日本放送協会が主催する東西の若手漫才師の賞「NHK漫才コンクール」及び「NHK上方漫才コンテスト」(NHK大阪放送局主催)の優秀成績者が集まり、東京・上野の本牧亭で公開収録で放送された「東西若手漫才競演」(NHK総合、1978年3月21日放送)に、無名時代のツービートと紳助・竜介の初めての出会いでもあった。漫才ブームが爆発した1980年8月、「週刊朝日」は“MANZAIはどこから来たか“という当時の若手の漫才についての考察を載せている。要旨は以下のようなもの。やすしきよしが登場したとき、そのあふれるようなスピード感と生活実感にびっくりしたが(今の若手の漫才)は、スピードがさらに速い。ストーリーもない。会話すらなくて、一方的なギャグの連発。相棒は合いの手を入れるだけ。そのギャグにしても観客全体を相手にしてはいなくて、わかるヤツにはわかる、わからんヤツにはわからなくていい。むしろわからんでくれればウレシイ、といわんばかりのポーズである。少なくとも、いまの漫才ブームの先頭を走るコンビたちは、これまでの漫才から遠く隔たっているようにみえる。「ヤングおー!おー!」の浜本忠義は「いまの漫才を、これまでの漫才の流の中に位置づけるのは難しい」。読売テレビの有川寛は「かつて漫才は"庶民"を相手にしていた。漫才師がアホになって、客を満足させていたんです。しかし、いまや"庶民"はいない。みんな中産階級になってしまった。漫才は長くその変化に追いつけなかったけど、ここへ来て急激に変わったということでしょう」と話す。また、驚くべきは、昨今の漫才における「言論の自由」の拡大である。その成果は大変なものがある。それまで「差別」に対する批判コワさに、われわれはどれほどびくびくとモノを書いていたか。テレビ局はどれほど神経をとがらせていたか。若手漫才師たちがあっという間に成し遂げた偉業、無謀について深い感慨を持つ。それでも笑って済むのはなぜか。差別も罵倒も、極限までいくとむしろ抽象化されて、アッケラカンとしたホンネの笑いしか残らないのだろうか。古川嘉一郎は「芸といえば、それが一種の芸でしょうね。言葉が一種符丁化されて、ナマナマしい意味を持たなくなっている。きわどい芸です」と話す。今はギャグの時代。ジャリ文化はギャグ漬けになっている。放送評論家・松尾羊一は、1980年11月号の「放送批評」(放送批評懇談会編)に於いて、彼ら新しい世代の漫才について「芸能界の話題、ゴシップ、中傷なんでもござれであり、卑猥なギャグは大いに活用し、相手の頭を叩く、あるいはどつくどころが相手の毒舌に耐えられずボケが勝手に倒れるという風にマンザイは変わってきている」と論じている。「またスピードが非常に早く、そのスリリングな会話と彼ら以前のそれとでは、地面の野球と人工芝の野球の違いがある。ボケとツッコミの会話の完結性の果ての笑い、それがかつての漫才だった。あるギャグでドッとうける。その笑いの波がひくまでの間をおいてから次の話題に入ったものだった。しかし彼らは『ドッと』という笑いをもたない。いやそういう共鳴の笑いを拒否するところがある。高感度のマイクの発達もあろう。捨てぜりふ的なことばも明瞭にひろってくれるマイクの存在も大きい」「彼らを支える大半は若者である。どこのホールでもテレビの公録スタジオでも、ファンはGS親衛隊と同じである。万才がザ・マンザイになったとき、彼らはそこにある笑いが自分たちのリテラシーの世界に属しているものだと直感的に察知する」「笑いが多層化し演じる方も多分にそれを意識しているフシがある。一般にニュー・ウェーブにこれといったストーリー展開はない。アマ的プロ乃至プロ的アマの曖昧な地点で芸界ヒエラルキーに対抗するのである」「漫才界というのは落語界よりも意外に古臭い体質を持っていた。漫才はステージの子であれば自己完結し得た芸だった。むしろ最も非テレビ的な動的な説話だった。しかし今のマンザイからテレビを除いたら殆ど成立しえまい。マンザイはテレビを獲得したときはじめてマンザイなのである。そして過度の類似番組編成によってそのテレビに扼殺されかねない存在でもある」などと論じている。当時「ポンプ」の編集長だった橘川幸夫は、同書で「旧人類はお呼びでない! ニュー・ウェーブ漫才はデジタルな笑い」「それにしても最近の漫才は攻撃的。悪口罵詈雑言弱者攻撃、すごいですなあ。人々のサドマゾ感覚が拡大したのか、それとも管理されたタテマエ社会の中で、ますます『本当に言いたいこと』が言えない日常が拡大して、それの代償行為として漫才が受け容れたのか、よく分からない」などと論じている。漫才ブーム前夜の1978年~1979年にかけ関西演芸界は沈滞ムードに包まれていた。吉本はうめだ、なんば、京都に3花月劇場を経営していたが、関係者からは「もう閉めないとアカンのちゃうか?」という声も上がっていた。NSCの初代校長・冨井善則は「当時は芸人も経済的に厳しかったんとちゃいますか。ベテランも経済的に安定しないと弟子を取れない。取りたくなかったんじゃないかと思う」と話している。そこへ突如やってきたのが漫才ブームである。このブームによって、それまで演芸場の延長線上でしかなかった漫才の客層が大きく変化し、若い女性を中心とするファンが増え、漫才師がアイドル的な人気を得るようになった。それまであまり無かった傾向であり、後のお笑い第三世代と共に、お笑い芸人に対してあったネガティブな印象(泥臭い、格好悪い、いくら頑張っても力関係では歌手の前座で露払い、太鼓持ちなど)を払拭するとともに、高額なギャラを取るお笑い芸人が続出するようになった。例えば大阪時代のB&Bの年収は、二人合わせて70万円足らずだったといわれるが、ブーム時には番組1回の出演料がそれぐらいあったといわれる。「サンデー毎日」は1981年1月4日・11日合併号に掲載した“わッニュー漫才だ! ヤングを捉えるスピードとパワー“という記事で「1980年は"MANZAI元年"。万歳でも、漫才でもなく、まさにMANZAI! ナウで、シティー感覚あふれたニュー漫才が突如、爆発的ブームを呼んだ」と紹介している。代々木の山野ホールでの「お笑いスター誕生!!」の公開録画にぎっしり詰めた客は99%がヤング。人気漫才師の親衛隊が陣取り会場を盛り上げる。「○○サーン」と黄色い声が飛び、五色のテープが舞う。漫才師は、もはや芸人のイメージから遠く、ロックスターの世界へ飛翔した感じである。ニュー漫才とも、ニューウェーブともいう、従来の漫才とはパワーが違う。もはや漫才作家などというものは存在が許されない。とてもじゃないが、いまの感覚についていけないからだ。したがって台本は漫才師が自分たちで書く。これがやれなきゃ結局は伸びていけない。漫才作家は失業して、演芸評論家になった。澤田隆治は「ヤングパワーは時代を切り取った。古い作家には出来ないんですよ」と話した。漫才ブーム以前の漫才は作家がいたが、漫才ブーム以降の漫才師のネタは自作が多く、澤田は「作家はいらん」と言った。漫才ブーム以降は芸は不要、キャラクターが売れる時代になったという見方がある。東京を基盤とする太田プロダクション、大阪を基盤とする吉本興業の所属タレントに多く漫才ブームで活躍したコンビが所属したため、これ以降テレビ業界での両事務所の影響力が拡大した。漫才ブーム以前1970年代後半の吉本興業は、社員数120人、年商40億円程度であったが、1995年には社員数180人、年商は190億円に拡大した。社員の数は五割増えただけなのに、売上げは五倍になったのである。その決定的なターニングポイントが漫才ブームであった。吉本興業は現在でも多大な影響を与えている。異常ともいえた「漫才ブーム」は、1、2年程度で衰えたが「お笑いブーム」そのものは、衰えるどころか、ますます勢いを増した。その中心になったのは上記の漫才ブームにのって出てきた顔ぶれである。「ブームが生んだタレント人気は、そのブームの衰退とともに消える」のが、それまでの常識であったが、彼らは漫才ブーム去ればさらりと漫才を捨て、簡単にコント芸人に転身した。見る側も、初手から彼らを漫才師と思っておらず、お笑いタレントとして見ていたから、その転身に別段の抵抗感もなかった。漫才コンビを単体で集めた『オレたちひょうきん族』が、お化け番組『8時だョ!全員集合』と裏番組で視聴率争いを始めた1982年には、当時のマスメディアも大きく取り上げた。また山城新伍の『アイ・アイゲーム』(フジ)なども人気を集め、この頃から権威に対するパロディが茶の間という公式の場で大手を振るという、テレビ界に娯楽番組の新しい流れが生まれた。吉本興業の若手芸人養成所「NSC」は、漫才ブームが下火になった1982年であるが、開講の引き金になったのは漫才ブームである。NSCの初代校長・冨井善則は「漫才ブームが起こって開講を考えた。ブームで出た漫才師はセンスも違っていた。紳竜なんて、われわれの考えていた漫才を超えていた。そこで若いお客さんが欲している感覚の芸人を育てないとアカンと思った」と話している。1期生は90人の赤字ビジネスとしてスタートしたNSCは、2011年現在、東西で1400人が入学するほどの黒字ビジネスとなっている。ブームが去って以降、ビートたけしや島田紳助、とんねるずらが頭角を現し、漫才師ではないが同時期に現れた芸人であるタモリ、明石家さんま、片岡鶴太郎、山田邦子らが1980年代のお笑いの中心として活躍することとなる。またそれ以降に現れたお笑い芸人、近年活躍するお笑い芸人も、彼らに憧れて、お笑いの世界に入ってきたものが大半であるため、漫才ブームが後世に残した影響は計り知れない。上方の漫才師は秋田實の新人発掘と漫才作家の勉強会「笑の会」出身者が多い。など
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