石原 伸晃(いしはら のぶてる、1957年4月19日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(9期)、内閣府特命担当大臣(経済財政政策)、近未来政治研究会(石原派)会長。規制改革担当大臣(第1次小泉内閣・第1次小泉第1次改造内閣)、国土交通大臣(第3・4代)、自民党政務調査会長(第49代)、自民党幹事長(第45代)、環境大臣(第19代)、内閣府特命担当大臣(原子力防災)等を歴任した。神奈川県逗子市生まれ。鎌倉市立御成小学校卒業。中学校から慶應義塾に通い、慶應義塾高等学校を経て慶應義塾大学文学部都市社会学専攻を卒業。大学時代の部活は日本正統少林寺拳法部の主将を務めていた。大学在学中、エルマイラ大学(アメリカ合衆国ニューヨーク州エルマイラ)に留学した。大学卒業後、1981年、日本テレビ放送網に入社。報道局に入局し、大蔵省や外務省、首相官邸等を担当した。1989年、日本テレビを退社。1990年、第39回衆議院議員総選挙に旧東京4区(定数5)から無所属で出馬し、自由民主党の粕谷茂に次ぐ得票数2位で初当選。当選後、自民党に入党し、安倍派に入会。1993年の第40回衆議院議員総選挙では、新党ブームに押されるも得票数5位で再選。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、東京8区から自民党公認で出馬。後に杉並区長に転出する新進党の山田宏を約7千票差で下し、3選。1996年、第2次橋本内閣で通商産業政務次官に任命された。1998年の金融国会では、金融再生関連法案の成立に尽力し、所謂「政策新人類」に名を連ねる。同年、三塚派(安倍派の後身)を退会し、加藤派に入会する。2000年の加藤の乱では、首相・森喜朗らに対する政権批判の急先鋒であり、内閣不信任決議案の採決では欠席した。加藤の乱の後、分裂した加藤派を退会し、その後2007年までは無派閥であった。2001年、第1次小泉内閣で規制改革担当大臣に任命され、初入閣。あわせて「行政改革を推進するため行政各部の所管する事務の調整」を担当する国務大臣も兼任し、第1次小泉第1次改造内閣まで務める。2003年に発足した第1次小泉第2次改造内閣では国土交通大臣、「首都機能移転の具体化に向けた検討を推進するため行政各部の所管する事務の調整」や「観光立国を実現するための施策を円滑に推進するため行政各部の所管する事務の調整」を担当する国務大臣を兼任。国交相在任中は主に道路公団問題等に取り組み、民営化に強く反対していた道路公団総裁の藤井治芳を更迭した。2004年、第2次小泉改造内閣発足に伴い国交相を退任し、党金融調査会長に就任。2005年には、長らく古賀誠ら道路族がそのポストを占めていた党道路調査会長に就任した。2006年、総裁・安倍晋三の下で幹事長代理に就任。翌2007年の党役員人事では自民党政務調査会長に起用され、初めて党三役入りした。同年12月、山崎派に入会。2008年、福田康夫の辞任に伴う自由民主党総裁選挙に出馬するが、得票数4位で落選した。新総裁・麻生太郎の下、再び幹事長代理に就任。2009年7月、自民党は東京都議会議員選挙で大敗。東京都連会長であった石原は、敗北の責任を取り都連会長を辞任する意向を表明したが、第45回衆議院議員総選挙が迫っていたため辞任は了承されなかった。同年8月の第45回衆議院議員総選挙では、東京8区で社会民主党前職の保坂展人を破り、7選。選挙後の自由民主党総裁選挙では谷垣禎一の推薦人に名を連ねた。谷垣執行部で国民運動本部長に起用された。また、東京都連会長に再任される。2010年4月、政権力委員会発足に伴い、本部長代理に就任。同年9月の党役員人事で、自民党幹事長に起用された。2011年の党役員人事においても幹事長に再任。2012年9月、自由民主党総裁選挙に出馬する意向を表明。尚、現職の総裁である谷垣も出馬に意欲を示していたため(最終的に出馬を辞退)、総裁を押し退ける形で出馬を強行した幹事長の石原に対しては党内から批判の声が上がり、麻生太郎は9月13日の会見で「下克上とか平成の明智光秀(という)、ありがたくない冠をこの人は当分頂くことになる。私の人生哲学には合わない」「石原氏を支援する人の神経がよく分からない」と批判した。9月26日の総裁選では、1回目の投票で96票を獲得したものの得票数は5人中3位であった。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、東京8区で無所属で俳優の山本太郎らを破り、8選。選挙後に発足した第2次安倍内閣で環境大臣・内閣府特命担当大臣(原子力防災)に任命された。また、近未来政治研究会を山崎拓から継承し、同会第2代会長に就任した。2014年9月の内閣改造で閣僚を退任。2016年1月28日、第3次安倍第1次改造内閣の甘利明経済財政相の辞任を受け後任の内閣府特命担当大臣(経済財政政策)に就任した。天皇がフィリピン訪問中のため、閣僚認証式は国事行為臨時代行中の皇太子徳仁親王が行った。閣僚の認証式が臨時代行されるのは平成初。同年8月3日、東京都知事選挙の党推薦候補の敗北を受けて、都連会長を辞任(後任の会長は下村博文)。2012年9月14日、自由民主党総裁選挙の立候補者5人による共同記者会見において、河野談話について評価した上で「広義においてはそういうこと(強制連行)もあったんではないかとうかがえる文面になっている。そこに知恵があった」と述べた。2012年9月11日のテレビ朝日系『報道ステーション』にて、中国による尖閣諸島侵攻の可能性を問われ、「攻めてこない。誰も住んでいないんだから」と断言。産経新聞は「国家主権に関わる領土問題について認識の甘さを露呈」と批判的に報じた。父は参議院議員、環境庁長官、運輸大臣、東京都知事を歴任した、日本維新の会共同代表の石原慎太郎。慎太郎が衆議院議員(旧東京2区選出)在職中、伸晃は旧東京4区から出馬しており、慎太郎の元々の地盤であった品川区、大田区及び島嶼部を含む選挙区からの出馬経験はない。弟にタレント、気象予報士の石原良純、衆議院議員の石原宏高、画家の石原延啓がいる。父・慎太郎の旧東京2区の地盤は事実上、弟・宏高が継承した。週刊文春に「チャンスに打てない中軸打者」、「“お坊ちゃま”特有の打たれ弱さは抜けそうにない。お坊ちゃま」と批判され、党内からは「攻撃力に欠ける」との声や、「打たれ弱さ」と「のん気さ」ばかりが目立つとも指摘された。麻生太郎元首相(現副総理・財務大臣)は、当時の谷垣禎一自民党総裁(現在は、自民党幹事長)を裏切った石原伸晃(谷垣自民党総裁の部下の自民党幹事長であった。)を「平成の明智光秀だ。」、「人間としてどうか」と批判したことがある。新宗教・崇教真光の信者である。秋季大祭の来賓の中でも石原は少年の頃、岡田光玉と岡田恵珠が自宅に訪れたエピソードを42周年秋季大祭(2001年)の祝辞にて披露した。45周年秋季大祭(2004年)では自身が組み手(信徒)であることを明らかにし、組み手としての立場をメインに祝辞を述べた。46周年秋季大祭(2005年)では中級に昇格したことを祝辞にて紹介している。また、2009年-2010年の間に、自身が代表を務める自民党東京都第8選挙区支部の政治資金より、「会費」の名目で崇教真光に対し計36万円以上を支出している。石原はのちに「適正に処理し報告」したと述べ、政治資金からの支出ではなく本人のポケットマネーからの支出として再計上した。一方、同じく新宗教である新生佛教教団を信仰し、同教団の山口市の本部や、東京都墨田区にある東京支部によく顔を出している、とも報道されており、石原の政治資金パーティーにおいて、同教団からの収入が計上されている。なお、神道政治連盟国会議員懇談会にも属している。また、日本共産党の機関紙しんぶん赤旗には以下のように報じられた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。