零式観測機(れいしきかんそくき)は、太平洋戦争中に運用された大日本帝国海軍(日本海軍)の水上観測機・偵察機。略符号はF1M1~M2、略称は零観(ゼロカン)、または「観測機」。連合国コードネームはPeter。また、零式水上観測機と通称されることもある。海軍省は1935年(昭和10年)に短距離偵察と弾着観測を主任務とし、高い空戦能力を持つ複座水上偵察機の試作を十試水上観測機の名称で愛知航空機(現・愛知機械工業)と三菱重工業に指示した。これは、従来の水上偵察機に水上戦闘機的な性格を持たせ、敵の同種機の妨害を排除しつつ任務遂行できる機体を目指していた。三菱ではこれまでほとんど水上機の経験がなかったのであるが、ベテラン設計者である設計課長服部譲次の指導のもと、佐野栄太郎が設計主務となる。佐野は幸い神戸三菱造船所への勤務経験があり、適切に設計を行う事ができた。三菱が試作した機体は、速度は犠牲とし、空戦能力と上昇力を重視してあえて複葉機とした。胴体は全金属製のセミ・モノコック構造で、細身の楕円状の主翼を有していた。フロートや主翼間の張り線や支柱は極力省き、尾翼も片持ち式とし、空力的に考慮された設計となっていた。1936年(昭和11年)6月に試作1号機が完成し、愛知が試作した機体に加え、川西航空機(現・新明和工業)から提案された機体も加えた三者で比較審査が行われた。三菱の提案した機体は速度や運動性能に関して言えば要求通りだったものの、飛行中不意に自転する傾向があることが指摘された。この解決のために三菱では、主翼の形状を大幅に改め、直線整形のものにした他、垂直尾翼も20種類以上の形状を試用し増面積するなどの必死の改修を行った。一方、川西は三菱の複葉に対抗するべく単葉機で臨んだが、初期試験段階で落第した。当初のエンジンは中島飛行機(現・富士重工業)製「光」(単列・出力約700hp)であったが、この改修中に三菱製の新型エンジン「瑞星」(複列・出力約800hp)が完成したため2号機ではこれに換装したところ、速度面等が大幅に改善し、最高速度370km/h、5000mまでの上昇力9分と高性能を発揮した。だが競争相手の愛知機も格闘戦に優れた優秀機で慎重な比較検討がなされたが、本機の方が格闘性能が優秀であることと、愛知機の主翼外板が合板製であり温度・湿度に対する脆弱さがある点が問題となり、1940年(昭和15年)12月、「零式一号観測機一型」として制式採用された。太平洋戦争では、本来の任務である戦艦の着弾観測に活躍する余地がなかったため、ほぼ水上偵察機として使用されていた。しかし本機は複葉機ながら補助翼の一部を除き全金属製の近代的な機体で、無類の安定性と高い格闘性能を持っており、二式水上戦闘機よりも軽快だったという。特設水上機母艦神川丸や國川丸にも配備され、アリューシャン方面やソロモン方面ショートランドなどに展開。船団護衛、対潜哨戒、敵施設の爆撃、さらにはその卓越した空戦性能を生かしての離島の基地における防空など、時として二式水上戦闘機と肩を並べ、様々な任務で幅広く活躍した。その他バリクパパン方面やアンボン方面にも進出している。太平洋戦争の中期までは戦闘機の代わりとして米戦闘機や爆撃機と空中戦を行うこともしばしばあり、複葉複座の水上観測機ながら敢闘、零戦隊と協力してのP-38の撃墜報告や、P-39、F4Fの撃墜報告などを見せる。駆逐艦によるガダルカナル島への強行輸送作戦「鼠輸送」従事中、たびたび零式観測機の援護を受けた田中頼三第二水雷戦隊司令官は、零観隊の掩護に感謝の言葉を述べている。速度性能と武装で決定的に不利となった1945年(昭和20年)2月16日ですら、アメリカ本土空襲で有名な藤田信雄少尉が操縦する鹿島空の零式観測機が本土に来襲したグラマンF6Fを迎撃し、格闘性能を活かして1機を未確認撃墜(藤田は機首7.7ミリ機銃の射撃によるエンジン発火状態での撃破確認であるが、近隣の香取空がF6Fの地上墜落を確認している)するという戦果を上げた(ただし、藤田と共に同時に迎撃した5機の零式観測機のうち2機は出撃直後に機銃故障で避退、残りの3機のうち2機は撃墜され、2機の二式水上戦闘機は1機が撃墜されている)。1943年(昭和18年)以降は、船団護衛や対潜哨戒が主務となり第一線からは退いたが終戦まで活動を続け、一部の機体は特攻機として沖縄戦で使用された。また、複操縦装置を搭載した練習機型が零式練習用観測機 (F1M2-K) として生産されている。生産は三菱の他佐世保工廠でも行われ、総数は約708機(三菱528機(試作機4機含む)、佐世保約180機)である。生産数については1,118機、1,005機等の説もある。
出典:wikipedia
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